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カテゴリ:文鳥動向の備忘録
ニッキ悪化急 ニッキの調子が夕方から極端に悪くなり、放鳥時には、自分で飛んででることは出来たが、ずっと↑のような状態で、途中、床に不時着した後は飛び上がれなくなっていた。 捕獲してお腹を確認すると、黒くかなり腫れており、胆嚢腫かもしれないと、思われた。食べてはいるので、特に必要は無いと思ったが、ハチミツ水を2、3滴飲ませて、早々にカゴに戻した。 それで、明日、無事なら、動物病院に連れて行くか否か思案している。・・・高齢、非手乗り、真冬、胆嚢腫の疑い、行ったほうが楽なのは、飼い主の気持ちだけかもしれない。 今年の初詣は、昨日、近所の小社で済ませた。熊野三社を祀った無人の祠のようなものだが、もともとは村の鎮守様である。世の中には、いろいろな興味関心の持ち方が有り、実に有難い知識をインターネット上に提供される方がいるものだが、この我が「村」の神社を取り上げた情報もある(『全国熊野神社参詣記』該当ページ)。 そこでも写真で紹介されているが、社の脇に『熊野三社遷座記念碑』との石碑があり、享保八年(1723年)、18戸から成る神戸村が、熊野から御神体を迎え、以来鎮守としてきたとあり、その後、明治39年に木曽呂朝日神社に合社され、太平洋戦争の敗戦後に戻すことになったものの、元の地(350坪)が昭和23年に公有地となっていたため(現在の神根公民館・消防署)、山岡正義氏が雀田88番地の60坪を奉納して、昭和26年に遷座、さらに昭和63年、外環道などの建設に伴い、上の台268番地の50坪に遷座した旨、説明されている。 しかし、最近引っ越してきた私は、享保8年に勧請されたのは、境内社のお稲荷さんの方だと思う。なぜなら、すでに十数戸が存在する村に、享保年間まで神社が無いとは考えにくく、そもそも村名が「神戸」となれば、これは神社の封戸、つまり、古代か中世より神社の所領であったことに由来するものと考える方が自然で、この辺りは、縄文弥生平安・・・時代が変遷しても人が住み続けていた一帯と、発掘調査で確認できるから、かなり古くから、熊野三社の御師の活動が見られたのではないか、と想像できようか。 と、案外、由緒は古いかもしれない神社に、賽銭を放り込んで、手を合わせたが、特に願い事はしなかった。文鳥たちの健康を祈願していれば、神様に対し、今頃、心穏やかでは無かったかもしれないので、それで良かったと思う。
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