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雀坊の納戸~文鳥動向の備忘録~

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2017年12月16日
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カテゴリ:文鳥動向の備忘録
​​お疲れのご様子なアラシ​​

 ​今日の『産経抄』​を読んで、不思議なことに、あの赤松さんの意見に、むしろ賛同したくなった。「元日は早朝から重要行事が続く」などと、宮中祭祀を絶対的なもののように見なすような意見より、「皇室の神事は国民生活に何の関係もない」「年末年始の宮中行事は陛下である必要はない」という意見の方が、はるかに【リアル】だからである。
 正月の宮中祭祀?1月上旬に亡くなられた昭和天皇が病臥されていた際は、皇太子(今上陛下)が執り行われたはずだ(年賀状を「自粛」したり・・・)。また、そもそも譲位の議論の際は、産経新聞御用達の「保守」の論客である大先生の中に、天皇陛下は(心身ともに正常でなくなっても)いるだけで良いなどと仰っていた方がいらっしゃったではないか。そのような意見との整合性はどうなるのだろうか?もちろん、天皇が幼弱だった事例は数多あり、それでも国家安寧の祈りは絶えなかったとするのが建前ながら、実際は、祭礼主催者を必須として欠かせないといった厳密なものではないのである。第一、一般の人は意識もしていないかと思うが、最重要な宮中祭祀は11月の新嘗祭であり、年始の祭礼など国家のために祈る祭祀王として側面において不可欠なものか、はなはだ疑問と言わざるを得ない。また、旧例を墨守するのが天皇の祭祀であるなら、旧暦でなくて良いとする理由を説明してもらいたいものである。
 要するに、明治時代に近代国家に生まれ変わった日本が、弱肉強食の帝国主義の時代にあって、天皇陛下を欧州の絶対的君主になぞらえる必要に迫られた際に、その時代の都合の良いように制度を整えたのが実情で、それは悠久の皇統から見ればたかだか100年余の話に過ぎず、それこそ、時代の必要性に応じてその在り方を柔軟に変容することで、天皇家の弥栄が保たれてきた証拠でしかない。
 結局のところ、法令を遵守するのを本分とする役人の習性をわきまえず(知悉していても、研究している専門家とは違う)、さして知らないがために、何でもかんでも現在の仕組みを伝統として尊重せざるを得ないものと情緒的に錯覚し、必要以上に一役所の意見を尊重してしまっただけではないかと思う。もちろん赤松さんのような方が、ご皇室の在り方に意見を述べる立場にあるのは、奇妙に思えるが、国民主権の民主主義国家において、国民生活に悪影響を及ぼすような内廷行事などあってはならず、あれば絶えず修正して、赤松さんのような方にも批判されないようにしていくことが、ご皇室を守ることにもつながるものと気づかせてくれただけの価値は認めるべきだろう。
 もっとも、今回は皇統においてごく当たり前の譲位を実現するだけで、「明治ノスタルジー」な方々が大騒ぎだったので、政府がそれを復活させただけで精一杯となったのも、やむを得ないようにも思える。しかし、5月1日は国民が静かにお祝いできる、などと情緒でしかない理屈は滑稽であり、後世物笑いの種になってしまうのは覚悟すべきであろう。なぜなら、皇室を尊重する人がいかに多くとも、実際問題として、改元をお祝いするか否かは、主権者たる国民各位の自由勝手なので、一部の情緒を他に押し付けるのは無理であり、それは論理的な説得力を持ちようがないからである。
 もちろん、「皇室の神事は国民生活に何の関係もない」のは合理性のみでの意見で、国民国家の象徴たる天皇陛下が国家安寧を祈る伝統は厳に存在する(それが新嘗祭であり代始めは特に大嘗祭となる)。多くの国民は情緒的にそれに期待していて不思議はなく、そうした情緒とは言え存在する現実を無視すれば、現実離れした教条的な意見でしかないと言える。また、「年末年始の宮中行事は陛下である必要はない」も、陛下の人格を無視し、誠心誠意努める御心を踏みにじっている印象を受け、それは天皇の主体性を封殺し譲位に反対した「保守」もしくは明治ノスタルジーのロマンチストの考え方と同じことになっていると言える。陛下だから基本的人権を無視し人格を否定し得るなどという考え方は、それが左右いずれの思想に基づこうと、およそ許すべきものではない。
 しかし、国民主権の自由民主主義国家としては、国民生活への悪影響こそ避けねばならないのは、まさに一義的な事項であり、また、陛下が健全でなくとも代務が可能なのも、歴史的事実に他ならない。そのように、科学的にせんじ詰めれば、不合理、として排除されかねないのが、ほとんどの情緒であり多くの伝統であり天皇制でもあるので、そのような人間的な情緒、もしくは日本人としての伝統を無視した排除論を避けるため、時代に合わせた修正が絶えず必要になる。過去、明治時代の姿に個人的なノスタルジーを感じ、その実践を夢見るロマンチストも結構だが、それだけでは現在未来は覚束ないのである。
 元旦に改元することで、元号を西暦と連動させ形骸化するのを防ぎ、元号の伝統を継承しやすくすることが出来るものと期待していた。さらに、年末年始の宮中行事を整理し、陛下やご皇族方に過重な負担が短期間に集中しないように変革する契機にもなり得るかと思っていた。そして、政府の指示により優秀な宮内庁の官僚たちが、必ずやそれを実現してくれるものと期待していた。かくして、「皇室の神事は国民生活に何の関係もない」が、害のない伝統行事なので、廃止する理由もない、ことになったのではなかろうか?「年末年始の宮中行事は陛下である必要はない」が、やはり象徴たる陛下が執り行われるのが本来の姿で、国民の多くも(漠然とながら)それに期待しており、それを実現継続させるため、陛下のご負担を軽減している、と言えるように改める機会に成り得たはずである。
 ・・・かえすがえすも残念。次の機会があるのかも不安だが、次回があれば、今度は情緒に流されず保守(「天皇家の弥栄」)のための改革をこそ望みたい。

 ・・・くたびれた。
 で、それはさておき、アラシが↑のような様子なので、おそらくまた産卵を企てているに相違ない。しかし、あまりに頑張りすぎているので、次回以降は孵化させない方向で行動するつもりだ。
 できればのんびりしてもらいたいのだが・・・、無理だろうな・・・。





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Last updated  2017年12月17日 10時52分30秒
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