今日の産経新聞で、立命館大学の加地先生が、海江田万里氏が民主党代表に選ばれた際の漢詩を、「決まり文句ただ並べただけ」の「下手な詩」で、「下手の横好き」にせよ漢文の語句の意味を理解しない「メチャクチャ」な「和臭のある作品」に過ぎず、「無教養をさらす」と、散々に酷評されている。教養をひけらかしたつもりが、底浅さを露呈するのはよくあることなので、恥をかかないように他山の石として自戒したいものだ。
知ったか振りの浅知恵で恥をかくのは、身に覚えも多い世の常ながら、昨今の大阪市立の体育の高校での問題について考えていると、以前目にした、やはり浅知恵としか思えない童謡をめぐる評価を思い出した。それは、うろ覚えだが、「だれが生徒か先生か」「みんなで元気に遊んでる」民主的で自由な雰囲気の『めだかの学校』に対して、『雀の学校』の先生は、「チイチイパッパ、チイパッパ」「ムチを振り振り、チイパッパ」と、ムチ(鞭)による体罰で生徒を従わせており、何と軍国教育的なことか!といった内容であった。
無論、これは誤解、むしろ曲解だ。今でも生徒に教えることを「教鞭をとる」などと表現するように、昔の教師は手にすることが多かったが、それは体罰の小道具としてではない。ムチが体罰にしようされるいった発想は、昔の映画でインディジョーンズが武器にしていた長~いものや、サドの女王様がピシ~リピシ~リとマゾ男に振るうようなムチしか連想できないムチ、否、無知でなければ成り立ち得ないように思う。もちろん。教鞭とは華奢なもので、教科書や黒板をパンパン叩いて音を出したり、板書の重要箇所を指し示したりするのを目的としている。体罰などに使用したら、教鞭の方が壊れてしまうはずである。そもそも「ご指導ご鞭撻をよろしくお願いします」と恩師などに挨拶する時、「鞭撻」、ムチでピシ~リピシ~リされようと願っている人は、たぶん、いない(いたら変態)。この「鞭撻」は慣用句に過ぎないが、意味を考えるにしても、教鞭でパンパンと音を立てるように、注意喚起をしてくれたり、人生の行くべき方向を指し示してくれたり、そういった恩師の「鞭使い」を期待していると考えるのが、真っ当なところであろう。
歴史的背景として、昭和25年作詞の『めだかの学校』が、戦後デモクラシーの所産であるとすれば、大正10年の『雀の学校』も大正デモクラシーの時代のごく平和な学校風景を歌っているに過ぎない。「生徒のスズメは輪になって、お口をそろえてチイパッパ」「まだまだいけないチイパッパ、もいちど一緒にチイパッパ」、の歌詞だけでも、実に平和的な小鳥たちの戯れしか思い浮かばず(あの曲調は軍国主義とは無縁だろうに・・・)、また、それを比喩とした、汗水たらして、傍から見れば多少ユーモラスに、あっちこっちと動き回って、教鞭を指揮棒のように忙しく振って、コーラスの指導をしてる人間の学校の先生の姿しか連想しようがないではないか。
この鞭に対する無知によって生じる「ムチを振り振り、チイパッパ」を、ムチによる体罰教育を象徴すると見なす的はずれな解釈、それが体罰を否定する立場からの誤解なら可愛げもあるかもしれない。しかし、体罰を肯定的に捉えるものと曲解する人もいないとは限らない。「教師の指導には体罰が必要だ。愛のムチと言うではないか。『雀の学校』の先生も鞭をふりふり奮闘しているし・・・」。と言うわけである
そもそも、生活指導上に行う体罰は、頬っぺたかお尻に平手打ちと古より決まっていて、それ以外はたんなる暴力なのだが、それも理解していない人が多いのは不思議だ。第一、生活指導上に行われる体罰とは、すなわち教師による親権の代理処分以外ではない。それは、甘やかすとつけあがり将来的に他人様へ迷惑をかけるようになりそうで言っても聞かないような場合に限り、その子の将来を思って(その子に被害を受ける人が出ないことを願って)行われるもののはずだ。いったい、部活動に自由意思で参加し、上達したいと指導されることを望む者に対し、体罰など不必要に決まっている。言って聞かないからの体罰で、言ったら聞くのに体罰するなど、指導する側が口も聞けないバカであるのを示すに過ぎない。「2軍に落とすぞ!」で震え上がってくれるような従順な子供に、何で暴力の必要があるものか。自分のストレス発散に過ぎない暴力、軍隊の新兵イジメの如き目下のものに対する卑劣なパワーハラスメントを、指導という名の元に正当化するなど、愚劣極まりないとしか言いようがない。
私は当初、責められるべきは、その顧問教師個人であり、さらにそれを管理できなかった学校であり、その学校を監督できなかった教育委員会であり、つまり『オトナ社会』が悪いので、その犠牲者とも言える立場の在校生徒たちへの影響は、極力止めるべきだと思っていた。従って、大阪市長の橋下氏の発言には首肯出来なかったが、この間報道される内容を見聞きしていて、考えが変わった。まず、事件が露見した当初の、学校など加害者と言って良い『オトナ社会』の反応が奇っ怪であった。顧問教師の暴行を苦に、部活動のキャプテンだった生徒が自殺してしまっているにもかかわらず、その顧問教師や学校側は「教師の指導には体罰が必要だ。愛のムチと言うではないか」といった認識を平然と示し、さらに保護者の集まりでも同様の意見が父母から出ていたと言うのである。教師なり指導する立場の者が、鞭をふりふりチイパッパ苦労するのは、その子の人格を認め、原則的に体罰をせず、褒めたりすかしたりしなければならないからなのに、この脳みそも筋肉らしい連中は、自分の生徒や子供を、ぶん殴ってひっぱたいて体に覚えさせねばならない牛馬のような存在と見なしているのではないか?それでも、生徒たちは苦悩しているに相違ないと思っていたら、他の部活の在校生徒が、いったいどこのオトナに使嗾されたのか、理解不能な記者会見を行った(行わされた?)。甚だ遺憾なことに、その内容に、自分たちを牛馬として扱う如き体罰を否定する決意は無く、むしろ指導と称する暴力を肯定し、亡くなった生徒への労りよりも自分たちへの悪影響を嘆くばかりに聞こえた。私は愕然とした。周囲の歪なオトナたち、その腐れ外道どもの暴力でしつけられ、それに従順するばかり、これでは、たんなる「スポーツ馬鹿」になってしまうとの危機感がなさすぎるではないか。
指導ではなく理不尽な暴力を受けたとして、自分たちと同じ立場の生徒が死んでいるのである。これは憤死であって、それを抗議の死と見なさなければ、亡くなった者はうかばれないだろう。つらい思いをした仲間の気持ちを正面からとらえず、仲間の死に無力であった我が身を自省せず、現状を肯定し被害を訴えても、第三者は同情してくれるわけがあるまい。社会はさほど甘くないし、そもそも共に闘う仲間を大切にし仲間を労わる気持ちを涵養することこそが、集団スポーツ競技の教育的意味合いのはずなのに、一体何を教え教わってきたのか、と、残念に思うより腹立たしく思えたのである。
高校なんぞたった3年だ。その3年が、たった十数年しか生きていない連中の主観においては、重要に相違なく、体育会系なら部活動のために生きていると錯覚するくらいに特別でも不思議はないだろう。しかし、人生は彼のように自殺でもしない限り、今現在、特別な部活動を終了した後も、長く長く続く。それは、オトナならみんな知っている事実だ。プロの運動選手となるわけでもなければ、部活の3年で得るべきものは、記録としての大会の成績よりも、努力した記憶とそれによって培われるはずの精神でなけばならない。それは確かに立て前の綺麗事で、文系の私に言わせれば「ウザイ」面が強いものの、それなりに真実でもある。そういった教育としてのスポーツの大前提すら見失った部活動に、気づかず、牛や馬のごとく無考えに励んでいた生徒たちには気の毒だが、この際、じっくり自分を見つめ直すことこそが、将来につながるものではあるまいか。
かくして、在校生徒には同情していたが、同情しては為にならないと思うに至ったのである。
すでに体育の施設が充実した名門高校は存在しない。栄光は過去のもので、過去の栄光すら泥を塗られてしまった。塗ったのは、自殺した彼ではない。泥にまみれているのに気づかずに気づかなかっただけのことだ。気づいて排除すべきは、周囲のオトナたちだが、泥まみれに気づかずにいた在校生徒も、しっかり考えねばならない。他人事ではないのである。当然、過去を求めて新たに入学しようとするのは無いものねだりであり、自分のいる間だけでも同じであって欲しいと願っても、もはや無理でなのである。
もちろん、かなりの程度スポーツに特化した公立の高校教育があっても良いし、そこに在学して部活動に励んだことは恥ずべきことではなく、その自分自身を大いに誇りとすべきだ。今回の問題のほとんど全ては、専門的教育の現場を理解せずその内容をチェックもせず、野放しにしていたばかりか、たびたびあった警告を黙殺した大阪市の公共教育に携わるオトナたちの責任に相違なく、在校生たちには何の罪もない。彼らは、基本的には、たった3年の間、たまたまそこにいたに過ぎない。しかしそれは部外者の客観的な話。母校に誇りを持ち、3年の学校生活を悔いなく送っているのであれば、母校の問題点と仲間との連帯感を持たねばならない。そうでなければ、その学校にいる自分のアイデンティティを失うだけで、そこにいる意味がない。
もし、個々の主観として、自分と同じ学校の仲間の死を真剣に受け止めるより、自分の部活動への影響を先に考えてしまっていたとすれば、人としてスポーツ選手として同校の生徒として、それが正しい在り方なのか、その自分自身を深く考えるべきだろう。それをしっかり考えることこそが、目先のスポーツ大会に記録を残すより、高校卒業後の人生の糧になるはずである。若い諸君には、阿呆で無責任なオトナに振り回されて災難に相違ないが、一部顧問の無知に基づく『無知の鞭』よりも、この逆境こそが、正しく自分を鍛える機会(鞭撻)になったと思えるように、頑張っていただきたい。
末尾ながら、この際、橋下市長にも期待したい(国政より市政難題多しのようですね)。