原爆と原発は違います。
原爆が許されるべきでないのは、それが大量破壊兵器で、一般市民を無差別に殺害するからであって、放射能を使用しているからではないはずです。ところが、これまで平和活動などと称して原爆の禁止を主張していた人たちが、原爆を投下された広島を「ヒロシマ」として世界に知られたのと同様に、今回桁外れの自然災害によって起きてしまった原発事故の発生地を「フクシマ」などと表記したがるのは、一体どういったわけなのでしょうか?
今年の8月ころ、「フクシマ」という表記が多く用いられるのを目にした私は、風評被害の温床以外には成り得ず、そうした象徴的な用い方は50年後にでも行えば良いと考え始めました。そして、ベルギーでサッカーの川島選手が、相手チームのサポーターに「フクシマ」と連呼されて激怒したように、差別的な使用に対して、毅然と対応するべきだと思い、厳に「フクシマ」という表現を封印しました。
本日、産経新聞の記事(「フクシマ」という境界 絆は「壁」を超えられるか)を目にしました。 他人事とはせず(「子供が心配」といった口上を含む)、ひとりひとりが自分のこととはせずに、真剣に考えなければならないと思います。
産品に含まれる実際の放射線量の計測値という科学的なデータを無視し、また同じ県内でも汚染の程度は全く違う客観的な事実を無視し、産地差別などをする者は、科学者では有り得ません。そういう者は、悪質なアジテーターでありデマゴーゴスに過ぎません。
某火山学者など、自分で汚染マップを作成し、汚染の程度が県内でも大きく違うことを提示しながら、「〇〇県」のものを食べず、そこに行くべきでもないなどと主張していましたが、このような者は専門外であっても科学者とは言えず、単に錯乱した戯け者としか評価できません。
客観的なデータに基づき研究する者であるなら、恥を知っていただきたいものです。