JEWEL
日記・グルメ・小説のこと709
読書・TV・映画記録2698
連載小説:Ti Amo115
連載小説:VALENTI151
連載小説:茨の家43
連載小説:翠の光34
連載小説:双つの鏡219
完結済小説:桜人70
完結済小説:白昼夢57
完結済小説:炎の月160
完結済小説:月光花401
完結済小説:金襴の蝶68
完結済小説:鬼と胡蝶26
完結済小説:暁の鳳凰84
完結済小説:金魚花火170
完結済小説:狼と少年46
完結済小説:翡翠の君56
完結済小説:胡蝶の唄40
完結済小説:琥珀の血脈137
完結済小説:螺旋の果て246
完結済小説:紅き月の標221
火宵の月 二次創作小説7
連載小説:蒼き炎(ほむら)60
連載小説:茨~Rose~姫87
完結済小説:黒衣の貴婦人103
完結済小説:lunatic tears290
完結済小説:わたしの彼は・・73
連載小説:蒼き天使の子守唄63
連載小説:麗しき狼たちの夜221
完結済小説:金の狼 紅の天使91
完結済小説:孤高の皇子と歌姫154
完結済小説:愛の欠片を探して140
完結済小説:最後のひとしずく46
連載小説:蒼の騎士 紫紺の姫君54
完結済小説:金の鐘を鳴らして35
連載小説:紅蓮の涙~鬼姫物語~152
連載小説:狼たちの歌 淡き蝶の夢15
薄桜鬼 腐向け二次創作小説:鬼嫁物語8
薔薇王転生パラレル小説 巡る星の果て20
完結済小説:玻璃(はり)の中で95
完結済小説:宿命の皇子 暁の紋章262
完結済小説:美しい二人~修羅の枷~64
完結済小説:碧き炎(ほむら)を抱いて125
連載小説:皇女、その名はアレクサンドラ63
完結済小説:蒼―lovers―玉(サファイア)300
完結済小説:白銀之華(しのがねのはな)202
完結済小説:薔薇と十字架~2人の天使~135
完結済小説:儚き世界の調べ~幼狐の末裔~172
天上の愛 地上の恋 二次創作小説:時の螺旋7
進撃の巨人 腐向け二次創作小説:一輪花70
天上の愛 地上の恋 二次創作小説:蒼き翼11
薄桜鬼 平安パラレル二次創作小説:鬼の寵妃10
薄桜鬼 花街パラレル 二次創作小説:竜胆と桜10
火宵の月 マフィアパラレル二次創作小説:愛の華1
薄桜鬼 現代パラレル二次創作小説:誠食堂ものがたり8
薄桜鬼 和風ファンタジー二次創作小説:淡雪の如く6
火宵の月腐向け転生パラレル二次創作小説:月と太陽8
火宵の月 人魚パラレル二次創作小説:蒼き血の契り0
黒執事 火宵の月パラレル二次創作小説:愛しの蒼玉1
天上の愛 地上の恋 昼ドラパラレル二次創作小説:秘密10
黒執事 現代転生パラレル二次創作小説:君って・・3
FLESH&BLOOD 二次創作小説:Rewrite The Stars6
PEACEMAKER鐵 二次創作小説:幸せのクローバー9
黒執事 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:碧の花嫁4
火宵の月 BLOOD+パラレル二次創作小説:炎の月の子守唄1
火宵の月 芸能界転生パラレル二次創作小説:愛の華、咲く頃2
火宵の月 ハーレクインパラレル二次創作小説:運命の花嫁0
火宵の月 帝国オメガバースパラレル二次創作小説:炎の后0
黒執事 フィギュアスケートパラレル二次創作小説:満天5
薄桜鬼 昼ドラオメガバースパラレル二次創作小説:羅刹の檻10
黒執事 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧の騎士2
薄桜鬼ハリポタパラレル二次創作小説:その愛は、魔法にも似て5
薄桜鬼 現代妖パラレル二次創作小説:幸せを呼ぶクッキー8
黒執事 転生パラレル二次創作小説:あなたに出会わなければ5
薄桜鬼 現代ハーレクインパラレル二次創作小説:甘い恋の魔法7
薄桜鬼異民族ファンタジー風パラレル二次創作小説:贄の花嫁12
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:幸せの魔法をあなたに3
火宵の月 転生オメガバースパラレル 二次創作小説:その花の名は10
黒執事 異民族ファンタジーパラレル二次創作小説:海の花嫁1
PEACEMAKER鐵 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:蒼い華14
YOI火宵の月パロ二次創作小説:蒼き月は真紅の太陽の愛を乞う2
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の巫女0
火宵の月 韓流時代劇ファンタジーパラレル 二次創作小説:華夜18
火宵の月 昼ドラ大奥風パラレル二次創作小説:茨の海に咲く華2
火宵の月 転生航空風パラレル二次創作小説:青い龍の背に乗って2
火宵の月×呪術廻戦 クロスオーバーパラレル二次創作小説:踊1
火宵の月×薔薇王の葬列 クロスオーバー二次創作小説:薔薇と月0
金カム×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:優しい炎0
火宵の月×魔道祖師 クロスオーバー二次創作小説:椿と白木蓮0
薔薇王韓流時代劇パラレル 二次創作小説:白い華、紅い月10
火宵の月 遊郭転生昼ドラパラレル二次創作小説:不死鳥の花嫁1
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:それを愛と呼ぶなら1
FLESH&BLOOD 千と千尋の神隠しパラレル二次創作小説:天津風5
鬼滅の刃×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:麗しき華1
薄桜鬼腐向け西洋風ファンタジーパラレル二次創作小説:瓦礫の聖母13
薄桜鬼 ハーレクイン風昼ドラパラレル 二次小説:紫の瞳の人魚姫20
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黄金の楽園0
火宵の月 昼ドラ転生パラレル二次創作小説:Ti Amo~愛の軌跡~0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳳凰の系譜0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳥籠の花嫁0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:蒼き竜の花嫁0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:月の国、炎の国1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧き竜と炎の姫君0
コナン×薄桜鬼クロスオーバー二次創作小説:土方さんと安室さん6
薄桜鬼×火宵の月 平安パラレルクロスオーバー二次創作小説:火喰鳥6
ツイステ×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:闇の鏡と陰陽師4
陰陽師×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:君は僕に似ている2
黒執事×ツイステ 現代パラレルクロスオーバー二次創作小説:戀セヨ人魚2
黒執事×薔薇王中世パラレルクロスオーバー二次創作小説:薔薇と駒鳥27
火宵の月 転生昼ドラパラレル二次創作小説:それは、ワルツのように1
薄桜鬼×刀剣乱舞 腐向けクロスオーバー二次創作小説:輪廻の砂時計9
F&B×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:海賊と陰陽師1
火宵の月×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想いを繋ぐ紅玉54
バチ官腐向け時代物パラレル二次創作小説:運命の花嫁~Famme Fatale~6
火宵の月 昼ドラハーレクイン風ファンタジーパラレル二次創作小説:夢の華0
火宵の月 現代ファンタジーパラレル二次創作小説:朧月の祈り~progress~1
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:ガラスの靴なんて、いらない2
黒執事×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:悪魔と陰陽師1
火宵の月 吸血鬼オメガバースパラレル二次創作小説:炎の中に咲く華1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黎明を告げる巫女0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:光の皇子闇の娘0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:闇の巫女炎の神子0
火宵の月 戦国風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:泥中に咲く1
火宵の月 和風ファンタジーパラレル二次創作小説:紅の花嫁~妖狐異譚~2
火宵の月 地獄先生ぬ~べ~パラレル二次創作小説:誰かの心臓になれたなら2
PEACEMEKER鐵 ファンタジーパラレル二次創作小説:勿忘草が咲く丘で8
FLESH&BLOOD ハーレクイン風パラレル二次創作小説:翠の瞳に恋して20
天官賜福×火宵の月 旅館昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:炎の宿1
火宵の月 異世界ハーレクインファンタジーパラレル二次創作小説:花びらの轍0
火宵の月 異世界ファンタジーロマンスパラレル二次創作小説:月下の恋人達1
火宵の月 異世界軍事風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:奈落の花1
FLESH&BLOOD ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の花嫁と金髪の悪魔6
名探偵コナン腐向け火宵の月パラレル二次創作小説:蒼き焔~運命の恋~1
火宵の月 千と千尋の神隠し風パラレル二次創作小説:われてもすえに・・0
薄桜鬼腐向け転生刑事パラレル二次創作小説 :警視庁の姫!!~螺旋の輪廻~15
FLESH&BLOOD ハーレクイロマンスパラレル二次創作小説:愛の炎に抱かれて10
PEACEMAKER鐵 オメガバースパラレル二次創作小説:愛しい人へ、ありがとう8
FLESH&BLOOD 現代転生パラレル二次創作小説:◇マリーゴールドに恋して◇2
火宵の月×天愛クロスオーバーパラレル二次創作小説:翼がなくてもーvestigeー0
黒執事 昼ドラ風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:君の神様になりたい4
薄桜鬼腐向け転生愛憎劇パラレル二次創作小説:鬼哭琴抄(きこくきんしょう)10
火宵の月×ハリー・ポッタークロスオーバーパラレル二次創作小説:闇を照らす光0
火宵の月 現代転生フィギュアスケートパラレル二次創作小説:もう一度、始めよう1
火宵の月 異世界ハーレクインファンタジーパラレル二次創作小説:愛の螺旋の果て0
火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風パラレル二次創作小説:愛の名の下に0
火宵の月 和風転生シンデレラファンタジーパラレル二次創作小説:炎の月に抱かれて1
火宵の月×刀剣乱舞転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:たゆたえども沈まず1
相棒×名探偵コナン×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:名探偵と陰陽師0
火宵の月×薄桜鬼 和風ファンタジークロスオーバーパラレル二次創作小説:百合と鳳凰2
火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風昼ドラパラレル二次創作小説:砂塵の彼方0
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ユーリは漸く、夫と娘達とともに平穏な暮らしを手に入れた。王宮で突然暮らすことになり、麗欖(れいらん)は、はじめは戸惑ったものの、環境に次第に順応してゆき、幼い弟の面倒を見ていた。ユーリは公務に追われながらも、家族と過ごす時間を決して疎かにはしなかった。「陛下、戴冠式の日時が決まりました。」「そう。」「陛下、最近お幸せそうですね。」女官の一人がそう言って、ユーリに微笑んだ。「やはり家族が共にいると、一人で王宮に暮らしているよりリラックスできる。」「そうですか。では失礼致します。」女官は優雅に礼をすると、部屋から出て行った。「お母様、お客様がいらっしゃってるわ。」「そう。」麗欖とともにユーリが謁見の間に入ると、そこには鴇和一族の生き残りの姉弟・羅姫と香欖(こうらん)が居た。「お久しぶりでございます、ユーリ様。このたびのご即位、おめでとうございます。」「ありがとう。何故ここに?」「一族の汚名を返上してくださったお礼に参りました。」「あなた方には、辛いことをしてしまったわね。今更どのような償いをしてもあなた達のご両親は戻ってこない・・」「もういいのです。汚名が返上された今となっては、前の陛下がなさった過ちに恨むことはありません。」「そう・・」ユーリと羅姫の瞳が、ぶつかった。彼女の瞳は、穏やかな光をたたえていた。「では、お元気で。」「姉弟で仲良く暮らすのですよ。」「ええ、お達者で。」故郷へと帰ってゆく羅姫達の背中を見送りながら、ユーリはドレスの裾を払って謁見の間から出て行った。 数日後、戴冠式が行われ、絢爛豪華なドレスを纏ったユーリは、アベルから王冠を授けられ、名実共にダブリス新国王となった。「お母様、見て!」「あら、どうしたの?」「ねぇお母様、百合もお姫様のようになれる?」「ええ、なれますとも。きっとね。」羅姫はそう言うと、愛娘に向かって微笑んだ。「お嬢様、参りましょうか?」「ええ。でもいい加減、その“お嬢様”っていうのはやめて頂戴。もうわたしはあなたの妻なのだから。」「申し訳ございません、いつもの癖で・・」「まぁいいわ。汽車が出てしまう前に行きましょう。きっとリヒトの街は今頃お祭り騒ぎでしょうね。」「ええ。」夫と娘と共に、羅姫はリヒトへと向かった。輝かしい未来を背負いながら。~完~あとがき何だか駆け足気味で書き終わってしまいましたが、それぞれハッピーエンドという形で終わらせました。長い間、お読みくださった読者様、ありがとうございました。2012.11. 19. 千菊丸にほんブログ村
2012.11.16
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ユーリが王位に即位してから、彼女は息を吐く暇がなかった。疫病によって財政状況が苦しくなり、その所為で亡き皇妃が携わっていた福祉事業を凍結せざるおえなくなってしまった。「ユーリ様、国の為とはいえ、すべての福祉事業を凍結なさるとは、さぞや心苦しいことでしょう。」「ああ。せめて現在進行している事業だけでも残しておきたかったが・・それよりも経済の建て直しの方が重要だからな。」紅茶を飲みながら、ユーリはそう言ってアベルを見た。宮廷内で強い発言権はないものの、司教となってからアベルはユーリの良き相談役となっていた。「それは皆様もよくわかっておられるでしょう。」「そうか・・そうであればいいが。」ユーリはそう言って溜息を吐くと、アベルを見た。理知を湛えた緑の瞳を自分に向けながら、彼は静かにこう呟いた。「何だか、昔のことが思い出されますね。」「そうだな。まだあの頃のわたしは理想に燃えていた。しかし、今は現実に圧されて思うようにならない。」ユーリは再び溜息を吐くと、紅茶を飲んだ。「そう急くことではありません。焦らないでください。」「ありがとう、アベル。」ユーリはそう言うと、そっとアベルの手を握った。「陛下、今しがた汽車が駅に着いたとの知らせが。」「そうか。」ユーリは弾けるような笑顔を浮かべると、椅子から立ち上がった。「どちらへ?」「夫と子どもを迎えに行く。」「お気をつけて。」「では、行ってくる。」匡惟は、隣で寝ているわが子を揺り起こした。「起きなさい、もう着いたよ。」「やっとお母様に会えるね!」「ああ。」匡惟は、もうユーリは自分たちのことを忘れてしまっているのではないのかという不安に襲われた。国王となったユーリは多忙を極め、息をつく暇がないという。そんな中で、彼女が自分達をおぼえているのかどうかー匡惟はそう思いながら、汽車から降りた。「お母様だ!」それまで俯いていた匡惟は、わが子の声でゆっくりと顔を上げた。するとそこには、雑踏の中で自分に手を振るユーリの姿があった。「ユーリ!」「お帰りなさい、あなた。」匡惟は、久しぶりに妻と抱擁を交わした。「もう、わたし達のことを忘れてしまったのかと思っていた・・」「そんなことはない。ずっと会いたかった・・」「お母様、会いたかったよ!」自分に似た紅の瞳を涙で潤ませながら、麗欖(れいらん)がユーリに抱きついた。「出来れば、娘にも会わせたかった・・家族四人で、共に暮らしたかった・・」匡惟の言葉に、ユーリは静かに頷いた。「行こう。ここは冷える。」「そうですね。」「お母様、これからはずっと一緒に暮らせるの?」「ああ、ずっとお前達と一緒に暮らせるよ。」「そう。じゃぁ天国のお姉様も喜んでくださっているよね?」「ああ。いつも天国からみんなを見守ってくれていると思うよ・・」ユーリは泣きそうになるのを堪えながら、娘の手を握った。にほんブログ村
「これは・・」長方形の箱をユーリが開けると、そこには代々ダブリス王家に受け継がれるサファイアのネックレスが入っていた。「そなたに、これを。」「兄上、それは・・」「わたしは、王位から退く。元々その座は皇太子であるお前のもの。さぁ、受け取るがよい。」「よろしいのですか?わたしが、このネックレスを・・」「みなもお前のことを国王にふさわしい器であると認めている。」ユーリが周囲を見渡すと、そこには笑顔を自分に向けている重臣達の姿があった。ユーリは姿勢をただし、優雅に礼をした後ルディガーの前に跪いた。ルディガーは箱からネックレスを取り出すと、それを恭しくユーリの細く白い首に掛けた。「何だと、ルディガー様が王位を退位されたと!?」「では、次の国王はどなたなのだ!?」「ユーリ様なのです。」「そうか、ユーリ様ならば心配ありませんな。」「さよう。ユーリ様は才知に長けるとともに、武術にも優れたお方。傾きかけたこの国を立て直してくださることでしょう。」「ええ。」ルディガーが王位から退いたことは、宮廷中に瞬く間に広がった。そしてその知らせは、海の孤島にも届いた。「ねぇお父様、お母様が国王様になられたら、私達自由になれるの?」「ああ、なれるとも。」匡惟(まさただ)はそう言うと、子どもたちに微笑んだ。その時、クラークが部屋に入ってきた。「今からあなた方を解放いたします!」彼の言葉を聞いた途端、幽閉されていた者達は歓声を上げた。「漸くお家に帰れるね。」「ああ・・」次第に水平線の彼方へと消えてゆく孤島を眺めながら、匡惟は娘の形見であるネックレスを握り締めた。 長い船旅を経て、匡惟達はダブリスの港へと着いた。「お父さん、早くお母様に会いたいね。」「ああ。」汽車に乗り込んだ後、匡惟は流れゆく景色を眺めながらそう言って笑った。「リヒトまでまだかかるから、今のうちに寝ておきなさい。」「うん。」自分の肩を枕代わりにして眠るわが子を愛おしそうに見つめながら、匡惟は今朝買った新聞に目を通した。その一面記事には、王笏(おうしゃく)を持ち、美しいドレスを纏ったユーリの写真が載っていた。“ユーリ皇太子、国王に即位”(もし王となられても、ユーリ様は私達に会ってくださるだろうか?)ユーリとの絆は、彼女が国王となった今でも変わらないと匡惟は信じている。彼女も、そう信じていることを祈って。「ユーリ様、どうなさいました?」「いや・・今夜の汽車で、わたしの家族がここに来る筈なんだが・・何だか落ち着かなくて・・」「そうでございますか。それではわたくし達はこれで。」女官はそう言ってユーリに優雅に礼をすると、彼女の部屋から辞していった。にほんブログ村
「ユリシラ=エーネント?何処の方でしょうか?」青年から渡された名刺の名を読み上げたアベルがそう言って首を傾げると、青年は少しムッとしたような顔をして次の言葉を継いだ。「エーネント家は昔ながらの貴族ではありませんから。」「そうですか、これは失礼いたしました。」「いいえ、気にしておりませんから。」そういいながらも、青年はアベルを睨みつけたままだった。「それで、わたしに何の御用でしょうか?」「いえ、お噂の司教様のお姿を、一目見ておきたいなと思いまして。それでは。」青年はそう言うと、アベルの前から颯爽と去っていった。「何でしょうね、あの方。司教様に向かって無礼な・・」「放っておきなさい。それよりも後のことは宜しく頼みますよ。わたしは忙しいので。」「承知いたしました。」司祭と途中で別れ、アベルは宮殿を出て大聖堂へと戻った。「司教様、お久しぶりです。」「リュシエル、久しぶりだね。元気にしていたかい?」アベルは救護院でボランティアをしている青年に声を掛けられ、そう言って彼に微笑んだ。「ええ。疫病が治まってよかったです。ですが、皇妃様がお亡くなりになられたことは残念でなりません。あのお方は、本当に素晴らしいお方でしたのに。」青年がそう嘆息すると、アベルは静かに頷いた。亡き皇妃は、国民達の医療福祉の充実のために色々と力を尽くしてくれた。だがその皇妃が亡くなった今、彼女が担当する事業がどうなるのかわからない。「陛下は皇妃様のご遺志を継がれて、民のために力を尽くしてくださることを祈っておりますよ。」「そうですよね。まさかいきなり廃止なんてことはないでしょう・・」「ええ。慎重派の陛下ですから、そのような暴挙に出られることはないでしょう。」大聖堂へと戻る道すがら、アベルは青年と話しながら今後のことについて考えていた。皇妃中心で行われている福祉事業は12事業あり、その中の8事業は国の援助を受けてはいるものの、財政状況は芳しくない。しかし疫病の影響の所為で国庫は破綻寸前である。「では、わたしはこれで。」「ええ。」青年と別れ、アベルは大聖堂の中へと入った。「お父様!」信徒席を中ほどまで進むと、アベルの養女・璃音がアベルに駆け寄ってきた。「璃音、元気そうだね。」すっかり貴族の令嬢特有の優雅な雰囲気を纏った璃音は、公共の場であるにも関わらずアベルに抱きついた。「離れなさい、璃音。わたしはお前の娘だが、ここでは・・」「わかりました。それよりもお父様、これから忙しくなるのですか?」「ああ。皇妃様がお亡くなりになられたからね。」「確か、今の陛下との間にはお子様はいらっしゃらないのでしょう?そしたら、陛下がお亡くなりになられたら誰が次の王となられるのかしら?」璃音の鋭い指摘に、アベルは唸った。今ダブリス王家の直系の血をひいている者は、ルディガー以外ユーリしかいない。孤島に幽閉されていたユーリを、今更何故ルディガーがリヒトに呼び戻したのかーその理由を探りながら、アベルはミサの準備をしていた。「ユーリ様、陛下がお呼びです。」「わかった。」ユーリが謁見の間に入ると、そこには左右に重臣達が居並んでいた。「兄上、どうしたのですか?」「ユーリ、そなたに大事な話がある。」「大事な話?」「エリンシスト、例のものを。」「はっ!」ルディガーの傍に控えていた重臣の一人が、彼に長方形の箱をユーリに渡した。にほんブログ村
雪が降る中、ダブリス王国皇妃・羅姫の葬儀がしめやかに行われた。「羅姫、我が妻よ・・」新婚僅か数ヶ月で、腹の子とともに死んでしまった妻の棺に取り縋ったルディガーの姿は、誰から見ても痛々しかった。(兄上、お可哀想に・・)バルコニーからその様子を眺めていたユーリは、羅姫の冥福を静かに祈った。「ユーリ様、陛下がお呼びです。」「わかった。」ドレスの裾を払うと、ユーリはルディガーの部屋へと向かった。皇妃の喪に服す為、貴族達は皆喪服を纏っており、宮殿の中は一面漆黒の闇に包まれたかのようだった。「陛下、ユーリ様がいらっしゃられました。」「さがれ。」「失礼いたします、兄上。」「ユーリ、お前にも葬儀に参列して欲しかったのだが、重臣達が反対していたのだ。」「いいえ、気にしてはおりませんのでお気にならさず。それよりも兄上、少し休まれた方がよろしいのでは?」「いや、わたしはまだやらねばならぬことがある。ここにお前を呼んだのは、お前に会わせたい者がおるからだ。」「会わせたい者?」「入るがよい、アベル。」「失礼いたします、陛下。」扉が開き、胸に金の十字架を提げたアベルが部屋に入ってきた。「アベル・・」「ユーリ様、お久しぶりです。お元気そうでなにより。」アベルはそう言うと、ユーリに向かって優雅に宮廷式の礼をした。「二人きりで話すがよい。わたしは忙しいからな。」ルディガーはさっと椅子から立ち上がると、部屋から出て行った。「アベル、あれからどうしていた?」「あれから色々とありましたが、今ではウテルス大聖堂の司教を務めております。」ウテルス大聖堂は、代々ダブリス王家の結婚式や葬儀を執り行う伝統と格式ある教会であり、その司教の座に着けるものは上位貴族の子弟でも難しいといわれている。「そうか・・それは大出世だな、おめでとう。」「ありがとうございます。これはひとえに、ユーリ様のお蔭です。」「わたしの?」「ええ。あなた様の助けがなければ、わたくしは今の地位にはついておりませんでした。」「アベル、皇妃様は今朝身罷られた。」「存じております。あの病は、妊産婦が罹(かか)ると重症化すると聞きました。疫病の猛威は徐々に治まりつつあるものの、どうなることか・・」アベルがそう言葉を切った時、一人の司祭が部屋に入ってきた。「司教様、お客様です。」「わたしに?」「ええ、至急司教様にお会いしたいと・・」「そうですか・・ユーリ様、失礼いたします。」「わかった。また会おう。」アベルはユーリに頭を下げると、部屋から出て行った。「司教様、こちらです。」アベルが司祭とともに廊下を歩いていると、一人の青年がアベルに気づくと頭を下げた。「アベル様、ですね?」「はい。あなたは?」「初めまして、わたくしはこういう者です。」青年はそう言うと、名刺をアベルに渡した。にほんブログ村
「失礼いたします。」皇妃の寝室に入ってきたのは、全身白装束を身に纏った男だった。「ユーリ、王立研究所のリーヤだ。」「初めまして。あなた様が、ユーリ様ですね?」目元以外の全身を覆い隠した男は、そう言って紅の瞳でユーリを見た。「初めまして。」「ルディガー様、例の件でご報告が。」「そうか、ではユーリ、お前も来るがいい。」「わかりました、兄上。」「もう、行ってしまわれるのですか?」ベッドの中で、羅姫が名残惜しそうにルディガーを見た。「すぐ戻る。」ルディガーはそっと羅姫の手に口付けると、男を従えて皇妃の寝室から出て行った。「やはり、疫病の原因はこの麦角菌と思われます。研究所では既にこの疫病の抗生物質が完成しております。」「そうか。国内では疫病の猛威は沈静化したが、宮廷では汚染されたユーリア麦が入ってきておる。これ以上感染を広げぬ為にはどうすればいいか・・」「汚染されたユーリア麦は、焼却処分いたしました。宮廷の穀物庫に収納されているものも、焼却処分にする予定です。」「それでよい。疫病を拡散させぬ為には感染源を絶つことだ。沈静化するにはどのくらい時間がかかる?」「あと数週間ほどです。では、わたくしはこれで。」王立研究所のリーヤはそう言ってルディガーに頭を下げると、廊下の向こうへと消えていった。「兄上、皇妃様の容態は思わしくないようですが・・」「ああ。ラヒはもう長くはもたぬ。漸く妻を娶り、子が産まれるというのに・・」そう言ったルディガーの表情は、苦痛に満ちていた。「ユーリ、暫くここに滞在してくれまいか?」「何の為に?兄上、あなたが濡れ衣を着せた鴇和一族を根絶やしにしたことは覚えておられますか?今更疫病の原因が判明したところで、彼らの名誉と命は戻りません!」ユーリが怒りを瞳に滾らせながら兄を睨みつけると、彼女は俯いた。「お前の言うとおりだ。すぐに鴇和一族の名誉は回復できぬが、出来る限りのことをしよう。」「そうですか。では、部屋に案内してください。」「わかった。」ルディガーは何か言いたそうだったが、ユーリを部屋へと案内した。「では、ゆっくり休むといい。」「お休みなさい、兄上。」部屋に入るなり、ユーリは着ていたドレスを籠の中へと入れ、浴室でシャワーを浴びながら消毒成分が強いシャンプーと石鹸で髪と身体を洗うと、爪の間に至るまで隅々と磨いた。「ユーリ様、ここに着替えを置いておきます。」「ありがとう。」部屋に入ってきた女官は、にっこりとユーリに微笑むと部屋から出て行った。清潔なシーツを頭から被って目を閉じると、次第に睡魔に襲われユーリは眠りへと落ちていった。 翌朝、皇妃の部屋から悲鳴が聞こえ、ユーリはベッドから飛び起きた。「一体何が!?」「皇妃様が、先ほどご逝去されました。」泣き腫らした目でそう告げた女官を、ユーリは信じられない顔で見た。あの状態では長くはないだろうと思っていたが、まさかこんなに早くなくなってしまうとは、予想がつかないことだった。「兄上はどうしておられる?」「陛下は、葬儀の準備を進めております。ユーリ様は暫く部屋で待機しているようにとのご命令でございます。」「そうか、わかった・・」ふと窓の外を見ると、まるで水鳥の羽のような純白の雪が、空から降っていた。にほんブログ村
「ユーリ様、お足元にお気をつけて。」銀髪に映える青いドレスを纏ったユーリは、裾を摘みながらゆっくりと船から降りていった。「ユーリ、会いたかったぞ。」頭上で声がしてユーリが俯いた顔を上げると、そこには両手を広げて自分を歓迎しているルディガーが立っていた。「お久しぶりです、陛下。」ユーリはそう言うと膝を折り、優雅な宮廷式の礼をした。「今すぐ王宮へと参るぞ。妻が待っておるゆえ。」「はい・・」ここはおとなしくルディガーに従うしかないようだ。彼とともに馬車に乗り、王宮へと向かう道すがら、ユーリは久しぶりに見るリヒトの市街地を見た。疫病に襲われ、ゴーストタウンと化したリヒトは、以前と同じような活気を取り戻しており、路上では新鮮な果物や野菜・魚などを取り扱った市場は活気に満ちていた。 数分後、ラミレス宮殿の中へと入ったユーリは、活気に満ちた市街地とは対照的に、暗く陰惨とした空気が漂っている宮廷内の空気に気づいた。「一体、これは・・」「疫病の所為だ。国中の疫病が、すべてここに集まってきてしまったのだ。」「そんな・・」馬車から降りたユーリは、ドレスの裾を捌きながら廊下を歩くと、円柱にもたれかかりながら呻く女官達の姿を見て、ルディガーの言葉が嘘ではないことに気づいた。彼女達の顔は、赤い湿疹に覆われ、激しく掻き毟(むし)った所為で血が滲んでいた。だが湿疹は腕や首にも広がっていた。「さぁ、ここだ。」ルディガーに案内され、ユーリは彼の妃である羅姫の部屋へと向かった。「陛下、お帰りなさいませ。」「妻の容態は?」「余り変わりありません。妃殿下はご懐妊中であらせられますので、少量の薬を投与しておりますが・・」「効果はない、ということだな。」ルディガーは失望の表情を浮かべた。「ユーリ様、お部屋に出られる際はお召し物をお脱ぎになってくださいませ。」「わかった・・」ユーリが恐る恐るルディガーの妻・羅姫の寝室を開けると、その途端に肉が腐っているような凄まじい悪臭が彼女の鼻を突いた。「帰ったぞ、ラヒ・・我が妻よ・・」「ああ、あなた・・」羅姫が眠っているであろうベッドには、分厚い天蓋で覆われていて彼女の顔は見えない。だが、その声は弱々しく、容態がかなり悪いと容易に想像できる。「ユーリ、こちらへ。」ルディガーとともに天蓋の近くへと寄ったユーリは、その隙間から見た羅姫の顔を見て絶句した。 彼女の美しい顔は原型を留めておらず、大人の握り拳大ほどの湿疹に覆われていた。「一体何故、このようなことが・・」「疫病の原因は、わが国で獲れるユーリア麦だったのだ。」「ユーリア麦が?」「ああ、今年は旱魃(かんばつ)の影響もあってある菌がユーリア麦に巣食い、それを知らずに収穫した民の口に入り、瞬く間に疫病に流行したのだ。」ルディガーがそう言葉を切った時、部屋のドアがノックされた。にほんブログ村
「ユーリ様、間もなくダブリス領海域内に入ります。」「そうか・・」エステア王国軍の捕虜になったものの、ソーラスに救出されたユーリは、ダブリス王国軍とともに故国へと帰還している最中だった。一ヶ月余りも暗くて湿った船底部に監禁されていたユーリは、顔にはキャサリンによって何度か殴られた赤紫色の痣が残り、荒縄を必死に解こうとして両手の爪には血が滲んでいた。ソーラスに救出された彼女が軍医の手当てを受け回復したのはそれから一週間後のことで、さらに歩けるようになったのはそれから三週間後のことだった。「お加減はいかがですか?」「悪くはない。ただ、あの島に残してきた家族が気になって・・」「あなた様のご家族は、無事だそうです。時期が来たら、本国へ連れてゆくと陛下がおっしゃっております。」「陛下が?」ユーリの美しい眦がつり上がった。自分達混血を、あの島に幽閉させたのは、ルディガーに他ならなかったからだ。「確か陛下は混血児をあの島に幽閉し、隔離しようとしていた筈。それなのに一体何故、わたしを本国へ?」「それは、話せば長い話となります。」ソーラスはそう言って溜息を吐くと、水平線の彼方を見ながら今までの経緯を話し始めた。 王国中が疫病に襲われ、ルディガーはその原因が妖狐と人間との混血児が病を広めている所為だとはじめは決め付けていたが、王立研究所が疫病の原因を突き止めた為、混血児の隔離政策を白紙に戻したのだという。「それで?」「あなた方に、償いをしたいと、陛下はおっしゃっております。」「償いだと?」ユーリの中で、ふつふつとルディガーへの怒りが沸いてきた。脳裏には、無実の罪を着せられて殺された鴇和一族の顔が浮かんだ。「どのような償いを兄上はなさるつもりなのだ?今更償いをしたところで、無実の罪を着せられ殺された者達は二度と帰ってこない!」「ユーリ様が憤られることはごもっともです。ですが、陛下があなたのお力を是非貸していただきたいと・・」「わたしの力?」「ええ・・陛下のお妃・・現在ご懐妊中の羅姫様の体調が思わしくないようなのです。」「そうか。」ユーリは水平線の彼方を見つめると、そこから眩いばかりの太陽が顔を覗かせた。「一度部屋に戻る。」「わかりました。」 部屋に戻ったユーリは、力なくベッドに横たわった。ルディガーは一体何を企んでいるのだろうか。それに、何故死んだ蓮華の姉・羅姫が彼の妃となっているのだろう?そんな謎がぐるぐると頭の中を回り、ユーリはゆっくりと目を閉じた。「ユーリ様、起きてください。」「ん・・」「間もなく港に着きますので、お召し替えを。」「わかった。」ベッドから起き上がったユーリは、クローゼットに入っているドレスを取り出した。「ユーリ様、失礼いたします。」ドアがノックされ、数人の侍女たちが部屋に入ってきた。「陛下が港でお出迎えになられますので、急ぎませんと?」「陛下が?」「ええ。」 一方、港ではルディガーが馬車の中から双眼鏡を構え、艦隊がくるのは今か今かと待ち構えていた。「陛下、そう気を急くことはございませんよ。」重臣の言葉を聞いたルディガーは、苛立ったように舌を鳴らした。「わたしは忙しいのだ。」「申し訳ございません・・」「わかればよいのだ。」にほんブログ村
「ユーリ皇太子をダブリス側に奪還されただと!?それはまことか、キャサリン!?」 自国の領海域内で敵艦の攻撃を受けた上に、人質であるユーリ皇太子を奪還されたことを知り、キャサリンの父でありエステア王国皇帝は、苛立った様子で右足の踵を地面に打ち付けると、娘をにらみつけた。「敵の攻撃を許してしまったのは、ひとえにわたくしの不徳といたすところでございます、陛下。」「キャサリンよ、このまま指を咥えてそなたはユーリ皇太子が奪還されるのを見ているわけではあるまいな?」「そのようなことは致しませぬ。」「そうか。」皇帝はこめかみを人差し指と中指で押さえると、低く唸った。「陛下、まだお加減がよろしくないのでは?」「ああ。我が娘から受けた傷はとうに癒えたと思うておったが、一度傷を負うと人の身体というものは元通りにはならぬものよ。」皇帝の言葉に、キャサリンは彼の前に跪いたまま無言で頷いた。 あのとき、実の娘であるユーフィリアに撃たれた傷は完治しかけているものの、過度の精神的ストレスによる偏頭痛の発作は皇帝を悩ませていることは、宮廷に出入りする貴族の誰もが知っていた。「さがれ。長旅の疲れもあることであろう、今宵は部屋で休むことを許す。」「では、失礼致します。」キャサリンはさっと立ち上がると、マントを翻して謁見の間から出て行った。―あれは、キャサリン様・・―いつお戻りに?―何でも、ユーリ皇太子奪還に失敗したとか・・自分の姿を見るなり、宮廷雀たちが扇の陰で突然ひそひそと悪意ある囁きを交わし始めた。「少し注意していきましょうか?」「止せ。下らぬ女どもの話など、放っておくがいい。」「ですが・・」幼少の頃より刺繍やピアノといった貴婦人の嗜みより、剣術や馬術といった兵士の嗜みの方が性に合ったキャサリンのことを、“キャサリン様が男ならばよかった”と幾度となく陰口を叩かれた経験があったキャサリンにとって、今更宮廷雀たちの陰口などに怯えるほど初心ではなかった。だがキャサリンに心酔し、骨の髄まで彼女に忠実であるアレクシスにとって、彼らの噂話を聞き流せるだけの余裕はないらしく、腰の長剣を抜こうとした彼の手を、キャサリンは制した。「アレクシス、お前は真面目すぎるのが玉に瑕(きず)だ。何事も斜に構えて見てみれば、この世界も悪くはないぞ?」「は、はぁ・・」アレクシスはそう言うと、よくわからないというように首を傾げ、キャサリンの後をついていった。「陛下、お薬の時間でございます。」「うむ・・」皆が寝静まったその日の真夜中、皇帝の寝室に薬湯を持った皇妃・アウロラがすべる様に入ってきた。「アウロラ、済まぬ・・」「何をおっしゃいます、陛下。」蒼い瞳に慈愛の光を宿らせながら、アウロラはそう言って夫に優しく微笑んだ。末の娘・ユーフィリアを亡くした後、あれほど傲慢だった彼はまるで人が変わったかのようにおとなしくなり、それと比例して覇気も失っていった。「エウリケ、居るの?」「はい、ただいま。」いつも自分の傍に控えている女官の名をアウロラが呼ぶと、彼女はすっと主の前に出た。「この前行った場所で、また薬湯を摘んでおいで。誰にも見られぬように。」「はい、皇妃様。」美しい女官は主に一礼すると、闇の中へと消えていった。にほんブログ村
エスティア王国の戦艦・マリスは、エスティア王国領海へと入った。「あと一時間後で着きます。」「そうか。領海に入った以上、他国軍からの攻撃はないと思うが、油断するなよ。」「ハッ!」兵士は両足の踵を鳴らしてキャサリンに敬礼すると、司令官室から出て行った。「これからどうなさいますか、キャサリン様?」「どうするも何も、それは到着するときに考えて・・」キャサリンがそう言ってアレクシスのほうへと振り向いたとき、船体が大きく揺れた。「何だ!?」「キャサリン様、ダブリス艦から攻撃を受けました!」「総員配置につけ!」「一体どういうことでしょう。今になってダブリス艦が攻撃をするとは・・」「敵の狙いは知れたこと。ユーリを奪還しようとしているのだろうよ。」キャサリンはユーリへの私怨に拘り過ぎてすっかり油断してしまったことに臍(ほぞ)を噛んだ。 一方ユーリは、激しく船体が揺れたことに気づいて、ゆっくりと目を開けた。「くそ、この距離ではダブリス艦に弾が届かないぞ!」「一体どうすれば・・うわぁぁ~!」すぐ上の甲板では、ダブリス艦と対峙しているエスティア軍が砲撃を受けて次々と倒れていった。「敵に怯むな!」「ですがキャサリン様、敵勢力の艦隊のほうが我が艦よりも機能性に優れております!」「おのれ、ダブリスめ!いつの間に改良を加えたのだ!」キャサリンの瞳が、鋭い光を放った。その間にダブリス兵がマリスへと乗り移り、刃を煌かせながら彼女に迫ってきた。「おのれぇ!」怒りの雄たけびを上げたキャサリンは、腰に帯びている長剣を抜くと、次々と敵兵を斬り倒していった。「キャサリン様に続け!」「おお~!」甲板でエスティア・ダブリス両国軍が激しくぶつかり合い、血の雨を降らせた。「ユーリ様、ユーリ様、しっかりなさってください!」突然何者かに揺り起こされ、ユーリが再び目を開けると、そこにはかつて自分に仕えていたソーラスが自分の身体を椅子に縛(いまし)めている荒縄を切り裂いたところだった。「さぁ、ここから出ましょう!」「だが、どうしてここへ?」「詳しい話はあとです、さぁ!」ソーラスとともに、ユーリは甲板へと上がった。すると、そこから怒りの形相を浮かべたキャサリンが長剣を振り回しながらユーリの元へと走ってくるところだった。「おのれぇ、逃がすものか!」ユーリは寸でのところでキャサリンの手から逃れ、ダブリス艦へと乗り込んだ。「全員戻れ!ユーリ様は無事奪還した!」エスティア軍と斬りあっていたダブリス軍たちは、次々と撤退していった。瞬く間にダブリス艦隊はエスティア領海内から離れ、一路母国へと帰還していった。「この借りは必ず倍返しにしてやる・・」キャサリンは怒りにたぎった瞳で、水平線の彼方へと消えてゆくダブリス艦隊を睨みつけた。にほんブログ村
「キャサリン様、何をしておいでなのですか?」「誰かと思ったらお前か、アレクシス。」そう言ってキャサリンが振り向くと、そこには自分の副官であり右腕的存在のアレクシスが立っていた。エステアより遥か西にあるシャヒーン出身の元奴隷で、競りに掛けられようとしていたところをキャサリンに救われ、それ以来彼女に忠誠を誓っていた。「また、ユーフィリア様のことを思い出されていたのですね?」「フッ、お前には全てお見通しだな・・」キャサリンの澄んだブルーの瞳が、今は亡き最愛の妹を想い、微かに曇った。 年の離れた姉妹であったため、キャサリンはユーフィリアを溺愛した。キャサリンは病弱なユーフィリアのために新鮮な果物を与え、彼女が熱を出せばそれが下がるまで寝る間を惜しんで看病した。それ故に、キャサリンはユーフィリアの訃報を知ったとき、気が狂いそうになった。絶望に包まれたとき、彼女を救ってくれたのはアレクシスだった。「アレクシス、お前はユーリをどう思う?」「彼女は確かに、ユーフィリア様を殺害されました。しかし、その前後の記憶が曖昧であることが気になります。」「何が言いたい?」「つまり・・あの者の中に巣食う何かが、あの者の意思を操ったのではないかと。」「それは、お前の故郷に伝わる“悪魔の手”というものか?」「はい。」アレクシスは主の言葉に静かに頷くと、漆黒の髪を払った。「あのユーリは、妖狐なのでしょう?」「ああ。」「昔我が部族に伝わる話だと、妖狐の中には邪悪な種が潜んでおり、それがいつ花開き宿主を毒すのかがわからぬというものがあります。」「そうか・・ではあの者は、その邪悪な種とやらに侵されておるのだな?それなら、辻褄が合う・・」キャサリンは右手に携えていた双眼鏡を眼前に構えると、夜空を輝かせる北極星を見つめた。古来より旅人の道しるべとされてきた北極星。キャサリンにとっての北極星は、ユーフィリアであった。しかしその彼女が亡くなった今、それは隣に立つアレクシスへと変わった。(ユーフィリア、必ずやお前の死の真相を暴いてやる・・)「戻りましょう。潮風がお体に障ります。」「ああ、わかった。」遥か上空に輝く北極星を眺めながら、キャサリンはマントを翻してアレクシスとともに船内へと戻っていった。「キャサリン様、本国より電報が届いております。」「そうか。」自室に戻ったキャサリンは、本国にいる父からの電報を見るなり、美しいその顔を怒りで険しく歪ませた。「至急、本国に帰還せよだと・・」父の真意がわからぬまま、キャサリンは暫し怒りに震えた後、全乗員を甲板へと集めた。「先ほど本国におられる陛下より、至急本国へ帰還せよとの命令が下った!これより本艦は、エステアに帰還する!みな、配置につけ!」キャサリンの命令を受けた乗員たちが、慌しく出発の用意を始める足音が、船底に幽閉されていたユーリにもわかった。「あの、一体何が・・」「本国への帰還命令が出た。そなたも連れてゆく。」アレクシスはそう言って僅かな憐憫(れんびん)の光を宿したコバルトブルーの瞳でユーリを見ると、ドアを閉めた。(そんな・・一体どうすれば・・)ユーリは、一人暗闇で孤独と恐怖の中、涙を流した。にほんブログ村
(父様!?)自分を睨みつけている男は、亡き父・香と良く似ていた。「お館様、曲者を捕らえましてございます!」男達の一人がそういうと羅姫(らひ)の腕を掴んだ。「わたしに気安く触らないで!」羅姫は鋭い声を上げると、男の横っ面を張った。「こやつ、女の癖に生意気な!」「やめよ!」男の仲間がそう言って羅姫に拳を振り上げようとしたとき、男が猛禽を思わせるかのような目で男達を睨んだ。「女子に手を上げるなど、言語道断!そなたら、一族の名を汚す気か!?」「も、申し訳ありませぬ、お館様!」「助けてくださってありがとうございます。」男によって窮地を救われた羅姫は、そう言って彼に頭を下げた。「そなた、面妖な格好をしておるが、その髪と瞳を見ると、我が一族の者だな。どのような経緯(いきさつ)でここに参ったのか、中で話を聞こう。」「はい・・」「自己紹介が遅れたな、わしは鴇和颯英(ときわそうえい)と申す。そなたの名は?」「羅姫と申します。」「良い名だ。そなたの父君と母君は生成りの絹のように穢れなく美しい娘に育つよう願ったのであろうな。」香に良く似た颯英に微笑まれ、羅姫は泣きそうになった。「どうした?」「いえ・・」「そなた、辛い目に遭うてきたのであろう。」「両親を最近亡くしました・・」「わしも幼き頃に父と母を亡くした。彼らの記憶はもうおぼろげであるが、そなたはさぞや辛かろうな。」颯英はそっと羅姫の肩を励ますかのように叩いた。「・・そうか。そういうことがあったのだな。」「はい。あの、元の世界に戻る方法がわかりませんので、暫くこちらに置いていただけないでしょうか?」「構わぬ。」「お館様、こんな得体の知れぬ女を置くなど・・我らは反対ですぞ!」颯英の言葉に、彼の近くに控えていた男が声を上げた。「この女、我々と同じ鬼族ですが、人間と通じておるかもしれませぬ!」「そうじゃ、混血の裏切り者やもしれぬ!」周りの鬼族たちが喧々囂々(けんけんごうごう)と口々に叫ぶ中、颯英は持っていた扇を脇息に打ち付けた。「鎮まりゃ!羅姫はわしの客人ぞ!もしさきほどのような非礼を彼女にしてみよ、その場で手打ちにしてくれる!」「は、はは・・」颯英の鶴の一声で、羅姫は暫く鴇和邸に滞在することになった。「この部屋を使うがよい。」颯英に案内された部屋は、美しい調度品に囲まれ、板張りの床は鏡代わりに使えるほどに磨き上げられている。「いいんですか、こんな部屋を使っても?」「そこは今は亡き我が妻が使っていた部屋での。」「そうなんですか・・」「我が同族なのだから、遠慮せずともよい。」「ありがとう、ございます・・」羅姫がそう言って颯英に頭を下げると、彼は花が綻ぶかのような笑みを浮かべた。 一方、ブロンドの髪を海風になびかせながら、キャサリン皇女は水平線の彼方を見つめていた。にほんブログ村
「ここは、わたし達悪魔の神聖なる場所です。」「悪魔に神聖な場所があるというの?おかしいわね。」羅姫がそう言って笑うと、リュミエルは少しムッとした顔をした。「それで?わたしをここへ連れて来てどうするつもりなの?」「それは、あなた次第です。さぁ、こちらへどうぞ。」リュミエルはそう言うと、羅姫を洞窟の奥へとエスコートした。「足元にお気をつけて。」「ええ。」ゴツゴツとした岩道を、羅姫はドレスの裾を摘みながらリュミエルとともに歩いていると、次第に向こうに光が見えてきた。「これは・・」光の向こうにあったのは、豪華絢爛な洞窟内に造られた聖堂だった。(こんなところに、聖堂があるだなんて・・)「気に入ったかい?ここは昔、迫害を逃れてこの土地にやってきた君たち祖先が造ったものだ。」「わたしたちの、ご先祖様?」「そうだよ。君の両親である鬼族達は、人間達から恐れられていた反面、敬われ、崇められていた。その秩序を崩したのが、人間達の欲と、彼らが作り出した文明だ。」「でもあなたが、皇帝を唆してわたし達の両親を殺したんでしょう!?」羅姫の言葉に、リュミエルは静かに頷いた。「君のご両親のことは、本当に申し訳なく思う。どれほど謝っても、彼らの命は戻ってこない。過去は変えられない。でも、未来なら変えられる。」「え・・」「聖堂の中央を見てご覧。」リュミエルに言われて羅姫が聖堂の中央を見ると、そこには鴇和家に代々伝わる紋章が刻まれてあった。(どうして、この紋章が・・)そっと羅姫が紋章に手を触れると、祭壇が一瞬揺れたような気がした。「どうした?」「何・・」―やっと会えた 頭の中に直接、少女の声が聞こえたような気がした。(あなたは誰?一体何者なの?)羅姫が自分に呼びかけてくる“誰か”に話しかけると、また声が彼女に話しかけてきた。―わたしは・・“誰か”はそう言って笑うと、ますます祭壇周辺の揺れが大きくなった。「何なの・・」「一体何があった!?」「わからない・・突然揺れて・・」羅姫がリュミエルの方を向こうとしたとき、彼女の足元の地面が崩れ落ちた。彼女は悲鳴を上げながら、ゆっくりと暗い穴の中へと落ちていった。一体何がどうなっているのか、彼女には全くわからなかった。ゆっくりと地面へと落ちてゆき、羅姫はドレスに付いた埃を払って咳き込むと、誰かの気配を感じた。「誰?誰なの?」叢を掻き分けた羅姫の目に飛び込んできたものは、直衣姿の男達が庭で蹴鞠に興じている光景だった。(ここは・・一体・・?)「おい、あれ・・」「物の怪だ!」男達に気づかれ、あっという間に羅姫は彼らに取り囲まれた。「やめて、わたくしに触れないで!」自分を捕らえようとする男達の手から逃れようとした羅姫だったが、いとも容易く彼らに捕らえられてしまった。「そこで何をしている!」背後から鋭い声が聞こえて羅姫が振り向くと、そこには切れ長の瞳を自分に向ける一人の男が立っていた。にほんブログ村
2012.05.27
収容所が砲撃されて一夜明け、ユーリは未だマリスの船底部に囚われていた。一体外で何が起きているのかが全く解らず、夫や子ども達が無事なのかさえも解らない。「ユーリ、思い出したか?」「キャサリン様、お願いです。どうか家族と会わせてください。一体何が起きているのか解らずに、ここにいるのは耐えられません!」「黙れ!」キャサリンはそう叫ぶなり、ユーリの頬を再び打った。ユーリは痛みで顔を顰めると、彼女は酷薄な笑みを浮かべた。「お前がすべてを思い出すまで、ここから出すことはしない。早く家族に会いたくば、思い出すことだな。」「そんな・・」ユーリはキャサリンの腕を掴もうと手を伸ばしたが、もうすでに彼女の姿はそこにはなかった。「収容所はどうなっている?」「砲撃で収容所の女達とその子ども、あわせて50人が犠牲となりました。」「そうか。ではこのまま砲撃を続けろ。大切な者を失うとき、何も出来ぬ己の無力さを、ユーリに思い知らせてやる・・」キャサリンはそう言うと、亡き妹と自分を繋ぐ指輪を見た。(ユーフィリア、待っていろ。必ずわたしがお前の仇を討つ!)彼女の脳裏に、ユーフィリアと幼き日々を過ごした離宮のことを思い出した。まだ戦争など知らずに居たあの頃に戻れたら、どんなに良かったのだろう。だがもう彼女は居ない。自分に出来ることは、彼女の仇を討つことだけだ。「砲撃の準備をしろ。」「はっ!」 一方収容所では、匡惟がほかの男達とともに作業をしていた。「クラーク殿、ユーリ様の居場所はまだ掴めませんか?」「ああ。だが恐らくあの方はエステア軍に囚われている可能性が高い。この砲撃を指示したのはキャサリン皇女だろう。」「そんな・・すぐにユーリ様をお救いせねば!」作業を放り出し、外へと向かおうとする匡惟を、クラークは手で制した。「今は止したほうがいい。向こうの狙いがわかるまで、慎重に行動するんだ。」「そうですね・・」もどかしい思いを抱えながら、匡惟はユーリのことを想った。(ユーリ様、どうかご無事で!)「う・・」長時間ロープできつく体を縛られている所為か、血行が悪くなり、手首には青紫色の痣が出来ている。「食事だ。」部屋のドアが開き、エステアの軍服を纏った男が入ってきた。「あの・・収容所は・・」「砲撃に遭い、お前の娘を含む女と子どもが死んだ。お前が黙秘を続ければ、更に多くの犠牲者が出るだろう。」男がそう言ってユーリを見ると、彼女の顔は蝋のように白くなった。「食事が終わったら呼べ。」男が部屋から出て行くと、中から嗚咽が漏れた。「あの、あそこには誰が・・」「お前は知らなくていい。仕事に戻るぞ。」「は、はい・・」 娘の死を知らされ、ユーリは食事が喉を通らなかった。匡惟は彼女の死を目の当たりにしたはずだ。一体今彼が何を想っているのか、ユーリは知りたかった。(匡惟・・)早く解放されて、愛する人の腕の中へと飛び込みたい―ユーリは涙で頬を濡らしながら、眠りに就いた。 同じ頃、悪魔・リュミエルに連れ去られた羅姫は、頬を濡らす水滴によってゆっくりと蒼い瞳を開けた。「目覚めたか。」「ここは何処?」羅姫がそう言って悪魔を見ると、彼は口端を歪めて笑った。にほんブログ村
エスティア皇国の戦艦・マリスの船底部に、ユーリは囚われていた。「う・・」低い呻き声とともに、ユーリはゆっくりと真紅の瞳を開いた。霞んだ視界の中で、いくつもの人影が見える。(一体ここは何処だ? 確か、収容所の方が砲撃されて・・それから・・)ユーリが椅子から立ち上がろうとした時、彼女は両手足が縛られていることに気づいた。「漸くお目覚めか、ダブリス王国元皇太子・ユーリ。」凛とした声と、高らかな靴音が船底に響き渡ると同時に、キャサリンの輝くような金髪がランプの仄かな光で糖蜜色に照らされた。「キャサリン様・・ここは?」「ここが何処だか解らないのか、ユーリ?」キャサリンはそう言うと、ユーリの頬をそっと撫でると、長身を曲げて彼女を見つめた。 サファイアのような蒼い双眸は、狂気に彩られていた。「わたしが一体、何をしたというのです?」「何をした、だと!? お前はあの時、妹を・・ユーフィリアを殺しただろう!」激昂したキャサリンはそう叫ぶと、ユーリの頬を打った。彼女が嵌めていた指輪で、ユーリの頬に傷がついた。 その指輪に、彼女は見覚えがあった。ユーフィリアが生前愛用していた指輪で、あの式典の時もつけていた。「この指輪は、元はユーフィリアのものだった。彼女の母親の形見で、今はわたしとユーフィリアを唯一繋ぐものだ。」キャサリンはそう言うと、ユーリを睨みつけた。「ユーリ、お前がここですべきことはただ一つ。何故ユーフィリアを殺したのかを、思い出すことだ。貴様が思い出さなければ、収容所の仲間が次々と死んでゆくだろう。」「待て、それはどういうことだ!?」ユーリの問いには答えずに、キャサリンはマントを翻しながら部屋から出て行った。「エスティアがこの島に上陸しただと!? 一体どういうことなんだ!?」「それはこちらも解りません、閣下。ですが、エスティア側にルディガー陛下がつかれているとは・・」兵士がそう言った時、砲撃でフランス窓が粉々に粉砕された。「一体何だ!?」「閣下、お怪我は?」「大丈夫だ。それよりも、他に砲撃を受けていないか確認しろ!」クラーク将校達は、砲撃を受けた収容所の囚人部屋で、手足や胴体が千切れ、ばらばらとなった女性や子どもの遺体を発見した。「何てことだ・・」鼻と口元をハンカチで覆いながら、クラーク将校は惨劇の現場へと足を踏み入れた。 粉砕されたフランス窓の近くに、白銀の美しい髪が散らばり、1人の少女が目を見開いたまま死んでいた。「何てことだ・・」クラーク将校は、璃娜の目をそっと閉じ、胸の前で十字を組んだ。砲撃を受けたその日の夜、男達は犠牲者の遺体を水葬することになった。原形を留めない妻や子ども達の遺体を見て、男達は涙した。匡惟は、璃娜の変わり果てた姿を見て人目も憚らず嗚咽し、彼女の遺体から離れようとしなかった。「璃娜、目を覚ましてくれ・・」匡惟が璃娜の身体を激しく揺さ振ると、彼女が首に提げていた犬を象ったカメオのネックレスが床に転がった。それは、璃娜の誕生日に匡惟がプレゼントしたものだった。「璃娜・・」匡惟はネックレスを握り締め、愛娘に別れを告げた。(いつになったら、この世から憎悪の連鎖が消えるのだろう? 憎しみは憎しみしか生まれない。) 血のような真っ赤な夕陽に照らされながら、匡惟は娘の形見を握り締めながら、答えの出ない問いを繰り返していた。にほんブログ村
「陛下、島が見えました。」「そうか。すぐに砲撃できるように準備しろ。」「はっ!」兵士が敬礼して司令官室へと出て行くと、キャサリンは望遠鏡で妹の仇が居る島を見つめた。(漸くお前の仇が討てるぞ、ユーフィリア!) 今は亡き妹が愛用していたカメオのネックレスを握り締めながら、キャサリンの蒼い瞳はユーリへの激しい憎悪に滾っていた。「本当に、良いのですか?」「ああ。わたしはこの日を待ち望んでいた。妹を唆し、殺したユーリをこの手で殺す日を。」「そうですか。では、わたしは止めません。全ては陛下の御心のままに。」ルディガーはそう言って笑うと、司令官室から出て行った。 一方島の収容所では、匡惟とユーリが数日ぶりの再会を果たしていた。「ユーリ様、お元気そうでなによりです。子ども達も元気で良かった。」「ああ。クラーク将校が取り合ってくれたお蔭だ。麗欖は?」「あの子でしたら、おとといからずっと望遠鏡で外を眺めておりますよ。突然違う環境に放りだされて動揺しているのでしょう。今なら海を見渡せる港の近くに居るでしょう。」「そうか、ありがとう。」ユーリは白銀の髪をなびかせながら、港へと向かった。 港では、麗欖が今日も望遠鏡で外を眺めていた。突然家にダブリス王国の兵士達がやって来て、汽車と船に揺られながら何もない島へと連行されたのは数日前のことだった。 両親が半妖であるということで、この不便な島に強制移住させられたのだと収容所で知り合った少年から聞いた。ここからは一生出られることはないだろうと、麗欖は思っていた。「麗欖、ここに居たのか。」「母上・・」母譲りの紅の瞳で麗欖がユーリを見ると、彼女は溜息を吐いて自分の隣に座った。「また海を見ているのか?」「だってここには何もないでしょう。それにいつ家に帰れるかも解らないし。」「そうだな。匡惟が呼んでいるぞ。」「解りました。」麗欖は望遠鏡を握り締めると、収容所へと戻って行った。(ルディガー兄上は、一体何をお考えなのだろう?)自分や匡惟をはじめとする半妖に憎悪を抱き、島へと強制移動させるルディガーの本心を、ユーリは知りたかった。出来ることなら、彼と会って話がしたかった。何故ユーフィリアを唆して殺したのかを。あの悪魔は何者なのかを。(兄上、何処に・・)ユーリがそう思いながら収容所から戻ろうとした時、大地を揺るがすような轟音とともに、収容所の方から白煙が立ち上った。「一体何が・・」呆然と収容所の方を見つめるユーリの前に、巨大な戦艦が紺碧の海に現れ、艦隊は港に停泊した。「見つけたぞ、ユーリ。妹の仇!」マントの裾を翻し、タラップから港へと飛び降りたキャサリンは、洋剣を手にしてユーリへと突進した。「あなたは・・キャサリン様・・どうしてここに?」「決まっている、お前を殺し、妹の仇を討つ為だ!」キャサリンが奮った刃が、容赦なくユーリの服を引き裂いた。「その者を連れて行け!」兵士達に戦艦へと連行されたユーリは、甲板でルディガーと再会した。「兄上、何故キャサリン様と・・」「ユーリ、お前がその理由を知ることはないだろう。」ルディガーはそう言って笑うと、ユーリの脇を通り過ぎた。 一方砲撃を受けた収容所内では、瓦礫の下敷きとなり息絶えた女や子どもの遺体が転がっていた。「閣下、エスティア皇国の戦艦がこちらに上陸いたしました!」「なに、エスティアが!?」クラーク将校は、ユーリが港から戻って来ない事に気づいた。(まさか、ユーリ様は・・)にほんブログ村
「どうなさいましたか、お嬢様?」「後ろに、誰か居るわ!」山瀬が背後を振り向くと、そこには漆黒の羽根を持った悪魔―リュミエルが立っていた。「このようなところで鬼族の末裔に会うとは、奇遇ですね。」そう言ってリュミエルは、じっと羅姫を見た。「あなたは・・」「お嬢様、この悪魔はあなたのご両親・・香様と蓮華様を処刑した張本人です!」「あなたが・・父上と、母上を・・」羅姫の蒼い瞳が漆黒の悪魔を見つめた。脳裡に、背中合わせで敵に立ち向かう両親の最期の姿が浮かんだ。「あなたが、父上と母上を・・里のみんなを殺したの!?」「ええ。彼らはダブリスに疫病を広めた。だからルディガー陛下はあなた方一族を根絶やしにしたのです。」「悪魔の言葉を聞いてはなりません、お嬢様! 彼の言葉に惑わされてはいけません!」山瀬の声は、羅姫の耳には届かなかった。「あなたのご両親は、ダブリスに疫病を広めたから殺された。」「そんなの、嘘よ! 父上や母上は、いつも人の為に・・」「その人間に、あなたのご両親は利用されたのです。あなたの両親は、自分達が守り、共存しようとしていた人間達に殺された。所詮魔物と人間は相容れないのですよ。」リュミエルはそっと羅姫に近づくと、彼女の頬をそっと撫でた。「復讐したいでしょう、あなたのご両親を殺した人間達に。」リュミエルの暗赤色の瞳が妖しく煌めき、羅姫を見つめた。羅姫は彼の視線から逃れようとしたが、身体が全く動かない。―復讐したいでしょう?頭の中で直接、リュミエルの声が聞こえてきた。(駄目・・聞いては駄目。)耳を塞ごうとした羅姫だったが、耳を塞いでも彼の声は聞こえてくる。―憎くないのですか?自分の両親に濡れ衣を着せ、処刑した人間達は憎い。だが、人間達は両親の処刑した者達以外にも、自分達鬼族と共存しようとする者達が居る。(人間は悪い者ばかりではないと、父上達は言っていた。わたしは、その言葉を信じたい!)―強情ですね・・まぁ、いいでしょう。リュミエルはそう言うと、フッと口端を歪めて笑った。「お嬢様!」羅姫の元へと駆け寄ろうとした山瀬は、彼女の様子がおかしいことに気づいた。「お嬢様・・?」―人間達を、殺しなさい。(いや・・殺したくない!)―今こそ復讐の時です、殺しなさい!(わたしは、殺したくない・・)両親は人間達に罪を着せられ、処刑された。両親の死は羅姫にとって世界を変えた。彼らから両親を奪っていった人間達に、憎しみを持ったことは一度や二度ある。だが、全ての人間達が悪者ではないという両親の教えに、羅姫は背きたくはなかった。それなのに今、目の前に立つ悪魔の甘い言葉に惑わされそうになっている。(どうして・・わたしは・・)―さぁ、おいで。突然、リュミエルの姿が亡き父・香に見えてきた。(父上・・?)―人間達に復讐しよう、羅姫。処刑された者達の分まで。「ええ、父上。一緒に復讐しましょう。」悪魔の幻術に惑わされた羅姫は、暗赤色の瞳を煌めかせながら、リュミエルの手を握った。「お嬢様・・」山瀬は呆然とした様子で、悪魔と手を結んだ主を見つめていた。「急いだ方がいい。」「ええ。」「待て、お嬢様を何処へ連れて行く!?」 リュミエルは山瀬の問いには答えず、口端を歪めて笑いながら羅姫を抱き抱えて漆黒の羽根を広げ、上空へと上昇していった。にほんブログ村
「クラーク将校、それは一体どういう事なのですか? 何故、兄上・・ルディガー陛下が・・」「陛下のお傍にはいつも、あの漆黒の羽根を持つ悪魔―リュミエルが居ます。リュミエルは陛下の御心に悪しき種を植え付け、陛下はダブリスにいる全ての半妖や妖達を滅ぼそうとしているのです。10年前、鬼族に濡れ衣を着せて殺したようにね。」「そんな・・」兄がこれからやろうとしていることを知り、ユーリの視界が揺らいだ。それと同時に、無実の罪を着せられ処刑された香と蓮華の顔が浮かんだ。「ユーリ様、どうかルディガー陛下を止めてください。あなただけなのです、この国を救えるのは・・」「クラーク将校、もうわたしは皇太子ではありません。」「承知しております。ですがあなたのお力が必要なのです。あの方の暴走をお止めするには、どうしても・・」(兄上・・)ユーリの脳裡に、久しぶりに再会したルディガーの、狂気に彩られた蒼い双眸が浮かんだ。彼は一体いつから、あのように変わってしまったのだろうか。「クラーク将校、お願いがあります。この宮殿に住む者達に、酷い事はなさらないでください。」「解りました。」クラーク将校はそう言って立ち上がると、ユーリに右手を差し出した。ユーリはその手を、力強く握った。 一方エスティア皇国では、第一皇女・キャサリンが父王の跡を継ぎ女王として善政を敷いていた。文武に秀でていて常に戦場の最前線に立つ彼女の姿は、国民達から“エスティアの女神”と謳われるほど勇ましくも美しいものであった。だがそんな彼女は、妹・ユーフィリアの仇であるユーリを執拗に探していた。あの日―式典で虐殺という蛮行に走り、ユーリの手によって倒され、己の腕の中で若く美しい命を散らせた愛しい妹の事を、キャサリンは一秒たりとも忘れてはいなかった。(ユーリ、貴様の命はわたしが討ち取ってやる! それまで、首を洗って待っていろ!)「陛下、申し上げます。ダブリスのルディガー陛下が、陛下に謁見したいと。」「ルディガーが?」隣国の王の名を聞いたキャサリンの美しい眦が上がった。自分と蒼い瞳を持ちながら、腹の底が全く読めぬルディガーの事を、キャサリンは嫌っていた。そのルディガーがわざわざ自分に謁見を願い出るなどおかしいと思ったが、キャサリンは彼と会う事にした。「お久しぶりでございます、キャサリン陛下。」「珍しいな。貴様が供も連れずにわたしの元に来るとは。」「ええ。陛下、ユーリの事をお探しですか?」「奴を・・奴の居所を知っているのか!?」キャサリンは思わず玉座から立ち上がり、ルディガーに詰め寄った。「ええ。ユーリは・・わたしの弟、いや、妹と言った方がいいでしょうね・・妹は、ダブリスとエスティアの軍事境界線上に浮かぶ島におりますよ。」「案内しろ、今すぐにだ!」「ええ。これでやっと、ユーフィリア様の仇が討てますね。」その後キャサリンとルディガーは、ユーリ達が居る島へと向かった。「全く、キリがありませんね・・」羅姫とともにホテル内に湧いたゾンビを倒している山瀬は、そう呟くと額の汗を拭った。「処刑場の跡地にホテルを建てるからよ。さっさとゾンビの親玉を始末する方法を考え・・」羅姫が洋剣を振るってゾンビを次々と倒して体勢を整えようとした時、激しい揺れが彼女を襲った。「なに、この揺れは・・」羅姫がゆっくりと一歩奥の部屋へと進もうとした時、突然床に亀裂が走り、奈落の穴へと彼女は落ちていった。「お嬢様!」咄嗟に山瀬は羅姫の手を掴んだが、彼が立っていた場所にも大きな穴が開き、彼らはそのまま穴の中へと落ちていった。「う・・」「お嬢様、大丈夫ですか?」羅姫が呻きながら山瀬の方を向くと、彼の背後に何者かの気配がした。にほんブログ村
内陸部へと向かう汽車を待っていたユーリ達は、ダブリス王国軍によって窓のない貨物車両にすし詰めにされ、汽車はプラットホームを離れた途端加速した。「ユーリ、大丈夫ですか!?」「ああ。」「お母様、痛いよぉ・・」ユーリと匡惟は、息も出来ぬ程に押し込められ、汽車が動く度に圧死しそうになりながらも、必死に子ども達を守ろうとした。 外の様子が一切解らず、何処へと向かっているのか解らぬまま、匡惟達は子ども達を優しく宥めていた。 やがて汽車は、ある駅のプラットホームへと滑り込み、停車した。「降りろ!」王国軍の兵士達によって銃口を突き付けられながら、ユーリ達は駅から出て港へと向かった。 そこには、巨大な船が停泊していた。「あの、あれに乗るのですか?」「早く乗れ!」「はい・・」銃を持った兵士達に怯えながら、ユーリ達は次々と船へと乗り込んだ。「お母さん、わたし達何処へ行くの?」「しっ、黙って。」「母ちゃん、疲れたよ。」ユーリ達半妖らは王国軍とともに乗船した船は、大海原の上を滑るように走った後、異様な島が霧の彼方に見えてきた。「あれは、一体・・」「何か、変な建物ばかり。」「不気味ね・・」ひそひそと女達が囁いていると、兵士達がジロリと彼女達を睨んだ。「さっさと降りろ!」白い霧に包まれた中、ユーリ達は訳も解らず奇妙な建物に囲まれた島へと上陸した。 彼らは、ある建物の中へと入った。そこはかつて宮殿と思しき建物であったらしいが、今は蔦に覆われていて不気味に聳え立っていた。 内部は荒れ果て、往時の栄華を偲ばせるようなシャンデリアや、色褪せた真紅の金唐革紙がところどころ剥がれ落ちていた。「男は右側の部屋へ、女は左側の部屋へ行け!」「お父さん・・怖い・・」璃娜は、ぎゅっと匡惟の腰にしがみ付いたまま離れようとはしなかった。「璃娜、お母様と一緒にいなさい。これで二度と会える訳ではないのだからね。」「はい・・」璃娜は母の手にひかれながら、父の腰から手を離した。 ユーリ達は、王宮内の一室へと集められた。「お前達はこれから、ここで暮らして貰う。」兵士の1人がそう言うと、頭に被っていた帽子を脱いだ。「身につけている貴金属類をこの中に入れろ。」女達は渋々と、身につけている髪飾りや指輪などの装身具を帽子の中へと入れた。列の最後尾に並んでいたユーリの前に兵士が立つと、彼はぎょっとしたような顔をしてユーリを見た。「あなたは、もしや・・ユーリ様ではありませんか?」「そうですけど・・」「ユーリ様、こちらへどうぞ。」兵士に連れられ、ユーリが彼と共にかつて大広間であった部屋へと入ると、そこには彼の指揮官と思しき年配の将校がチンツ張りの椅子に座っていた。「お久しゅうございます、ユーリ様。この度は失礼をいたしまして、申し訳ありませんでした。」「あなたは・・クラーク将校?」ユーリはその将校をじっと見つめた。彼―ジョン・クラーク将校は、ユーリの皇太子時代に剣術の指南役として公私ともに親しくしていた。「教えてください、クラーク将校。何故わたし達は突然このような場所に連れてこられたのですか?」「それは、あなたの兄上様・・ルディガー陛下が漆黒の羽根を持つ悪魔と契約してしまったからです。その悪魔に、陛下は魂を奪われてしまいました。」「兄上が・・」にほんブログ村
男達の怒号と女性客たちの悲鳴が響き渡る中、羅姫は向かってくる賊に向けて容赦なく洋剣を振るった。「全く、倒しても倒しても湧いてくる・・まるでゾンビね・・」羅姫がそう言って溜息を吐くと、彼女の背後に妖しい影が揺らめいた。「しまっ・・」羅姫が再び洋剣を構えて敵へと向かおうとした時、山瀬が敵の頭部を斧で潰した。「大丈夫ですか、お嬢様?」「遅いわよ、山瀬。」羅姫はそう言って山瀬に微笑んだ。「お嬢様、こんなに次々と湧いて来る賊は何かがおかしいですね。」「ええ。まるでゾンビのようね。」「昔このホテルは罪人の処刑場だったとか。けれど欲に目が眩んだこのホテルの前オーナーが良く土地を調べもせずに勝手に建てたものだから、罪人の霊達が怒ったのでしょう。」「そうね。オーナーに会ってくるわ。」「わたくしも一緒に参ります、お嬢様。何せ周りが物騒ですので。」山瀬は自分の背後に近付いてきた賊の頭部を斧で潰した。 羅姫と山瀬がホテルの総支配人室へと向かうと、中から悲鳴が聞こえたので、山瀬がドアを蹴り破った。「お取り込み中のところ、失礼致しますよ。」山瀬はそう言って、総支配人を襲おうとしている賊―もといゾンビの頭部を斧で潰した。「ひ、ひぃ! 助けてくれぇ~!」「ひとつお聞きしたいことがあるのですが、ここは昔罪人の処刑場だということはご存知ですか?」「そんな事は昔から知っていたさ! だが祖父は金に目が眩んで陰陽師や霊媒師達の言う事を聞こうとはしなかった!」「あなたのお祖父様に、お会いしたいのですが。」山瀬の問いに、オーナーは首を横に振った。「それは、出来ない。」「何故です?」「もう祖父は、この世の者ではないからだ!」「そうですか。ではあなたが知っている事を全て話して貰いましょう。その前に・・」山瀬はゾンビの頭部を斧で再び潰した。「この厄介な“賊”を始末せねばなりませんね。」そう言った彼の瞳が、狂気に満ちた真紅に染まった。 ホテルの外では、処刑され成仏できない罪人たちのゾンビが、次々と従業員や客達を襲っていた。「一体こいつらは何なんだ? 撃っても、撃っても起き上がって来るぞ!」「ええい、きりがない!」騒ぎを聞きつけた警官達がホテルへと駆けつけ、拳銃でゾンビを撃っていたが、彼らは倒されても、倒されても起き上がって来る。「こいつらをどうすれば・・ぎゃぁぁ!」警官が額の汗をハンカチでぬぐおうとした時、ゾンビが彼に襲い掛かり、彼の肉を喰らい始めた。「ひ、ひぃぃ!」仲間を目の前で襲われ、彼を助けようとして拳銃を発砲した警官だったが、手が震えて焦点が定まらない。(もう、駄目だ・・) 彼が恐怖に呑まれようとした時、視線の端に深緑のドレスの裾が翻るのが映ったかと思うと、ゾンビ達の頭部を鮮やかな剣捌きで潰していった。「彼らは頭部を潰さないと駄目よ。」「え、ええ・・」「じゃぁ、わたしはこれで。」羅姫は、さっと次の敵へと突進していった。 一方、海を遠く隔てたダブリス王国で、新たな動きが始まっていた。新国王・ルディガーは、妖狐の血、鬼族の血を一滴でもひいている者は、内陸部の収容所へと強制移動させる「半妖移動令」を発令した。これにより、ユーリ達は夫と3人の幼子を連れ、多くの混血者とともに内陸部の収容所へと向かう為に、汽車に乗る長蛇の列に加わった。「これから、どうなるんでしょう・・」「さぁ、解りません。」ユーリの真紅の瞳は、暗澹たる未来への不安で曇っていた。にほんブログ村
「お嬢様、お休みなさいませ。」「お休みなさい、山瀬。」 大広間から自分の部屋へと戻った羅姫は、夜着に着替えて寝台に横たわり、黒い燕尾服の裾を揺らしながら部屋を出て行く執事の背中を見送った。「結婚、ねぇ・・」 陸軍主催のパーティーに出席し、山田達と話したものの、羅姫は彼らに対して何の感情も抱かなかった。寧ろ抱いたとすれば、彼らに対する好奇心だろうか。ふと羅姫の脳裡に、山瀬に突然告白されたことを思い出した。“あなたを愛しております、羅姫様。”そう言って自分を抱き締めた山瀬の真剣な眼差しは、目蓋を何度も閉じても簡単に忘れられるものではなかった。いつからだろうか、山瀬の、己への恋心に気づき始めたのは。彼は物心ついた時から―鴾和の家に居た頃から自分の事を想ってきたのだろう。やがて羅姫が妙齢となり、妻として娶れる歳となるその日まで、山瀬は辛抱強く待っていてくれたのだ。(わたしは、どうしたらいいのかしら?)山瀬への想いに応えようか、漸く探した弟と一緒に暮らそうかどうか羅姫は迷っていた。血を分けた双子の弟・香欖(からん)の存在は、常に羅姫を勇気づけてくれた。長い間離ればなれとなっていた時も、羅姫は香欖の事を一日足りとも忘れたことはなかった。だが、山瀬は香欖とは違う。肉親の情でもなく、友愛でもなく、もっと何か特別なもので、彼と自分は結ばれていると思い始めていた。一体それが何なのか―羅姫がそう思い始めた頃、急に廊下が騒がしくなった。「お嬢様、火事です! 早くお逃げ下さい!」「火事ですって?」羅姫が寝台から飛び起きると、山瀬が寝室へと入って来た。「ええ。どうやら賊が侵入したようです。」「賊が?」羅姫が夜着からドレスに着替え、山瀬がその着替えを手伝っていると、自分達の近い部屋から耳を劈くような悲鳴と、男達の怒号が聞こえた。「荒っぽい賊だこと。」羅姫は溜息を吐くと、寝室から出て行った。「これからどうなさいますか、お嬢様?」「折角眠ろうと思ったのに、賊の所為で安眠を妨害されては堪らないわ。賊を蹴散らすわよ。」「はい、お嬢様。」山瀬はそう言って苦笑いを浮かべながら、羅姫とともに部屋を出て行った。 廊下では数十人の男達が客室に押し入り貴金属類を奪ったり、ホテルの調度品を盗んだりと略奪の限りを尽くしていた。「これだけの宝石がありゃぁ、いい暮らしが期待できそうだぜ。」男はそう言って煙草を口に咥えながら、先ほど華族の婦人から奪ったダイヤモンドのネックレスを眺め、その手触りを楽しんだ。「お前ね、わたしの安眠を妨害した賊というのは。」背後から凛とした声が聞こえて男が振り向くと、そこには絹のドレスを纏った金髪の令嬢が立っていた。「なんだぁ、今いいところなんだから邪魔しないでくれねぇかなぁ?」「そうはいかないわ。」令嬢の美しい唇の端が吊り上がり、蒼い瞳が煌めいた。「退け、女ぁ!」苛立った男が令嬢に向かって突進し、その襟元を掴もうとした時、ドスッと鈍い音が廊下に響いた。「汚れた手で、わたしに触らないでいただけるかしら?」令嬢が冷たい声でそう言った時、男の命は尽きていた。男の仲間が唸り声を上げながら羅姫へと突進していったが、彼女は数人の男達を血祭りにあげた。「我が名は鴾和香が娘、羅姫!」羅姫はそう言うと、血に塗れた洋剣を敵に向けた。にほんブログ村
「やっぱり、お前が言った通りね。」 陸軍主催のパーティーが開かれているホテルの宴会場には、結婚適齢期の男女が談笑していた。「ええ、お嬢様。しかしどう見てもお嬢様より年上の方が多いように見受けられますが・・」「そうね。まぁ折角招待されたのだから楽しみましょう。」「ええ。」羅姫がボーイからシャンパンを受け取ってそれを一口飲もうとした時、視線を感じて彼女は会場の隅の方を見た。「どうなさいました、お嬢様?」「あそこに、あの人のお友達が居るわ。」山瀬がちらりと会場の隅の方を見ると、そこには遥の友人達が羅姫達の方を見ながらヒソヒソと何かを囁き合っていた。その様子から見て、決して羅姫に対して好意的な内容を話していないことくらい、彼女は解った。「放っておきなさい。」「ええ。」羅姫と山瀬がパーティーを楽しんでいると、先ほど花街でぶつかった青年達の姿を、羅姫は見つけて彼らの方へと近づいた。「あら、奇遇ですわね。」「あなたは、先程の・・」「軍服を着ていらしたので軍人さんかと思いましたが・・まさか陸軍の方だとは思いもしませんでしたわ。初めまして、瀧丘羅姫と申します。」「山田久貴です。」長身の黒髪の男が羅姫に自己紹介すると彼女に頭を下げた。「そちらの方は、山田さんのご友人かしら?」「ええ。こいつは菱田佐助です。30手前にもなって浮ついた話がひとつもないものですから、こうして嫌がるこいつを引っ張って来た訳です。」「まぁ、お節介な友人がいらっしゃることね。」羅姫がそう言って笑うと、友人の隣で黙っていた金髪の男が、弾けるような笑い声を上げた。「お嬢様、そちらの方は?」談笑している彼らの元に山瀬がやって来た。「先ほどお知り合いになったのよ。山田さん、菱田さん、ご紹介いたしますわ。うちの執事の、山瀬です。」「初めまして、山瀬です。」男達に挨拶した山瀬はそう言って笑ったが、目は笑っていなかった。「ではお嬢様、わたくしはこれで。」「ええ、御苦労さま。」山瀬が大広間を出て行くのを見送った羅姫が男達に向き直ろうとした時、楽団がワルツを演奏し始めた。「菱田さん、一曲踊ってくださらないこと?」「はい、喜んで。」いい雰囲気の羅姫と友人に、思わず頬を緩めて笑ってしまった黒髪の男の元に、遥の友人達がやって来た。「あら、誰かと思ったら山田さんじゃありませんか?」「お久しぶりですわね。」「ああ、お久しぶり。このような場に行くと必ず君達に会うんだが、やっぱり婚期が遅れている所為で色々と周囲から煩く言われているのかな?」「まぁ、失礼な方ね!」「行きましょう!」遥の友人達は怒りに顔を歪ませると、大広間から出て行った。「やっとうるさい女達は出て行ったところだし・・こちらはこちらで相手を見つけるか。」 同じ頃、遥の披露宴から帰ってきた冬香と晃之介は、涼太を呼びだした。「父様、お話しってなんですか?」「涼太、お前は姉さんの事がそんなに嫌いなのか? いくら姉さんが気に入らないからってあのような場であんな事を言うなど・・」「僕は正直に自分の気持ちを伝えただけです。姉様はもう瀧丘家の人間ではありませんからね。」涼太は冷淡な口調でそう父親に言うと、ダイニングから出て行った。「遥にも困ったものだわ。あんな生活で嫁ぎ先でやっていけるのかしらねぇ。」冬香は深い溜息を吐くと、眉間を指先で揉んだ。にほんブログ村
料亭の一室に青年達と香欖が入ると、そこには軍服に身を包んだ50代半ばの男が上座に座っていた。「うちに何か用ですやろうか?」「君が、香欖さんだね?」「へぇ、そうどすけど・・」男は香欖をじっと見ると、彼の手を握った。「実は、君に頼みたいことがあってね。少しの間だけでいいから、話を聞いて貰えないだろうか?」香欖は男を見ると、彼は香欖に笑みを返した。「君に、これを渡したいと思ってね。」男がそう言って香欖に懐剣を差し出した。そこには鴾和家の家紋が彫られていた。「これは、母上の・・じゃぁあなたは・・」「10年前、わたしは君達に一生詫びても許されぬ事をした。あれから君達の消息を探していたが、漸く君を見つけてこれを渡せた。」「おおきに。ではうちはこれで。」香欖は男に深々とお辞儀をすると、部屋から出て行った。「あれで良かったのですか、浅野様?」「もう良い。わたしはあの懐剣を元の持ち主に渡せたのだから。」男は溜息を吐くと、軍服の内ポケットから一枚の新聞記事の切り抜きを取り出した。そこには疫病を広めた罪を被せられた鴾和家の者が処刑されたという内容が書かれていた。「わたしはこの10年間、罪を背負って生きてきた。あの頃わたしは何の疑いも持たずに上の命令にただ従うだけの操り人形にしか過ぎなかった・・だがあの時、わたしは初めて自分がとてつもない罪を犯したと知ったのだ。」「准将・・」男は目を伏せると、次の言葉を継いだ。「何の罪もない一族の未来を、生活を、そして命をわたしはこの手で奪ってしまった。一族の末裔である香欖さんに懐剣を渡した時、漸くわたしは罪の枷を外せたのだよ。」男は溜息を吐くと、茶を飲んだ。「君達はもう行きなさい。暫くひとりにしてくれないか。」「はい、では我々はこれで。」青年達は料亭を出て、花街の路地を歩き始めた。「花街に折角来たのだから、今夜はパーっと飲みにでも行かないか?」「駄目だ。全くお前は遊ぶ事しか考えないんだな。」「そういうお前はまじめ過ぎて困る。もう30に近くなるというのに、浮ついた話ひとつもないんだからな。」「放っておけ。」青年達が歩きながら話していると、路地の向こうからレースの日傘を差して歩いて来る令嬢とぶつかってしまった。「すいません、大丈夫ですか?」「ええ、大丈夫です。」そう言って顔を上げた令嬢は、蒼い瞳で青年達を見た。「羅姫お嬢様、参りましょう。」「解ったわ。では御機嫌よう。」令嬢はふっと青年達に笑みを浮かべると、執事らしき男とともに彼らの元から優雅に去っていった。 香欖と再会を果たした夜、羅姫は宿泊先のホテルで休んでいると、山瀬が部屋に入って来た。「どうしたの、山瀬?」「急なお誘いなのですが、陸軍主催のパーティーへの招待状が先程届きました。」「そう。今夜はゆっくりしたかったのに・・でもドレスや宝石は用意していたから、良かったわ。」「では支度をお手伝い致します。」「ありがとう。それにしても軍が主催するパーティーだから、男ばかりが集まっていると思うわね。」「ええ。結婚適齢期の男女の出逢いの場を作ろうとなさっているのでしょうね。」山瀬の言葉に、羅姫は深い溜息を吐くと、全身が映る鏡で乱れた前髪を整えると、ドレスの裾を摘んで部屋から出て行った。「お嬢様、忘れ物です。」山瀬が慌てて羅姫の後を追い、彼女の手首にダイヤのブレスレットを嵌めた。「ありがとう、山瀬。」にほんブログ村
2011.05.23
駅舎を出た羅姫と山瀬は、香欖(からん)が住んでいるという花街へと向かった。「ここが、花街ね。」羅姫はそう言って馬車から降り、香欖が住む街を見渡した。 この街の何処かに、長い間探していた双子の弟が住んでいる―そう思うだけで羅姫は胸が熱くなった。「お嬢様、こちらです。」山瀬は御者に代金を払うと、路地を歩き始めた。どうやら香欖が住む置屋は、花街の入口から少し奥まったところにあるらしく、人一人すれ違う隙間もないほど狭い通路を何度か通り、羅姫と山瀬は漸く香欖が住んでいる置屋「にしだ」の前に立った。「ここに、香欖が居るのね。」羅姫がそう言って戸を開けようとすると、山瀬がそれを制した。「わたくしが参りましょう。」山瀬はそう言うなり、戸を叩いた。「へえ、どちらはんどすか?」戸が開き、中かから女将らしき女性が出てきた。「突然お伺いして申し訳ありません。わたくしは瀧丘家の執事の山瀬と申します。」「瀧丘家て・・子爵様がうちに何のご用どすか?」「実は、そちらにいらっしゃる舞妓さんの事でお話しを・・」「おかあさん、どないしはりました?」部屋の奥から少女の声が聞こえたかと思うと、黒髪を割れしのぶに結った花柄の小紋を着た舞妓が、玄関へとやって来た。「香欖ちゃん、丁度ええところに来たわ。こちらのお方があんたに会いたいて言うてはるんや。」「こちらの方が?」舞妓はそう言って、山瀬を見た。彼女の瞳が紅いことに気づいた彼は、この舞妓が香欖だと判った。「あなたが、香欖さんですか?」「へぇ、そうどすけど・・」「香欖!」羅姫はドレスの裾を翻すと、そう叫んで舞妓に抱きついた。「やっと会えた!」「姉・・上・・?」香欖の顔が一瞬強張ったかと思うと、次の瞬間彼は満面の笑みを浮かべた。「本当に、姉上なの!?」「ええそうよ、香欖。漸く会えたわね。」「姉上、会いたかった・・」「わたしもよ、香欖!」両親を亡くし、生き別れてから10年もの歳月が流れた今、双子の姉弟は漸く再会を果たした。「いやぁ、びっくりしはりました。まさか子爵家のお嬢様が香欖ちゃんのお姉さんやったやなんて。良かったなぁ、香欖ちゃん。」女将はそう言って香欖に微笑んだ。「へぇ、おかあさん。」「女将、香欖様の事をどうぞ宜しくお願い致しますね。」「へぇ。」山瀬と羅姫に、女将は頭を下げた。「姉上、またいらしてくださいね。」「解ったわ。時間があれば必ず伺うわ。それまで身体に気をつけなさい。」「うん。」再会を果たした羅姫と香欖は熱い抱擁を交わすと、「にしだ」を後にした。 数分後、そこへ軍服姿の2人の青年がやって来た。「こんにちは。こちらに香欖さんていう舞妓さんはいらっしゃいますか?」「へぇ、うちに何か用どすか?」「ちょっと顔を貸していただけませんか? 少しあなたとお話があります。」「おかあさん、行ってきます。」香欖はそう言って女将に頭を下げると部屋へと向かい、花籠を持って玄関へと戻った。「では行きましょうか。」青年に連れられた所は、香欖がよくお座敷で行く料亭の一室だった。「連れて参りました。」「そうか、入れ。」「失礼致します。」にほんブログ村
2011.05.22
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「意地など張っていないわよ。あの人はわたしがこの家に来た時からわたしの事が嫌いなのよ。もう居なくなるかと思えばせいせいするわ。」羅姫はそう言って涼太を見た。「涼太、こんな所に居たの。」冬香が部屋に入ってくると、涼太は溜息を吐いた。「母様も羅姫姉様を説得してくれよ。どうしても出ないって・・」「出たくないって羅姫が言っているのに、無理に出席させるなんて・・ねぇ?」冬香はそう言いながら羅姫を見ると、彼女は静かに頷いた。「涼太、お前が何を言おうともわたしは式には出ないわ。お父様にわざわざあの人がわたしに式に出ないよう、お願いしたみたいだし。」「そんな・・」「時間がないのでしょう?」「さぁ涼太、行きましょう。」冬香に促され、涼太は溜息を吐きながら部屋から出て行った。「お嬢様、失礼致します。」山瀬が部屋に入ると、羅姫が気だるそうに本から顔を上げて彼を見た。「あの人達は行ったの?」「ええ。それよりも香欖(こうらん)様の消息が判りました。」山瀬の言葉に、羅姫は微かに蒼い瞳を輝かせた。「そう、解ったわ。」羅姫と山瀬は旅支度をし、駅へと向かった。 一方、羅姫を除く瀧丘家の者達は、遥と陽輔の挙式と披露宴に出席していた。今日の主役である遥は、白無垢を纏い、幸せそうな笑顔を浮かべていた。―羅姫様がご出席なさらないなんて、おかしいわね。―いくら血が繋がらないとはいえ、遥様と羅姫様は姉妹ですのに・・―遥様と晃之介様達は、矢張り義理の娘よりも実の娘の方を優先させたのね。―羅姫様、お可哀想に・・口さがない連中が披露宴の間ひそひそと意地の悪い囁きを交わすのを聞きながら、冬香と晃之介夫妻は黙ってそれに耐えた。「何で父様達が悪くないのに、あれこれ言われなきゃいけないんだ。そもそも遥姉様の所為なのに。」涼太はそう言って高砂席に座っていた遥に詰め寄った。「そんな事知らないわよ! あの子が勝手に来ないだけだもの。」遥は溜息を吐きながらいきり立つ涼太を睨んだ。「遥姉様は羅姫姉様の事が嫌いなんだろう? だから父様に頼んで式には出ないようにと父様から羅姫姉様からお願いしたって、羅姫姉様が言っていたよ。」「あ、あれはあの子がわたしに無礼な事を言ったから、その腹いせよ!」遥がそう叫ぶと、涼太はそれを鼻で笑った。「全く、何時まで経っても精神的に幼児のままなんだ、遥姉様は。今朝の豪華客船の事故について、新婚旅行先がひとつ潰れたとか言いだすその無神経さにはあきれるよ。陽輔さん、こんな姉とやっていくのは大変ですよ。」涼太はそう姉に向かって吐き捨てるように言うと、さっさと自分の席へと戻った。「遥さん、気にしない方が良い。それにしても羅姫さんは酷い人だ、涼太君に変な事を吹き込んで君を陥れようとするだなんて。」陽輔は溜息を吐きながら遥を見ると、彼女は泣いていた。「陽輔さん、今回の事でお父様達はわたしを責めるのよ。あの子がわたしを陥れようとしているのよ。わたしを信じてくださるのはあなただけよ。」遥はそう言うと、夫となった陽輔に満面の笑みを浮かべた。 同じ頃、汽車に乗った山瀬と羅姫は、香欖が住むという花街がある都市へと向かっていた。「あの子が舞妓になっている? それは本当なの?」「ええ。まだ舞妓としてお披露目されてから数ヶ月しか経ちませんが、大変売れっ子のようで。」「あの子が舞妓にねぇ。人生どうなるのかわかったものではないわね。」(香欖、やっと会える。わたしの弟・・わたしの本当の家族!)山瀬と羅姫の客室を一つ挟んだ客室の中には、軍服姿の2人の青年が座っていた。「もうすぐ着くな。」「ああ。」汽車がプラットホームへと滑り込み、羅姫と山瀬が汽車から降りようとした時、途中で1人の青年とぶつかった。「あら、ごめんなさい。」「いえ、こちらこそ。」これが、運命の出逢いであることは、まだこの時羅姫と青年は互いに知らなかった。にほんブログ村
2011.05.21
「ちょっと、何笑ってるのよ!」「別に。ただ、この事故について新婚旅行が駄目になったなどと言う事をほざくお姉様の神経が解らなくて、つい。」辛辣な羅姫の言葉に、遥は怒りで顔を赤く染めた。「止しなさい、羅姫。何も遥は悪気があって言ったわけじゃないんだから。」晃之介がそう言って羅姫を制した。「陽輔様も大変ね。お姉様のような方とこれから暮らすことになるのですから。」羅姫がコーヒーを飲もうとした時、遥が椅子から立ち上がって彼女の頬を張った。「煩いわね、羅姫! あんた少しは黙っていなさいよ!」「煩いのはお姉様の方ではなくて?」羅姫は飲んでいたコーヒーをそのまま遥にぶちまけると、彼女は悲鳴を上げた。「じゃぁ、行ってきます。」羅姫は涼しい顔で泣き喚く遥の脇を通り過ぎると、ダイニングから出て行った。「お嬢様、遥お嬢様にあのような事をなさってよろしいのですか?」「別にいいわよ。数ヵ月後には居なくなる方だもの。それよりも山瀬、哲爾の事は調べたの?」「ええ。あの夜会から社交場には滅多に姿を見せませんが、どうやらあの小菊とかいう娼妓と駆け落ちしていました。当然ですが、相田家とは絶縁なさったようです。」「そう。あいつとは結婚するつもりはなかったから、良かったわ。心配なのはすずさんね。」羅姫は溜息を吐くと、厩へと向かった。 愛馬に跨り彼女が相田家に向かうと、相田家の執事・大里が彼女を出迎えた。「羅姫さま、ようこそお越しくださいました。」「すずさんにお会いしたいのだけれど。」「生憎ですが、すずお嬢様はどなたにもお会いにはなれません。」「哲爾様の事で、落ち込んでいらっしゃるのね?」羅姫がそう大里に尋ねると、彼は静かに頷いた。「そう。ではまた参りますと、早く元気になってくださいとすずさんにお伝えくださいな。」羅姫はそう言って再び愛馬に跨り、相田家を後にした。「お嬢様、すず様は?」「今はお会いしたくないと、あちらの執事が言っていたわ。無理もないでしょう。暫くそっとしておこうかと。」「そうですね。それよりもお嬢様、遥お嬢様のお式の事で、旦那様が羅姫お嬢様をお呼びです。至急書斎に来られるようにと。」「解ったわ。」羅姫が書斎に行くと、そこには険しい表情を浮かべた晃之介が立っていた。「お話とは何でしょうか、お父様?」「羅姫、そこに座れ。」「はい。」晃之介に言われるがままに、ソファに座った。「遥の結婚式だが、お前は出席しなくていい。」「今朝の事が原因ですか?」「遥たっての希望なんだ。お前には済まないが・・」「解りました。今は結婚式の準備がお忙しいようですし、お式が済んだからここから出て行くので顔を合わせなくて済みますわね。」「羅姫、お前と遥は幼い頃から仲が悪かったな。血が繋がっていないとはいえ、お前達は姉妹なのだから・・」「仲良くは出来ませんわ、お父様。カンパーニャ号の事故で亡くなられた方の事よりも、新婚旅行の事を心配するような無神経な女を、わたくしは金輪際姉とは呼びません。では失礼。」羅姫はソファからさっと立ち上がると、書斎から出て行った。「羅姫、何処へ行っていたの?」遥の部屋から出てきた冬香がそう言って羅姫を見た。「すずさんの所へ。お母様、わたくしはあの人のお式には出ませんから。その方が向こうも安心なさるでしょうし。」「羅姫、そんな事を言わないで。まだ時間があるし・・」「もういいんです。」羅姫はそう言うと、冬香に背を向けて自室へと入った。 数ヵ月後、遥と陽輔の挙式当日に、涼太が羅姫の部屋を訪ねた。「姉様、本当にお式は出ないつもりなの?」「ええ。」「どうして意地を張るのさ? 遥姉様は・・」にほんブログ村
「え・・」突然水中から伸びて来た無数の手に、璃音は恐怖で目を見開いた。―やっと見つけたわ・・―さぁ、一緒に行きましょう。―怖がらなくていいのよ・・水中から人魚達が顔を出し、璃音に向かって手招きした。「いや・・来ないで・・」璃音は必死に人魚達から逃れようと、梯子からボートへと飛び移った。ふと彼女が先程まで居た一等船室のデッキを見ると、客船には紅蓮の炎が噴き出し、まだ避難していない人々が逃げ惑っていた。―いい気味だわ・・―わたし達を蔑ろにした罰よ・・―せいぜい苦しむがいいわ・・ 人魚達が逃げ惑う人々を嘲笑いながら、歌うような声でそう言うと、彼女達は一斉に璃音を見た。―もう人間達と一緒に居る必要はないでしょう?「来ないでよ!」恐怖に駆られた璃音がそう叫んだ時、海面が大きく揺らいだ。「お嬢様!」フィリップが海中へと落ちようとした璃音の手を咄嗟に掴んだが、間に合わず、彼女は暗い海面へと落ちた。「お嬢様~!」フィリップの叫びは、虚しく夜の海にこだました。(息が出来ない・・苦しい・・)煌びやかなドレスが水を吸ってどんどん重くなってゆく。このまま自分は海の藻屑と化してしまうのだろうか・・そう思いながら璃音は意識を失った。―あなたを、死なせはしない。不意に誰かの声が聞こえたかと思うと、璃音は誰かに抱き締められてゆっくりと水面へと上がってゆくのを感じた。 海底の王国では、銀髪の人魚が落胆した表情を浮かべながら王の元へと向かった。「どうであった?」「姫様をここにお連れすることは出来ませんでした。あと少しというところで、あの人間に攫われました。」「そうか・・」貝で出来た玉座に座っている人魚の国王は、そう言って溜息を吐いた。「どうしますか?」「何もせんでいい。」「わかりました。」銀髪の人魚は国王の言葉に頷くと、仲間の人魚達の方へと泳いで行った。「ん・・」「大丈夫?」璃音がゆっくりと目を開けると、そこには黒い羽根を広げた黒髪の少女がじっと自分を見下ろしていた。「あなた、誰?」「今は知らなくてもいいことよ。」少女はそう言うと、璃音の前から去っていった。「待って!」璃音が慌てて彼女を追おうとした時、遠くからランプの灯りが見えた。「お嬢様、ご無事ですか!?」「ええ・・他の皆さんは?」執事は璃音の問いには答えず、彼女と共に小舟へと乗り込んだ。そこにはマドンナとダヴィドが乗っていた。「他の皆さんは、どうなさったの?」「他の乗客達は向こうに見える客船に救助されました。」「そう、良かった・・」豪華客船カンパーニャ号の謎の火事と沈没によって、三等船室の乗客300名全員が死亡した。助かったのは貴族などの富裕層だけで、新聞はこの事故を階級差別が如実に語るものだと報じた。その事故は、海を隔てた羅姫達が住む国でも報じられた。「カンパーニャ号が炎上沈没ですって。新婚旅行で行く予定でしたのに・・」遥はそう言って朝刊を畳むと渋面を作った。隣でそれを見ていた羅姫は思わず苦笑すると、遥は彼女を睨みつけた。にほんブログ村
2011.05.20
豪華客船・カンパーニャ号にて行われたヴェルデ劇場の次期公演リハーサルは、終盤に差し掛かろうとしていた。璃音は舞台上で美しく踊り、その指先までもが一流の職人によって精微に作られた芸術品のように美しかった。―まぁ、何て美しい踊りなのかしら?―新しいプリマの誕生ですわね。―そうですわね、奥様。―前の方は残念ですけれど・・扇子の陰でヒソヒソと囁き合うご婦人方の声を、レネーは唇を噛み締めながら聞いていた。彼女は、舞台上で踊っている璃音を睨みつけた。本来なら、自分があそこでプリマとして踊っていたのに。(認めないわ、あの子がプリマなんて!)レネーは仄暗い灯りの中を、誰にも気づかれぬことなく静かに舞台裏の方へと歩き始めた。 一方海の底では、人魚たちが集まって会議を開いていた。「いよいよ動き出す時が来たわね。」「そうね。」「今こそ、あの子を救い出す時よ・・」銀髪の人魚がそう言って、瞳を暗赤色に輝かせた。 璃音は背後から微かな靴音が聞こえた事に気づかなかった。クライマックスを迎えようとした時、彼女が大きく跳躍すると、舞台袖から口端を歪めて笑うレネーの姿がちらりと見えた。その時、舞台上に設置されていたシャンデリアが凄まじい勢いで彼女の上へと落ちそうになった。「危ない!」シャンデリアが粉々に砕け散る音と、観客達の悲鳴がラウンジにこだました。「リネちゃん!」「せ、先生・・」璃音が目を開けて辺りを見渡すと、そこにはシャンデリアの直撃を受けて顔面を血塗れにして絶命しているレネーの姿があった。「見ない方がいいわ。さぁ、ここを離れるわよ。」「はい・・」マドンナに連れられ、璃音は大混乱のラウンジを後にした。「これは一体どういうことだ?」「わかりません旦那様。それよりも今はアンジェリーナ様を・・」フィリップがそう言った時、船全体が大きく揺れた。「きゃぁぁ!」化粧室でチュチュから煌びやかなドレスへと着替えた璃音は、揺れを感じて咄嗟に鏡から離れた。「大丈夫?」「ええ。それよりも先生、さっきの揺れは一体・・」「お嬢様、マドンナ様、早く一等船室のデッキへ!」化粧室のドアが勢いよく開かれ、フィリップが息を切らしながら中へと入って来た。「デッキに? どうして?」「ええ。この船は沈没するそうです。」「沈没!? 一体どうして!?」豪華客船が沈没するという突然の事態に璃音は混乱しながらも、フィリップとマドンナとともに一等船室のデッキへと急いだ。「おい、ここから出してくれ!」「あたしらを見殺しにする気かい!」「ちょっと、聞いてるの!?」一等船室のデッキが貴族達をはじめとする富裕層で溢れ返っている頃、三等船室では労働階級や移民達が自分達を船室に閉じ込めている船員達に向かって怒鳴り散らしていたが、彼らは三等船室の乗客達を救助しようとしなかった。「一体何があったんだ?」一等船室のデッキでは、璃音が暗い海を見ながら状況が解らずに居た。「お嬢様、マドンナ様、次の救助ボードでここから離れましょう。」「ええ・・」ショールを身体に巻きつけながら、マドンナの後に続いて璃音はゆっくりと梯子を降り始めた。「お嬢様、こちらへ!」璃音がボートへと乗ろうとした時、突然水中から何人かの手が伸びて来た。にほんブログ村
2011.05.19
久しぶりに会った親族の女性―カドリーヌが重々しく口を開いた。「実は、息子の事で・・」「息子というのは、いつもトランプ賭博や競馬やらで借金をするあの碌でなしのことか? もう追い出したのではなかったのか?」カドリーヌの口から息子の事を聞いた途端、ダヴィドはあからさまに不快な表情を浮かべた。「またあの人の尻拭いをお祖父様にさせるおつもりですの?」璃音は溜息を吐きながら、そう言って紅茶を飲んだ。「そんな事は言ってないでしょう?」「でもお祖父様は嫌そうな顔をしていらっしゃるわ。ということは母親のあなたが息子の借金を尻拭いしてくれと、お願いにしに来たに違いありませんわ!」「な・・」「カドリーヌ、もうお前も、お前の息子の借金の肩代わりもせんし、わたしの遺産は全てアンジェリーナに譲るつもりだ。金食い虫のお前達にはもう話すことはない。」「そんな・・どうか、お願いします!」「フィリップ、カドリーヌの食事は用意しなくていいぞ。」「だそうよ、フィリップ。お客様を丁重にお送りして頂戴。」「かしこまりました。ではカドリーヌ様・・」「ちょっと、離してちょうだい、まだ話が・・」 銀縁眼鏡を光らせながら、執事はカドリーヌの腕を掴んで半ば彼女を引き摺りだすかのようにしてダイニングから出て行った。「やっと静かに食事ができますわね、お祖父様?」「ああ、全くだ。」ダヴィドはそう言って葡萄酒を飲んだ。「離してって言ってるでしょうが!」「旦那様とお嬢様のご命令は絶対ですので。」 一方、ダイニングルームからルクレツィア伯爵家の執事・フィリップに追い出されたカドリーヌは、きぃきぃと喚きながらフィリップを睨みつけた。「わたくしはまだ話があるのよ!」「カドリーヌ様、申し訳ありませんがあなた様の顔はもう見たくないと旦那様がおっしゃいましたので。」フィリップが彼女を玄関ホールから追い出すと、まだ彼女は煩く喚きながら彼に罵詈雑言を浴びせていた。「全く、困った方だ・・」フィリップは溜息を吐くと、燕尾服の裾をはためかせながら邸の中へと戻って行った。 それからというものの、カドリーヌはルクレツィア伯爵家に顔を出すことはなく、璃音は公演のリハーサルと本番に向けて毎日練習に励んだ。やがてリハーサル当日となる週末がやって来た。「アンジェリーナ、今夜は頑張れよ。」「はい、お祖父様。」璃音の誕生パーティーを兼ねた公演のリハーサルが行われる豪華客船カンパーニャ号には、ダヴィドをはじめとする貴族達や資産家などの上流階級に属する人々が乗っていた。「リネ、これからリハーサルだけれど、緊張せずにしっかりね。」一等船室の化粧室に入って来たマドンナは、衣装に着替えた璃音にそう言って彼女の肩を叩いた。「ええ、先生。」璃音はマドンナに一礼すると、化粧室から出て行った。 一等船室のラウンジには、ヴェルデ劇場の次期公演のプリマを務める璃音の姿を見ようと貴族達が今か今かと首を伸ばして待っていた。急にラウンジの照明が落ち、貴族達がざわめくと、舞台上の照明が一斉に点灯し、煌びやかなチュチュを纏った璃音が姿を現した。彼女はひらりひらりと蝶のように優雅に舞ったかと思うと、ライオンのように荒々しく激しい舞を舞ったりと、舞台上で様々な動物を踊りで表現した。「やはりアンジェリーナがプリマに選ばれたのは、実力だな。」「ええ。自らの才能に奢るばかりで何の努力もしない娘とは大違いですね。」フィリップはそう言ってちらりと観客席で悔しそうに唇を噛み締めているレネーを見た。(悔しい・・プリマはわたしが演じる筈なのに! 決してあの娘がプリマだなんて認めないわ!)ぎりぎりと彼女が唇を噛み締めていると、そこから血が滲み出た。レネーの心に、黒い闇が迫っていた。にほんブログ村
2011.05.18
「みんなに報告したい事があるの。今度行われる公演のことよ。」レッスンが終わり、璃音達はマドンナの前に集まって彼女の言葉に一言一句耳を傾けていた。「マダム、プリマは誰が?」レネーがそう言って期待に満ちた目でマドンナを見つめた。“絶対にわたしがプリマよ!”これまでマドンナは公演の旅にプリマをレネーに決めてきたので、彼女は今回もそうに違いないと思っていた。だが―「プリマは、璃音ちゃんに演じて貰うことになったわ。」マドンナの言葉に、少女達の間からどよめきが起こった。―どうして・・―当然の結果じゃない? リネさんは遅くまで練習してたし・・―それに朝一番に来て、レッスン室の掃除もしてたしね。―ちゃんと挨拶もしてくださるわよね・・誰かさんとは違って。「静かに!」マドンナは手をパンパンと打ったので、少女達は静かになった。「わたしは璃音ちゃんがレッスン室の掃除をしてくれたり、誰にも礼儀正しいと理由だけで彼女をプリマに決めた訳ではないわ。」「では、どうして彼女をプリマに?」レネーの取り巻きの1人がそう言ってマドンナを見ると、彼女は淀みない言葉を続けた。「彼女をプリマに選んだのは、彼女の技術とそれに比例する努力が素晴らしいからよ。プロのダンサーは今の地位に固執して胡坐を決して掻いたりしてはいけない。あなた達に常々言っているわたしの忠告を、彼女は実行したのよ。」師の言葉に、誰も―レネーでさえも反論しなかった。「誰も異論はないようね?」マドンナはそう言って璃音を見た。「璃音ちゃん、やってくれるわよね?」「はい!」今までの努力が報われた末で与えられた機会に、璃音は瞳を輝かせながらそう叫んだ。「アンジェリーナお嬢様が次期公演のプリマに選ばれたようです。」「あいつがプリマにか・・公演はいつだ?」「来月の中旬です。ですが、今回はお嬢様の誕生祝いを兼ねて船上パーティーでのリハーサルをするとか。」「良い余興になるだろうな。アンジェリーナの踊りは素晴らしい。若い事は素晴らしいな・・夢の為に生きられるのだからな。」「ええ、そうですね・・わたくし達はいつ、それを忘れてしまったのでしょうね?」執事はそう言うと、窓の外に広がる空を見上げた。「璃音ちゃん、体調管理には気を付けて、しっかりね。決して無理はしない事。」「はい、解りました! 失礼します!」璃音はマドンナに頭を下げると、レッスン室から出て行った。更衣室に入り着替えを済ませると、璃音は宝物を詰まったトランクをしっかりと握り締めながら家路に着いた。「ただいま帰りました、お祖父様。」「プリマに決まったそうだな、おめでとう。」「あら、ご存知でしたの?」ダヴィドは照れ臭そうに笑いながら、璃音の肩を叩いた。「頑張れよ。」「はい。」「旦那様、アンジェリーナ様、晩餐の用意が整いました。」璃音とダヴィドがダイニングルームへと入ると、そこには滅多に会わない親戚の女性が座っていた。「あらアンジェリーナ、お久しぶりね。」「あら伯母様、暫くですわね。今日もお金の無心をお祖父様に?」「そんな事でこちらに伺うつもりはないわよ。もう借金は完済しましたしね。」「あら、それはおめでとうございます。で、用件は何かおありですの?」璃音がそう言うと、親戚の女性は咳払いしてダヴィドを見た。「実は、アンジェリーナの縁談の事なのですが・・」「またお前の娘が何かやらかしたのか?」ダヴィドは険しい表情を浮かべながらそう言うと、女性は目を伏せてぽつりぽつりと事情を話し始めた。にほんブログ村
2011.05.16
(あれは・・)静歌は水面から顔を上げてこちらを見ている人魚を見つめた。―あなたは・・人魚の口が開き、言葉を紡いだ。―あの2人は、あなたの娘をあなたから奪おうとしている。人魚はそう言うと、海中から姿を消した。(璃音が・・お父様達に奪われる。あの子が産まれた時と同じように・・)静歌の脳裡には、15年前の事を思い出した。禁断の恋の末に産まれた娘を、父は取りあげようとした。それが嫌で実家を飛び出し、辺境の村にある教会に入り、司祭に娘を預けた。あれから15年もの歳月が流れ、娘がルクレツィア伯爵家の令嬢として美しく成長していることを知った静歌は、一目だけでもいいから娘に会わせてくれと父に懇願したが、返ってきたのは氷のように冷たい言葉だった。「お前には母親の資格はない。璃音は責任を持ってわたし達が育てる。」「そんな、お父様!」父は有無を言わず、この狭いプールの中に静歌を閉じ込めた。人魚の故郷である海へと逃げられないように鉄柵で排水口を囲んで。(いつになったら、わたしは娘に会えるの?)―もうそんな所で悲しむのは止めて。不意に、外から声がして静歌は海を見た。そこには、数十匹の人魚が彼女を見ていた。―あなたは、ひとりではないわ。―そうよ、ひとりでは無理だけど、力を合わせれば大丈夫よ。―大丈夫よ。仲間達の言葉に、静歌は涙した。(そうよ、わたしはひとりじゃない。みんなで・・)―みんなで悪い奴をやっつけてしまいましょう。銀髪の美しい人魚が、そう言って口端を歪めて笑った。(そうね・・悪い奴は殺さないといけないわね・・)静歌の真紅の双眸がぎらりと不気味な光を放った。海では、それに呼応するかのように波がうねり始めていた。 翌朝、璃音は伯爵邸を出てバレエのレッスンへと向かった。ダヴィドや家庭教師達からのスパルタ的な教育指導にはことごとく反抗しつつも、貴族の令嬢としての嗜みと教養を身につけた璃音だったが、唯一幼い頃から続けているバレエだけが、彼女の心の拠り所だった。大切なトゥーシューズとレッスン用のチュチュが入ったトランクを握り締めながら、璃音はヴェルデ劇場へと入っていった。「おはようございます。」「あら、璃音ちゃん。」璃音が劇場の裏口へと入り、バレエのレッスンが行われている部屋へと入ると、彼女に1人の女性が声を掛けた。彼女の名はマドンナ、ヴェルデ劇場の女支配人であり、かつては国一番のプリマドンナと謳われた女性である。マドンナは璃音の事を本名で呼んでくれる唯一の女性であり、璃音にとっては頼もしい教師である。「今日はレッスンの後にあなたに話があるのよ。いいかしら?」「ええ、構いません。」「そう。じゃぁみんなと一緒にレッスンなさい。」璃音はマドンナに頭を下げると、更衣室へと入っていった。ドレスからチュチュへと着替え、トゥーシューズを履くと彼女はルクレツィア伯爵家令嬢としてはなく、バレリーナの璃音として立っていた。着替えを終えた彼女がレッスン室へと入ると、そこには数人の少女達が準備体操をしていた。彼女らはマドンナの弟子達で、いずれはヴェルデ劇場を支えるバレリーナ達の卵だ。「あら御機嫌よう、リネさん。」少女の中の1人、中央に立っている亜麻色の髪の少女が璃音に気づいて挨拶した。「御機嫌よう、レネーさん。」「あなたも良く頑張るわね。今度の演目でプリマに選ばれるのはわたしとあなた、どちらかしらね?」少女―レネーはそう言って笑うと、取り巻き達の輪の中へと戻って行った。にほんブログ村
2011.05.15
(お祖父様は勝手よ! いつもご自分の決めたいようになさるんだから!)「お嬢様、開けてください!」外からドンドンとドアが叩かれる音がしたが、璃音はそれを無視して天蓋を閉めて頭からシーツを被った。数分後、外が急に静かになったかと思うと、ドアが開けられて執事が入ってきた。「何よ、入って来ないでよ!」「申し訳ございません。それよりもお嬢様、旦那様の事はお許しになっていただけないでしょうか?」「どうしてよ? わたしお祖父様が大嫌い! 勝手に名前を変えたり、学校に入れようとしたり! どうしてお祖父様はわたしを・・」「お嬢様が大切だからですよ。」鳶色の瞳をした執事は、そう言って璃音を見た。「あなたはルクレツィア伯爵家唯一人の後継者。ですから旦那様は、お嬢様を守りたいのです。」「守る? お祖父様がわたしを何から守ろうと言うの?」「それは・・」執事は急に口を噤むと、溜息を吐いた。「お嬢様、後で甘いお菓子を持って参ります。」「え、ちょっと・・」「では、失礼致します。」執事はそう言うなり、さっさと部屋から出て行った。(何か変だわ。お祖父様は、わたしに何か隠している・・)璃音はそう思いながらも、着替えをせぬまま眠りに就いた。 彼女の部屋を出た執事は、邸の地下へと向かった。そこには、ダヴィドが立っていた。彼の視線の先には、海水が入った巨大なプールに注がれていた。いや、正確に言えばプールの中を泳いでいる何かを、彼は見ていた。「旦那様、こちらにいらっしゃいましたか。」「お前か。」執事の声に我に返ったダヴィドは、そう言ってプールから視線を外した。「またあれを御覧になっていらっしゃったのですか?」ちらりと執事が忌々しそうな目でプールの中に泳いでいるものを見た。彼の視線に気づいたのか、それは泡を立てながら底へと姿を消した。「忌々しい人魚の王が、アンジェリーナを寄越せと言ってきたのだ。」「人魚の王が・・ですか。では、今週末の船上パーティーは中止にいたしましょうか? それとも、ここで開きましょうか?」「いや、船上パーティーは予定通り開く。わたしが人魚ごときに怯える老人に見えるか?」「いいえ。旦那様はかつて海軍で英雄と謳われたお方。人魚の一匹や二匹、血祭りにあげられましょう。」「アンジェリーナ・・璃音にはくれぐれもこの事は・・」「判っております。」ダヴィドはつかつかとプールの前に行くと、上着のポケットから何かを取り出すと、それをプールの中へと放り投げた。バシャンという水音がしてそれが動く気配がしたので、ダヴィドと執事は地下から離れた。鱗を光らせながら、一匹の人魚は髪をゆらゆらと揺らしながらダヴィドが放り投げたものを拾った。それは、あの司祭に娘を預けた時に彼に託したペンダントだった。「璃音・・」人魚は愛娘の名を呼ぶと、涙を流した。「可愛いわたしの璃音・・待っててね。」人魚―璃音の実母・静歌はそう言って口端を歪めて笑った。ふとプールの排水口から外を見ると、そこには一面の海が広がっていた。早くあそこへ行きたいのに、ここにいる者達は彼女が外へ出る事を許してくれない。こんな狭い水槽の中ではなく、広い海で泳ぎたいと静歌はそう思いながらも涙を流した。彼女の上半身には赤黒い痣が痛々しく残っていた。(誰か、ここから出して・・)その時、外でバシャリと何かが跳ねる音が聞こえた。(何?)外を覗くと、一匹の人魚が水面から顔を覗かせ、静歌をじっと見ていた。にほんブログ村
アベルは昼食後、ミサを行った。「アベル様だわ・・」「何とお美しい・・」 アベルが聖堂内へと入ると、そこには貴族の令嬢達が数人、うっとりとした目で彼を見つめていた。彼女達は年若い司祭の登場に色めき立ち、一様に笑顔を浮かべていた。(全く、迷惑な方々だ。)アベルは内心きゃぁきゃぁと騒ぐ令嬢達に舌打ちしながら、それを顔には出さずに滞りなくミサを行った。ミサが終盤に差し掛かった時、彼は背後から強い視線を感じ、一度そちらの方を振り向くと、そこには1人の令嬢が立っていた。水色のドレスに同系色の帽子を目深に被った彼女の真紅の双眸に、アベルは見覚えがあった。(まさか・・璃音!?)「どうしましたか?」「いえ、何でもありません・・」アベルが再度令嬢の方へと向くと、そこには彼女の姿がもうなかった。(璃音、わたしに会いに・・)「ねぇ璃音さん、今時間おありかしら?」「え?」突然邸に訪ねてきた友人に連れられ、璃音は教皇庁内にある聖堂へと入った。「ミサにいらっしゃるなんて、お珍しいわね。」「あら、いいじゃないの。」この友人は特に信心深くなく、余り教会には足を運ばない方だった。その彼女が突然ミサに行くというので、璃音は少し不審に思った。何か違う狙いが彼女にはあると。璃音が溜息を吐いていると、聖堂内の扉が開き数人の司祭が入って来た。「アンジェリーナ様、ご覧になって。」友人が璃音の腕を叩くので彼女が俯いていた顔を上げると、そこには黒髪の司祭が立っていた。(アベル・・お義父様・・?)一瞬見間違いではないのかと思ったが、璃音は再度黒髪の司祭の顔を見ると、彼は紛れもなく10年前に生き別れた養父のアベルだった。「あら、知っている方なの?」「い、いいえ・・」友人がそう言ったので、慌てて璃音は彼女の言葉を否定し、首を横に振った。「それにしても素敵な方よねぇ、アベル様。何でもダブリスの名門貴族のご出身だとか・・」「え・・」「あら、ご存知ないの? 複雑な事情で修道院附属の孤児院に預けられたと聞いたわよ。」養父は一度もそんな事を話してはくれなかった。彼さえも、自分が名門貴族の出身であることを最近知ったのかもしれない。「あれが、彼のお母様よ。」友人が指す方向には、喪服姿の女性はハンカチで目元を何度も拭いながらアベルを見ていた。(あれが、お義父様のお母様・・)女性はじっとアベルの方をミサの間見ていたが、アベルの方は一度も女性を見もしなかった。(お義父様、やっと会えた・・)じっとアベルを見ていると、彼がゆっくりと自分の方へと振り向き、目が合った。「アンジェリーナ様、もう行きましょう。」「ええ・・」まさかこんな所でアベルと再会できるだなんて・・璃音は嬉しさに胸を弾ませながら、聖堂を後にした。「お祖父様、ただいま帰りました。」「アンジェリーナ、誕生パーティーの事で話がある。パーティーには、お前の婚約者も招待するつもりだ。」「婚約者ですって?」祖父の言葉を聞いた途端、璃音の美しい眦が上がった。「ああ。それとパーティーが終わったらお前は寄宿学校に入って貰う。」「嫌ですわ、お祖父様!」祖父の話を聞かず、璃音は自分の部屋へと引き籠った。にほんブログ村
2011.05.14
正午を告げる鐘が鳴り、アベルは部屋を出て食堂へと向かった。「こんにちは、アベル様。」「こんにちは。」アベルがカソックの裾を翻しながら廊下を歩いていると、司祭達が頭を下げた。彼が所属する組織―教皇庁で勤め始めてからもう10年になる。あの修道院が今どうなっているのかは解らないが、妙な連中の溜まり場になっていると風の噂に聞いている。 璃音と別れた後、アベルは修道院の者達を別れを告げ、この教皇庁で働き始めた。元々優秀で何度か教皇庁行きの話が出たくらいだったので、向こうはアベルを歓迎し、彼は若くして枢機卿となった。その時初めて、本部よりもダブリスの王宮で働いた方が自分には合うとアベルには感じたのだ。 教皇庁には様々な部署があり、トップである教皇をはじめとするアベル達聖職者から、下働きの者に至るまで、膨大な人数が働いていて、それと比例して人間関係はダブリス宮廷のそれと比較しても教皇庁の方が複雑で濃厚であった。神の子と言われる聖職者ではあったが、彼らは所詮人間の子なのだ。 金や女性問題などに関する醜聞が絶えず、絶対的に権力を振るっていた時代の威光はもはやその輝きは失せ、今は腐敗に塗れていた。 アベルはそんな中でもただひらすら信仰を守っているのだが、そんな彼に声を掛ける者も少なくはない。「おや、アベル様ではありませんか?」食堂へと入ろうとしたアベルの肩に馴れ馴れしく触れて来た司祭の顔を見て、アベルはあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。「レオン様、こんにちは。」さっと司祭の手を乱暴に払うと、アベルはさっさと彼に背を向けて食堂へと入った。「おやおや、つれないことで・・」その司祭は、そう言ってくすくすと笑った。 教皇庁から少し離れた小さな町で、1人の少女が黒髪を靡かせながら家の中へと入っていった。「ただいま!」「璃娜(りな)、お母様が寝ているから静かにしなさい。」「ごめんなさい・・」父の匡惟に注意され、少女はしゅんとした。母のユーリは3人目の子を宿し、来週末にも産まれる予定だ。だからなのか、最近は床に臥せりがちとなっており、少女や父親が母親の代わりに家事をしていた。「お母様は大丈夫なの?」「大丈夫だよ。お医者様は順調だって言ってるし。これから暑くなるから体調管理には気をつけるようにと言っていたから、お前も風邪をひかないように気をつけなさい。」「わかったわ。お庭でハーブを摘んでくる!」少女は長い黒髪をなびかせると、リビングを出て庭の方へと走っていった。「匡惟、璃娜が帰ってきたのか?」寝室のドアが開き、臨月の腹を揺すりながらユーリがソファに座った。「大丈夫ですか、ユーリ様?」「少しお腹が張って苦しくて・・」ユーリが溜息を吐いてソファから立ち上がろうとした時、何かが弾ける音がした。「産婆を呼んできます。」匡惟はそう言って家を飛び出し、近所に住む産婆の家へと向かった。「お母様、産まれるの?」「ええ。璃娜、わたしは大丈夫だからね。」ユーリは陣痛に耐えながらも、娘に笑顔を浮かべた。 その後、ユーリは元気な女児を出産した。「可愛い・・」「璃娜、あなたは今日からお姉様になるのよ。」「うん!」蒼い瞳を輝かせながら、少女は産まれたばかりの妹を嬉しそうに見ていた。 かつてダブリス王国皇太子として絢爛豪華な宮廷で暮らしていたユーリは、愛する夫と子ども達に囲まれ、静かな暮らしを送っていた。にほんブログ村
2011.05.13
璃音が養父・アベルと引き離され、ルクレツィア伯爵家の令嬢として本家で育てられたのは、10年前の事だった。最初はアベル恋しさに度々邸を抜け出して使用人達に迷惑を掛けたことがあったが、今ではもうそんな気持ちすら起こらない。どんなに夜道を駆けても、決してアベルの元へと辿り着かないと解ったからだ。 ここに来てから―ルクレツィア伯爵家当主・ダヴィドの元へと引き取られてから、璃音の生活は180度変わった。ダヴィドは養父が名付けてくれた美しい名を変えるように言われた時、璃音は必死に抵抗した。「嫌よ、名前を変えるなんて嫌!」「わたしに逆らうな! この家に来た以上、わたしの決めることに口を挟むな!黙って従うのだ!」「でも・・」「くどい!」そう叫んだダヴィドは、冷たい目で孫娘を見下ろした。その瞳の中には、孫娘に対する愛情など一欠けらもなかった。璃音は無理矢理祖父によって“アンジェリーナ”と名を変えられ、貴族の令嬢としての嗜みを伯爵家の家庭教師達に徹底的に叩き込まれ、休む事も眠る事も許されぬ生活を送った。昼間は静かに家庭教師達のスパルタ的な教育指導に耐えつつも、夜は密かにアベルを想いながら璃音は涙を流した。(アベルお父様、会いたい・・)すぐに迎えに来ると言ったのに、何故アベルはいつまで経っても迎えに来てくれないのか、璃音はいつもそう思いながら夢の中でアベルを呼んでいた。だが夢にはアベルは現れず、いつも現れるのは黒髪の少女だった。“お父様と無理矢理引き離されて哀しいのね。”少女はそう言うと、璃音の身体をぎゅっと優しく抱き締めていつも彼女の耳元でこう囁いて消えるのだ。“わたしなら、あなたのお父様を見つけ出して会わせてあげる。”目が覚めると夢の事は殆ど覚えていないのだが、少女の姿や耳元でささやかれた言葉はいつも覚えていた。その事だけは、決して忘れてはならないものだと璃音は思ったからだ。彼女が一体何者なのか璃音は知りたかったが、それを知る術は皆無だった。いつしか彼女は幼い頃に見た夢を忘れ、ただいたずらに時が過ぎてゆくのを待つしかなかった。「アンジェリーナ、今度の週末の事だが・・」「なに、お祖父様? ごめんなさい、考え事をしていて聞いていなかったわ。」朝食の席でそう言って璃音が祖父を見ると、彼は溜息を吐いた。「お前の誕生パーティーを盛大に開こうと思う。お前も社交界にデビューして以来、様々な集まりに顔を出しているようだが、それでは足りん。」「お祖父様、招待客の方は決まっているの?」「ああ。お前の養父も招待している。これから準備で忙しくなるぞ。」「ええ!」先程まで沈んでいた様子の璃音の顔が、パァッと明るくなった。「旦那様、アンジェリーナ様の事ですが・・」「あれには学校の事はまだ話していない。パーティーが終わった後に話すつもりだ。」朝食後、書斎に戻ったダヴィドは、そう言って机の上に置かれた書類に目を通した。それは璃音が編入予定の全寮制の女子校の入学願書だった。ダヴィドは璃音の教育に関してはルクレツィア伯爵家の家庭教師に任せていたが、彼らだけでは物足りないものがあった。璃音はまだ社会経験も少ない上に、同年代の少女達と付き合ったことがない。よりよい人間関係を築く為には、家に閉じ籠っているよりも、学校で様々な者達と交流を深めた方が良いと考えた末での決断だった。「アベル様には招待状を送りました。出席するとの返事がありました。」「そうか。今まで離ればなれに暮らしていたからな、アンジェリーナもアベルの顔を見て喜ぶことだろう。」(今週末のパーティーが楽しみだわ! 漸くアベルお父様に会えるんだもの!)璃音はアベルから渡されたロザリオにキスしながら、針箱を取り出し、昨夜の集まりでやりかけていた刺繍の続きをした。「お嬢様、今宜しいでしょうか?」ドアの向こうから、メイドの声が聞こえた。「いいわよ、入って。」「失礼致します。」にほんブログ村
2011.05.12
元宮伯爵邸で倒れた小菊がゆっくりと病室のベッドの上で目を開けると、その傍らには哲爾(てつじ)が彼女の手を握っていた。「哲爾様・・赤ちゃんは・・?」「大丈夫だ。」「そうですか。」小菊はそう言って安堵の表情を浮かべると、再び目を閉じて眠った。「今夜は楽しかったわ。来てくださってありがとう。」「ええ。お休みなさい、爾子様。」「おやすみなさい、羅姫さん。」爾子と元宮伯爵に玄関ホールで見送られ、羅姫と山瀬は馬車に乗った。「疲れたわね。明日学校が休みで良かったわ。」馬車に乗り込み座席に腰を下ろした時、羅姫はそう言って溜息を吐いた。「踊り過ぎて足が少し痛いわ。」「お邸に戻られたらすぐにマッサージをいたします。」「いいわよそんな事しなくても。お風呂の中でマッサージするから。」「はい・・」羅姫の言葉に、山瀬は何処か残念そうな顔をした。「山瀬、女学生達に囲まれて鼻の下が少し伸びていたわね。」「いえ、そんな事は・・」「嘘よ。でも爾子様はあなたの事お好きみたいね。」羅姫はそう言って笑った。「お帰りなさいませ、羅姫お嬢様。」山瀬と羅姫が瀧丘邸へと帰宅すると、執事の山岡が彼らを出迎えた。「遅い時間に待っていてくれてありがとう、山岡。わたしはもう休むから、あなたは下がってもいいわよ。」「はい、羅姫お嬢様。」初老の執事は、そう言って羅姫に頭を下げて自室へと向かった。「じゃぁお休み。」「良い夢を、羅姫お嬢様。」山瀬は階段を上ってゆく羅姫の背中をいつまでも見送った。「・・つまらないわ。」ぼそりと呟いたその声は、意外にも狭い部屋に反響した。その部屋に集まった女性達は一斉に針を動かす手を止めて、じっと1人の令嬢を見つめていた。「あら、何がつまらないんですの?」「いいえ、ただの独り言ですわ。」そう言って令嬢は先程の失言を取り繕うと、女性達は再び針と口を動かし始めた。彼女達の話題は、誰と誰が結婚したか、離婚したか・・という、他人の噂話だった。社交界にデビューしてこういう集まりに何度か出た令嬢だったが、いつも女性達が繰り返すゴシップを聞く度にうんざりしてしまう。「アンジェリーナ様は、誰か想いを寄せられているお方はいらっしゃらないの?」女性達の話を聞くまいと刺繍に没頭していた令嬢は突然話を振られ、慌てて顔を上げた。「いえ、まだ居ませんわ。それにまだ結婚なんて考えられませんし・・」「あら、そんな事をおっしゃっては駄目よ。ねぇ、皆さん?」「そうよ。」「あっという間に年を取ってしまうわよ。」女性達の集まりが終わり、邸から出てきた令嬢は溜息を吐いて肩を落として馬車へと乗り込んだ。「疲れたわ・・」令嬢はそう言うと、首に提げていたロザリオを取り出した。(アベルお父様、お会いしたいわ・・)ロザリオを握り締めながら、彼女の脳裡には自分を実の娘のように育ててくれた養父・アベルの笑顔が浮かんでいた。「お帰りなさいませ、アンジェリーナ様。」「ただいま。」使用人達に素っ気ない口調で挨拶を返すと、令嬢は自室に入り再度溜息を吐いた。ここには自分を本当の名で呼んでくれる者はいない。呼んでくれるのは、遠く離れて暮らす養父―自分に“璃音”という美しい名をつけてくれた、彼だけだった。にほんブログ村
2011.05.11
「なんで女郎屋の女衒が、花街をうろついてはるんどす?」「最近の輩は縄張りを平気で無視して商売やるさかい、かなんわぁ。」女将はそう言って嘆息すると、香欖(からん)を見た。「香欖ちゃん、あいつらには気を付けや。絶対に捕まったらあかんで。」「へえ、おかあさん。」「お風呂沸いてるから入りよし。今なら誰も居てへんさかいな。」「おおきに。」香欖は自室に入り、だらりの帯を緩めて浴衣に着替えると、花簪を抜いた。温かい湯の中に浸かると、全身の疲れが一気に取れた。「香欖ちゃん、湯加減はどうえ?」「ええ塩梅どす、おかあさん。」「そうか。」戸の向こうから女将の優しい言葉を掛けると、風呂場から遠ざかった。 風呂に入る時だけが、香欖にとって唯一心が安らげる時だった。男でありながら舞妓となり、花街で生きていくことを決めたその日から、正体を暴かれてはならないと思い、常に気を張っていた。芸事の稽古も人一倍やり、お座敷での客あしらいは先輩芸妓達から学ぶとともに、花街でのしきたりを守ってきた。いつか姉と再会できる日を夢見て、香欖は暫しの休息を味わっていた。 元宮伯爵邸の使用人部屋に、1人の少女が鏡の前で立っていた。彼女の手には、爾子のドレスがあった。「ふふ、これでわたしもお嬢様・・」少女は口端を歪めて笑いながら、爾子のドレスに袖を通してくるりと鏡の前で一周した。彼女は元宮伯爵邸で奉公している女中で、爾子のように女学校への進学を希望していたが、家庭の事情で女中奉公を余儀なくされた。それ故に彼女は、自分と同い年でありながら経済的に恵まれている爾子お嬢様に対して憎しみを持っていた。“お嬢様ごっこ”に飽きた彼女は、爾子のドレスを脱ぐと、それを羅紗鋏で切り裂いた。「憎い・・あの女が、憎い。」少女の全身から、黒い瘴気が立ち上った。「山瀬さん、今度はわたくしと踊ってくださいな。」「ずるいわ爾子様、わたくしが山瀬と踊るのよ。」「いいえ、わたくしとよ。」大広間では、羅姫と踊り終えた山瀬が爾子とその友人達に囲まれて困惑していた。「モテる男はつらいわねぇ、山瀬。」「からかわないでください、お嬢様。それよりも哲爾様をお探しにならなくても良いのですか?」「良いんじゃないの? 哲爾様にはあの娼妓がお似合いよ。」羅姫はそう言って扇子を閉じた。 一方哲爾は、娼妓・小菊とともに伯爵家の中庭で夜風に当たって涼んでいた。「哲爾様、あの金髪の方は、もしかして哲爾様の・・」「あいつとは結婚する気はないし、向こうもその気じゃないから、心配するな。お前を身請けする金は充分貯まったし、何年かかるかわからないが、2人で暮らせる家も用意してある。お前は何も心配するな。」「ですが、哲爾様・・」「俺はお前を愛しているんだ、小菊。俺を信じて欲しい。」「哲爾様・・」小菊は憂いを帯びた栗色の瞳で哲爾を認めた時、すずが2人の間に割り込んできた。「お兄様、まだこんな方とお付き合いなさっていたのね!」すずはそう言って美しい眦を吊りあげると、小菊を突き飛ばした。咄嗟の事でよけきれなかった彼女は、地面に尻餅をついてしまった。「すず、小菊に何てことを!」「お兄様、この女との結婚は反対だとおっしゃっているのに・・わたくしとお父様達を裏切るおつもりなの!?」「お前には関係ないだろう!」哲爾がそう声を荒げた時、小菊が突然下腹を押さえて苦しそうに呻いた。「小菊、どうした!?」「赤ちゃんが・・」薄紅のドレスが、徐々に赤黒い血に染まってゆくのを見て、哲爾は堪らず彼女の身体を抱き上げて元宮伯爵邸から飛び出していった。にほんブログ村
「どうかしたのかね、羅姫(らひ)さん?」「何でもありませんわ、小父様。ただ口うるさいこの連中を黙らせただけですわ。」羅姫はそう言って元宮伯爵ににっこりと微笑んだ。「伯爵、そちらの無礼なお嬢さんはどなたですの?」「どうしてこんな女をこのような場に入れるのです! すぐに摘みだしてくださいな!」「そうですわ!」女達が再び喚き始めると、元宮伯爵はじろりと彼女達を睨んでこう言った。「君達を夜会に招いた覚えはないんだが。」伯爵の言葉を聞いた彼女達は一斉に黙り、顔をさぁっと蒼褪めた。「どうやら彼女達は警備の目を掻い潜って大広間に入ってきたようですね。どちらのお家の者か知れませんが。」山瀬は冷たい紫紺の瞳で彼女達を睨むと、彼女達はひぃと悲鳴を上げた。「不法侵入の上に羅姫お嬢様に対する侮辱罪・・警察をお呼びしても良いですね? このまま穏便に済ませるとこういった輩はつけあがるばかりですから。」「折角の楽しい夜会を台無しにしたくはないが、そうする他あるまい。」「だ、そうです。警察が来るまであなた方には別室で待機して貰いますよ。」山瀬の言葉を聞いた彼女達の顔には、焦燥と諦めの表情が浮かんでいた。「ここから逃げ出すなんてこと、思わないでくださいね? あなた方のお名前と身分は知っておりますので。」元宮伯爵家の使用人達に半ば引き摺られるようにして、女性達は大広間から連れ出された。「不愉快な思いをさせて済まないね、羅姫さん。」「いいえ、小父様。これで彼女達はもう二度と社交場には姿を現わせないでしょう。行くわよ、山瀬。」「はい、お嬢様。」羅姫と山瀬がすずの元へと戻ると、彼女は憧憬の眼差しを羅姫に送っていた。「ありがとう、羅姫様・・」「礼を言われるような事を、した覚えはなくてよ。当然の事をした迄よ。」羅姫が長椅子に腰を下ろすと、それまでの一部始終を見ていた客達から拍手が起こった。「折角の夜会ですので、踊りましょうか。」「ええ。」山瀬の手を取り羅姫は踊りの輪へと加わった。 一方花街では、今宵も香欖(からん)がお座敷で美しい舞を披露していた。「香欖の舞はいつ見ても良いな。彼女の心根の清さが現れている。」「増岡様、おおきに。何や香欖を褒められるとうちも自分の事のように嬉しおす。」女将は客に酌をしながらそう言って微笑んだ。「あの子が衿替えの時期を迎える時が楽しみだな。」「ますますのご贔屓を、お頼申します。香欖にも宜しくと伝えておきますさかいに。」女将は深々と客に頭を下げると、彼は美味そうに酒を飲んだ。「ほな、うちはこれで失礼します。」香欖がそう言って客に向かって頭を下げて次のお座敷へと向かっていると、向こうから芸妓の爾代(ちかよ)が歩いて来るのが見えたので、香欖は彼女に会釈した。「香欖ちゃん、お気張りやす。」「へぇ、おおきに。」おこぼをからころと鳴らしながら、香欖は再び歩き始めた。 彼が神社の近くを通りかかった時、突然数人の男が彼の前に現れた。「何どす? うちに何か用どすやろか?」「お前が、『菊定』の香欖か。」いかつい顔をした男がそう言って、すいっと香欖の前に立った。「ちょっと顔貸して貰おうか?」「うちは忙しおす。用があるんやったら屋形のおかあさんを通しておくれやす。」香欖は男達を無視して歩き出すと、足早にその場を離れた。「おかあさん、さっき変な男に絡まれたんやけど・・」「変な男て、どんな男やったん?」「へぇ、何や岩みたいな厳つい顔しはった方どす。」香欖の言葉を聞いた女将は唸ると、溜息を吐いた。「そいつは女郎屋の女衒や。捕まらんで良かったな。」にほんブログ村
2011.05.10
哲爾が女性の手を引っ張って大広間へと出て行くのを、羅姫と山瀬は止めもせずに彼らを見送った。「あれが、君の許婚かね?」「ええ。ですが、この縁談は破談になりそうですわね。何せ彼には素敵な方がいらっしゃるようですから。」羅姫がそう言って口端を歪めた時、すずがドレスの裾を摘みながら彼女の方へと駆け寄ってきた。 今夜の彼女は女学校で見かける時のお下げではなく、髪を少し結い上げて後ろに垂らした髪型をしており、毛先は自然にカールしていた。「羅姫様、爾子様、今晩は。」「すずさん、今晩は。今夜のあなたはとても素敵よ。そのドレスも良く似合っているわ。」羅姫はすずが纏っている薔薇の刺繍が施されたクリーム色のドレスを褒めると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。「ありがとう、そんな事を羅姫様に言っていただけると嬉しいわ。お兄様がどちらにいらしたかご存知ないかしら? 先程から姿が見えないのだけれど・・」「さぁ、知らないわ。そうよね、爾子さん?」「え、ええ・・」羅姫が爾子に“余計な事を喋るな”という視線を送ると、彼女はそう言葉を濁してすずの問いに答えた。「そう・・」「ねぇすずさん、あちらで色々とお話ししないこと? このまま突っ立ってお喋りしていては他の方の邪魔になるでしょうし。」「そうね。」「ではお父様、失礼致しますわ。」羅姫と爾子、すずは元宮伯爵から離れると、空いている長椅子に腰を下ろした。「羅姫様と爾子様にお会い出来て良かったわ・・こんな所、まだ慣れていないから・・」すずはそう言うと、溜息を吐いた。「こういった場所は慣れるしかないわ。それに他人の噂話をしない事に尽きるわね。」羅姫がそう言って扇子で扇いだ時、楽団がワルツを奏で始め、隅で談笑していた男女が踊りの輪に加わり始めた。「わたくし、お父様と踊ってくるわ。お父様のお誕生日だから。では失礼。」爾子はさっと長椅子から立ち上がると、父親の方へと歩いて行った。「わたしは踊りが下手だから、ここで待っています。」「折角来たのに、勿体ないわ。」「いいんです、本当は踊りたいけれどわたしみたいな新興華族、誰も相手にはなさらないでしょうし・・」すずはそう言って何かを恥じるように俯いた。どうしたのだろうと羅姫が辺りを見渡すと、そこには隅の方でひそひそと話している3人の女性達の姿があった。 彼女達の視線がすずに注がれているので、余り好ましくない話をしているのだと羅姫は察した。「すずさん、ちょっと失礼するわ。」羅姫は笑顔の仮面を被ると、女性達の方へと歩いていった。「あら、どうしてあんな所に成り上がり者が混じっているのかしら?」「全く、不愉快だわ。」「あの家の息子が連れていた女を見た? 見た目は大人しそうだけれど、商売女の臭いがしたわ。元宮様はなんだってあんな方達を招いたのかしら、神経を疑うわ。」女性達がすずの陰口を叩いていると、突然彼女達の頭上からシャンパンの雨が降って来た。「あら、ごめんなさい。手元が狂ってしまって・・」彼女達が悲鳴を上げながら自分にシャンパンを浴びせた犯人を見ると、そこにはシャンパンのボトルを抱えた羅姫がにっこりと微笑んでいた。「素敵なドレスが台無しにはなったけれど、少し頭が冷えたでしょう?」羅姫がそう言うと、彼女達は怒りに頬を赤らめた。「何をなさるの、失礼な!」「あなたもあの女の仲間でしょう? 品がないこと!」女性達が口々に喚き立てると、羅姫は不快そうに鼻を鳴らした。「高価なドレスや宝石を纏っていても、あなた方にはその価値が解らないようね? まぁ、己の愚かさも解らないでしょうから、無理もないけれど。」 鈴を転がすような笑い声を羅姫が上げていると、騒ぎを聞きつけた元宮伯爵と山瀬が彼女達の方へとやって来た。にほんブログ村
あれよあれよという間に、元宮伯爵家の夜会が開かれる週末がやって来た。「山瀬、本当に出ていいの?」「ええ。せっかくご招待いただいたのですから。」「そう。」四頭立ての馬車の座席に向かい合わせに座っている羅姫は、胸元を大きく開いたミッドナイトブルーのドレスを纏い、首元には涙型のダイヤモンドの6連のネックレスをつけている。「わたし、おかしくないかしら?」「いいえ、ちっとも。今宵のあなたはまるで地上から舞い降りた女神のようですよ。」「あら、お世辞が上手いのね。夜会ではあの子と踊るつもりなの?」「ええ・・ですが、予定は未定と申しますので。」「そう、楽しみだわ。」羅姫が扇を開いて口元を覆い隠しながらくすくすと笑うと、馬車の速度が徐々に落ちていった。「どうやら着いたようね。」「ええ。」元宮伯爵邸の車停めには、夜会に招待された華族達の馬車で混雑していた。やっと羅姫達が伯爵家の侍従によって邸の中へと通されたのは、到着して数分後の事だった。―まぁ、羅姫様よ・・―お美しい事・・―遥様が少し可哀想ね。夜会が開かれている大広間へと羅姫達が向かっていると、既に大広間で談笑していたご婦人達がちらちらと羅姫を見ながらひそひそと囁きを交わしていた。「羅姫さん、山瀬様、来てくださったのね!」華やかなレースをふんだんに使った薔薇色のドレスを纏った元宮伯爵家令嬢・爾子(ちかこ)はそう言って羅姫と山瀬の方へと駆け寄った。「今夜は招待してくださってありがとう。盛況ね。」「ええ。今日はお父様のお誕生日だから、そのお祝いを兼ねて来てくださっているのよ。佐々岡さんはいらっしゃらないようだけど。」爾子はちらりと大広間を見渡しながら瑠璃子の姿を探したが、彼女は何処にも居なかった。「まぁ、あの方がいらっしゃらなくても場は盛り上がるもの。山瀬様、羅姫さん、お父様に紹介するから、あちらの方へ行きましょう。」爾子は山瀬の腕を取ると、羅姫とともに父親の元へと向かった。羅姫はちらりと窓から外を見ると、バルコニーには長い黒髪を垂らした女が立っていた。「あの方、どなた?」「あの方って?」「ほら、バルコニーにいらっしゃる・・」羅姫が指差した時、女はバルコニーにはいなかった。「お父様、ご紹介するわ。瀧丘羅姫さんと、羅姫さんの執事の、山瀬様よ。」「君が羅姫さんか。」元宮伯爵はそう言って羅姫を見た。「娘から話は聞いているよ。大変優秀な女学生さんだと。それに美人だから、引く手数多なんじゃないのかね?」「いえいえ、そんな事はありませんわ。お誕生日、おめでとうございます。」「ありがとう、君に祝えて貰えて嬉しいよ。」元宮伯爵は破顔しながら、ワインを飲んだ。「元宮伯爵、お誕生日おめでとうございます。」突然羅姫の背後で声がしたので彼女が振り向くと、そこには哲爾が立っていた。漆黒の燕尾服に長身を包み、獰猛な光を湛えながら彼は羅姫と山瀬を見た。「これは奇遇ですね、相田さん。てっきりあなたは今夜も何処かの娼妓と戯れているのかと思いましたよ。ねぇ、お嬢様?」「ええ。まさかこんな場所にそんな女を連れて来ているのではないでしょうね?」羅姫が小馬鹿にしたようにそう哲爾へと言葉を切った時、彼の元に1人の女性がドレスの裾を摘みながら駆けて来た。愛くるしい小動物のような円らな栗色の瞳をし、艶やかな黒髪を結いあげた女性は、羅姫が自分に向ける冷たい視線に気づくと、慌てて目を伏せた。「相田さん、そちらの方は?」「あなた方がお噂していた娼妓ですよ。小菊、行こうか。」哲爾は女性の返答を待たず、彼女の腕を掴むと大広間から出て行った。Image by clefにほんブログ村
2011.05.09
「ねぇ、あの方どなたなの?」 一時間目の授業終了の鐘が鳴ったのと同時に、数人の女学生達が羅姫の方へと駆け寄ってきた。「山瀬はうちの執事よ。」「山瀬様は、ご結婚されているの?」「いいえ、独身よ。彼は生涯結婚しない独身主義者だから。」淡々と級友達に話す羅姫に対し、彼女達は落胆するどころか何処か浮足立った様子だった。どうやら羅姫の態度を恋敵が1人減ったと思い込んだようだ。恋愛話やファッションに花を咲かせている彼女達から見れば、山瀬は魅力的な男性に映ったに違いない。だが彼の正体は鬼族だ。彼女達は山瀬が“人の生き血を喰らう魔物”だと知ったら、一斉に背を向けることだろう。 鬼族はその神通力や妖力によって、人間達と共存して助け合ってきた反面、化け物、魔物と畏れられ狩られた歴史があり、未だ鬼族に対する差別や偏見が根強く残っている。現に、鬼族の末裔であることで羅姫は尋常小学校時代に謂れのない差別を受けて何度か悔し涙を流したことか。だがその度に負けてなるものかと気を奮い立たせ、勉学や武術に励み、華族の令嬢としての立ち居振る舞いや教養などを身に付けた。「羅姫さん、少し宜しくて?」羅姫が我に返ると、先程の女学生達が彼女を見ていた。「何かしら?」「今度、うちで夜会があるのだけれど、お宅の執事さん・・山瀬様をお連れして来て下さいな。」「山瀬は使用人としての分を弁えていらっしゃるから、夜会に行きたいと思うかどうか解らないけれど、話してみるわ。」「まぁ、ありがとう。良いお返事を期待しているわ。」ぱぁっと目を輝かせながら、女学生達は始業の鐘とともにそれぞれの席へと戻っていった。「羅姫様はすごいわね。英語もフランス語もお出来になられるだなんて。」昼休み、すずは弁当を机の上に広げながら尊敬の眼差しを羅姫に向けた。「毎晩遅くまで予習や復習をしているから、たまたま予習したところが授業で出ただけよ。」「そうなの・・それよりも羅姫様、お昼御飯はいただかないの?」「ああ、それは・・」「失礼致します、羅姫お嬢様。」教室の扉が開き、バスケットを抱えた山瀬が入ってきた。「済まないわね、山瀬。」「いいえ。お嬢様、放課後のご予定は何かございますか?」「ないわ。もう下がっていいわよ。」「では、失礼を・・」山瀬がそう言って教室から出ようとした時、彼を遠巻きに見ていた1人の女学生が駆け寄ってきた。「あの、今度うちの夜会に来て下さいませんか?」「夜会、ですか?」山瀬が紫紺の瞳を細めながら女学生を見ると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。「ええ、今週末にうちであるのですけれど、もしお嫌でなければ・・」山瀬は一瞬困惑したかのような顔を浮かべたが、少し口端を歪めて女学生に笑うと、こう答えた。「是非、主とともに出席いたします。」「ありがとうございます!」彼女は嬉しそうな顔をして友人達を見ると、彼女達も嬉しそうに女学生を見ていた。「本当に夜会に出席する気なの、山瀬?」 放課後、羅姫は山瀬とともに馬を並んで走らせながら彼に昼間の事を聞くと、彼は静かに頷いた。「お誘いを断る訳にはいきませんでしょう。もしかしてお嬢様、焼きもちを焼かれたのですか?」「そ、そんな訳ないでしょう! 先に行ってるわよ!」羅姫は頬を赤らめると、馬に鞭をくれて山瀬を追いぬいていった。「全く、素直じゃないお方だ。」山瀬は溜息を吐きながらも、羅姫を追い掛けた。にほんブログ村
2011.05.08
「どちら様? いきなり挨拶されてもわたくし、知らない方とはお話ししたくないの。」 羅姫は馬上で冷たく少年を見下ろしながら言うと、彼は頬を紅潮させると彼女に手紙を渡した。「あの、これを・・」少年の手から手紙を受け取った羅姫は、中身を見ずにそれを彼の前で封筒ごと引き裂いた。「ああ~!」パラパラと時間をかけて書いた恋文を一瞬にして紙屑とされた少年の顔が、たちまち蒼褪めた。「わたくし、あなたのような礼儀を知らぬ輩に恋文を貰っても嬉しくないわ。それでは失礼。」呆然と地面に座り込む少年を正門前に放っておき、羅姫は女学校の中へと入った。「あらあら、振られてしまったのね。」「お可哀想に。」くすくすとその一部始終を見ていた女学生達が笑いながら正門の中へと入っていき、少年は堪え切れずにそこから立ち去って行った。「羅姫様、おはようございます。」教室に入ると、すずがさっと羅姫の元へと駆けより、頭を下げた。「おはよう、すずさん。昨夜は楽しかったわね。」「ええ。あ、羅姫様、お鞄お持ち致しますわね!」羅姫が机の上に鞄を置こうとすると、それをすずが持とうとした。「すずさん、あなたはわたくしの下女ではないわ、お友達よ。お友達なら、他人の鞄持ちをする必要はなくてよ。」「あ、すいません・・」羅姫の不興を買ったことが余程気落ちしたのか、すずはそう言ってしゅんと肩を竦めた。「あらあら、羅姫様は相変わらず冷たいお方ね。さっきだって正門前で恋文を貰った癖に、中身を読みもしないで破り捨てたものね。」瑠璃子が厭味ったらしく羅姫に言いながら、彼女の前に立った。「あら、わたくしは自分の名を名乗らない方を相手にしたくないだけよ。まぁ、あなたのような男なら誰でもほいほいと付いて行くような方よりはいいけれどね。」羅姫の言葉に、瑠璃子の頬が朱に染まった。「まぁ、それはあんまりではありませんこと? いつわたくしがそのようなふしだらな真似をなさったというの?」「あらあら、とぼけていても無駄よ? 昨日女学校を出る時に変な男とお話しされていたじゃないの。確か髪はぐしゃぐしゃで、無精ひげを生やした方だったわね。顔はちらと見たけれど・・ああ、あれはあなたのお兄様だったわね!」羅姫がそう瑠璃子に言い放つと、教室に居た女学生の視線が彼女に集まった。瑠璃子の家は裕福な資産家で、父親は高級官僚だったが、借金まみれで家に寄る時は金の無心しかしない兄が居る事を、彼女は黙っていたのだった。それを級友の前で暴露され、瑠璃子は居た堪れなくなって教室から飛び出した。「あの、何か不味くありませんか、羅姫様?」「事実なのだもの、隠したって仕方がないでしょう。それよりも一時間目は裁縫ね。」「ええ。宿題は持って来たわ。」すずはそう言って風呂敷の中から裁縫の宿題を取り出した。「そう・・」羅姫は裁縫の宿題を取り出そうと鞄の中を探ったが、何処にもない。(確かに鞄に入れたのに・・)もしかしたら家に置き忘れてしまったのかもしれない。「ああ、またお嬢様宿題を忘れておしまいになっておられる。」 瀧丘邸にある羅姫の部屋を掃除していた山瀬は、机の上に畳まれた裁縫の宿題を見つけると、溜息を吐いた。懐中時計で時間を確かめると、まだ一時間目には間に合う。山瀬はさっと裁縫の宿題を風呂敷に包むと、瀧丘邸から出て行った。(全く、世話が焼ける・・)女学校の正門前に山瀬は立つと、女学校の中へと入った。「羅姫お嬢様、お忘れ物ですよ。」羅姫が溜息を吐きながら一時間目が始まるのを待っていると、山瀬が彼の前に立った。「ありがとう、山瀬。もう行っていいわよ。」「ではわたくしはこれで。」用事を済ませた山瀬に、級友達は黄色い声を上げた。(下らない・・)にほんブログ村
「ようこそ、哲爾さん、すずさん。お会い出来て嬉しいわ。」羅姫と山瀬、哲爾とすずが瀧丘邸のダイニングに入ると、冬香が温かく相田兄妹を出迎えた。「お母様、ただいま帰りました。」「羅姫、もう哲爾さんとはお会いしたの?」「ええ、先ほど。山瀬から聞きましたのよ、哲爾様は社交界の問題児だとか。」羅姫はそう言って好戦的な視線を哲爾に送ると、彼は口端を歪めて笑った。「確かに俺は一ヶ所に留まるのが嫌いな男でね。親父がどうしても会ってみろというから来てやっただけさ。」「まぁ、無礼な方ね。」明らかに礼を欠いた哲爾の発言に、既にテーブルに着いていた遥は眉を顰めた。「お兄様、そんな事おっしゃらないでくださいな。羅姫様に失礼じゃありませんか。」「わたくしはちっとも構いませんよ。別にわたくしもお会いしたくありませんでしたし。」羅姫はそう冷淡に哲爾に言い放つと、自分のテーブルへと腰を下ろした。 こうして羅姫と哲爾のお見合いを兼ねた夕食は、険悪な雰囲気で始まった。夕食の最中、誰一人も言葉を発せずに、ナイフとフォークが鳴る音だけがダイニングに響いた。「冬香、今帰ったよ。」ダイニングの扉が開き、晃之介が入って来た。「お帰りなさい、あなた。先にお夕食を頂いておりますわ。」冬香は晃之介の登場でほっとしたような顔を浮かべながら、彼を見た。「羅姫、哲爾君はどうだ?」「別に何も。初対面なので余りよく存じ上げませんし。」羅姫はそう言ってグラスに入った水を飲んだ。「羅姫様、今日は助けてくださってありがとう。」すずが空気を変えようと、羅姫を見て礼を言った後彼女に微笑んだ。「ああ、体育の時間のこと? わたくしは弱い者いじめが一番嫌いなの。佐々岡さんは父親がお大臣だが何だか存知ないけれど、いやに親の笠を着て威張っていたから、気に喰わなかったので少々痛めつけてやろうと思っただけよ。」歯に衣着せぬ羅姫の言葉を、すずは瞳を輝かせながら聞いていた。「まぁ羅姫、また学校で暴れてきたの? あなたの所為でわたくしの縁談が壊れたらどうするつもりなの?」羅姫の話を隣で聞いていた遥が美しい眦を上げながら彼女に抗議したが、羅姫はそれを無視してすずと楽しく話しだした。「羅姫様、休日は何をなさるの?」「大抵乗馬か薙刀や剣術の稽古、後は読書かしら。すずさんは?」「わたしは刺繍が好きで、暇さえあれば一日中やっているわ。何だかわたし達、気が合いそう。」「そうね。」少女達が笑い合っていると、晃之介が突然咳払いした。「羅姫、哲爾君と少しは話したらどうなんだ? 折角我が家の招待に応じてくれたのに、失礼だろう。」「何を話せとおっしゃるの、お父様? わたくし花街や艶街のことはちっとも知らないし、春画も見た事がないのでどう哲爾様と話せば良いのか解らないわ。まぁ、わたくしと話すよりも艶街の遊郭でお酒をお飲みになられた方が楽しいでしょうね。」「羅姫!」余りにも無礼な娘の物言いに、普段温厚な晃之介が声を荒げた時、哲爾が突然狂ったように笑い始めた。「これは失礼。そちらのお嬢さんが余りにも正直にさらっと毒をお吐きになられたので、つい・・」哲爾はそう言うと、羅姫を見た。「あの男、気に入らないわ。」夕食後、自室に入った羅姫は化粧台の椅子に腰を下ろすと、そう言って溜息を吐いた。「あの男の事はもうお忘れになってください。」山瀬は羅姫の髪を優しくブラシで梳きながら、鏡越しに主を見た。「すずさんは良い方だけれど、わたしは彼女とは義理の姉妹にはなりたくないわ。すずさんがどう思っているのかは知らないけれど。」「羅姫様、素敵な方だったわ・・」一方相田邸の自室では、すずが瞳を煌めかせながら羅姫の事を想っていた。 翌朝羅姫が馬で登校中、女学校の前に1人の学生服姿の少年が立っていた。「羅姫さん、おはようございます!」少年は羅姫の姿を見つけると、そう叫んで彼女の前に飛び出した。にほんブログ村
2011.05.07
羅姫と山瀬は、町はずれの森へとやって来た。「それで、話って何?」「手紙を、読んでいただきましたか?」「ええ、誰も居ない教室で読んだわ。まさかお前が鬼族の生き残りだとは・・瀧丘家に居る目的は何?」羅姫はそう言って山瀬を見ると、彼は少し寂しげな笑みを浮かべた。「お嬢様のご両親・・一族郎党の仇を討ちたかったのです。その為にはまず、敵の情報を得たかった。だから瀧丘子爵家の執事として働きだした。そして・・あなたと会えた。」山瀬はそっと羅姫の頬を擦りながら彼女を愛おしそうに見つめた。「ずっと探していたの、わたし達を・・わたしと香欖(からん)を?」「ええ。香欖様の消息は依然とわかりませんが、いつか必ず探しだします。それよりも羅姫お嬢様、縁談をお受けするのですか?」「断るわよ。わたしは誰とも結婚しないわ。それに相手はあの社交界の問題児なんでしょう?」「相田男爵家の跡取りでありながら、芸者遊びや廓で女郎と戯れる放蕩振りに男爵様は頭を抱えておられるご様子。何故そんな者を羅姫お嬢様の縁談相手などに・・」山瀬はそう言って溜息を吐いた。「山瀬、わたしの事をどう想っているの? 鴾和家の血を唯一ひく姫としてではなく・・」「香様・・あなたのお父君は、いずれあなた様とわたしを夫婦にさせるおつもりでした。わたしはあなた様と初めてお会いした時から、あなた様をお慕いしておりました。」「山瀬・・」両親が自分達のお披露目として一族に顔見せしたパーティーの時、じっと自分を見つめている少年が居たが、あの時の少年が山瀬だったのか。「羅姫お嬢様、他の誰のものともならぬ・・誰の妻ともならぬというのなら、わたくしのものになっていただけませんか?」山瀬はそう言うなり、羅姫を抱き締めた。「山瀬・・」広い背中に伝わってくる、山瀬の自分への深い想い。「ずっとお慕いしておりました・・」「山瀬、お前の気持ちはよく解ったわ。ずっとわたしを想ってきたのね。でも、今はお前とは・・」「何年でも待ちます。あなたの心が変わるその日迄、わたしはあなたにお仕え致しましょう。」羅姫が山瀬から離れると、彼の哀愁を帯びた紫紺の瞳が自分を見つめていた。「もう戻りましょう。旦那様と奥様がお待ちです。」「ええ。」羅姫と山瀬は馬に乗って瀧丘邸へと帰宅すると、邸の前には一台の黒塗りのリムジンが丁度停まるところだった。「自動車なんて、初めて見たわ。」羅姫は馬上からリムジンを興味深げに見ていると、車の中から山高帽を被った学生服姿の青年と、緑の袴を穿いた女学生が出てきた。「あら、すずさん。」「まぁ、羅姫様!」女学生は、今朝自分のクラスに転入してきたばかりの相田すずだった。「どうしてあなたがこちらに? それにそちらの方は?」「ああ、紹介しますわ。兄の、哲爾(てつじ)です。お兄様、こちらの方は瀧丘羅姫様。」「初めまして、瀧丘羅姫と申します。」羅姫が馬から降りて青年に頭を下げると、彼はじっと羅姫を見つめた。その瞳はまるで、野生の狼のような獰猛な光を湛えていた。青年は羅姫を見つめたかと思うと、彼女の髪を一房手に取るとそれに口付けた。「宜しく。行くぞ、すず。」青年はさっと羅姫から離れると、邸の中へと入った。「待って、お兄様!」慌ててすずが青年の後を追って邸の中へと入っていき、羅姫は漸くそこで言葉を発した。「一体何なの、あの男。」「社交界の問題児は、変わり者でもあるようですね。羅姫様、わたくし達もそろそろ中へ入りましょう。」山瀬はそう言って羅姫の手をそっと握った。羅姫は躊躇いつつも、その手を握り返した。にほんブログ村
2011.05.06
(山瀬がわたしに手紙なんて・・一体何を書いたんだろう?) 封筒から便箋を羅姫が取り出そうとした時、担任の教師が教室に入って来たので、彼女は封筒を慌てて鞄の中へと戻した。「皆さん、おはようございます。今日は皆さんと共に学ぶ仲間が増えました。」教師がそう言った時、教室の中に1人の少女が入って来た。花柄の着物に緑の袴姿の少女はおどおどと、教壇から同級生達を見ていた。「相田すずさんです。すずさん、自己紹介なさい。」「相田すずです・・宜しくお願いします。」少女が自己紹介して頭を下げた後、同級生達が意地の悪い囁きを交わしているのが、羅姫の耳に入った。「何、あの方・・」「変な方ね。」「それにお着物も余り・・」どうやら、新参者の少女は彼女達には歓迎されていないようだ。「席は瀧丘さんの隣です。」「ど、どうぞ宜しく・・」羅姫の隣の席へと腰を下ろした少女は、そう言って俯いた。「宜しくね、すずさん。」羅姫はすずに向かって微笑むと、彼女は仄かに頬を赤く染めた。 体育の時間となり、羅姫達は校庭で薙刀の授業をしていた。「面一本、佐々岡さん!」練習試合で転入生に手荒い歓迎をした佐々岡瑠璃子は、意地の悪い笑みを浮かべながらすずを見た。「先生、次はわたしが。」「あら瀧丘さん、練習相手は互いにペアーを組んでやれと先生がおっしゃったでしょう? 相田さんの練習相手はわたくしなのよ。」「同じ人ばかりと試合をしてもつまらないわ、そう思いませんこと、先生?」羅姫は瑠璃子の言葉を無視して教師にそう言うと、彼女は一瞬戸惑ったが、「そうね。瀧丘さんの言う通り、同じ相手と試合するよりも、違う人と試合する方がいいわね。」と羅姫の意見に賛成した。「では、宜しくお願いしますね、佐々岡さん。手加減は致しませんからね。」そう言って自分に頭を下げた羅姫を、瑠璃子は恐怖の表情を浮かべていた。「構え!」羅姫と瑠璃子は互いに一礼した後、薙刀を模した竹刀を構えた。「始め!」教師の号令から間髪入れずに、羅姫が竹刀を中段に構え直し、瑠璃子の胴を強かに打った。「胴一本、瀧丘さん!」瑠璃子の時はやる気のない拍手が送られたが、羅姫が彼女から一本取るとわぁっと歓声が女学生達の中から上がった。瑠璃子は胴を一本取られただけだというのに、肩で息をするくらい体力を消耗していた。だが対する羅姫は、息一つ乱しておらず、悠然と次の攻撃へと構えていた。「もう終わりかしら?」瑠璃子に向けられた羅姫の声は、嘲りが含まれていた。「まだまだ!」唇をかみしめ、瑠璃子は竹刀を握り直し羅姫に突進した。だが彼女の攻撃はするりするりと羅姫にかわされてゆき、握っている竹刀が重く感じられた。「面!」気が付くと、羅姫が瑠璃子の頭に竹刀を振り下ろそうとしていた。「そこまで! 互いに礼!」「ありがとうございました。」羅姫は瑠璃子に頭を下げて彼女に背を向けてすずの方へと近づいた。「あ、あの・・」「あなたの仇は討ってあげたわよ。」困惑するすずを前に、羅姫は彼女の耳元にそう囁くと校舎の中へと入っていった。 放課後、羅姫が馬に乗り校門を出ると、そこには山瀬が黒馬に跨って彼女を待っていた。「珍しいわね、お前が馬に乗ってわたしを出迎えてくれるなんて。」「羅姫お嬢様に、お話がございます。」「いいわ・・ここでは人目があるから、静かな場所に移りましょう。」山瀬を見つめる女学生達の熱視線を感じながら、羅姫はそう言うと手綱を操り、颯爽と駆けだした。にほんブログ村
数日間の休暇を終えた瀧丘子爵家は別荘を後にし、本邸に戻りいつも通りの生活を送った。「おはようございます、羅姫お嬢様。」「ん・・」羅姫が寝台の中でまどろんでいると、執事の山瀬が寝室に入ってきてカーテンを開けた。「本日は羅姫お嬢様の縁談相手がお見えになられるので、お早いお帰りをと奥様が。」「またなの。わたしは結婚しないと言っているのに。」羅姫が溜息を吐きながら、山瀬が髪を梳いてくれている姿を鏡越しに見ていた。「遥お嬢様のご縁談が決まり、次は羅姫お嬢様をと奥様はお考えになられているのでしょう。暫く奥様が口を酸っぱくさせて羅姫お嬢様に結婚の催促をなさいますが、黙って耐えてください。」「そうするわ。」羅姫はさっと椅子から立ち上がると、山瀬がクローゼットの中から着物と袴を取り出した。着物は加賀友禅の振袖で、袴は海老茶染めだった。羅姫は夜着から振袖へと袖を通し、袴の紐を締めると寝台の端に腰掛けた。「失礼致します。」山瀬は羅姫の両足にブーツを履かせ、丁寧に靴紐を締めた。「朝食の後にすぐ出るから、馬の用意をお願いね。」「かしこまりました。」寝室から出た羅姫は、ダイニングへと降りていった。「おはようございます、お父様、お母様。」「おはよう、羅姫。今日からまた学校だね。」晃之介はそう言って新聞から顔を上げ、羅姫を見た。「ええ。遥お義姉様はまだお部屋なの?」「遥ならさっき学校に行きましたよ。最近あの子塞ぎこんでいて、何が気に入らないのかしら?」冬香は溜息を吐くと、紅茶を飲んだ。「では行って参ります。」朝食を食べ終えた羅姫は両親に頭を下げてダイニングから出て行くと、入れ違いに涼太がダイニングへと入ってくるところだった。「姉様、もう行くの?」「ええ。」玄関ホールから外に出ると、山瀬が馬を牽いて待っていた。「お嬢様、行ってらっしゃいませ。」「行ってくるわ。」羅姫はさっと馬に乗ると、手綱を握って正門から邸の外へと出て行った。「山瀬、姉様は?」「先ほど学校へと行かれました。」「ちぇ、一緒に行こうと思ったのにな。一人で登校なんて、つまんないや。」涼太は舌打ちし、少し拗ねた。「ねぇ山瀬、羅姫姉様のお相手ってどんな方かな?」「さぁ・・社交界の問題児だということは存じておりますが。」山瀬の瞳が、険しい光を宿した。「御機嫌よう、羅姫様。」「御機嫌よう。」羅姫が女学校の門をくぐると、数人の女学生達から挨拶をされたので、羅姫は挨拶を返すと厩舎へと向かった。「また放課後に会いましょうね。」羅姫はそう言って愛馬のたてがみを撫でて教室へと入ると、先ほど自分に挨拶してきた女学生達が近づいて来た。「羅姫様、聞きましたわよ。」「あの哲爾様とお会いになられるのですって?」「一度だけ会う事になったのよ。それがどうかして?」羅姫がそう言って自分の席に着くと、彼女達は怪訝そうな表情を浮かべた。「羅姫様、哲爾様は羅姫様との縁談に乗り気だと聞きましてよ?」「へぇ、そうなの。知らなかったわ。」淡々とした口調で羅姫が教科書やノートが入った鞄を開けると、封筒のようなものが見えた。(いつの間に、こんなものが・・) 羅姫はそっと鞄の中から封筒を取り出すと、そこには“お嬢様へ”と山瀬の字で書かれていた。にほんブログ村
2011.05.05
「今度店出しさせていただく事になった香欖どす、宜しゅうお頼申します。」舞妓となって初めて出るお座敷の席で、香欖(からん)はそう言って客に挨拶した。「香欖ちゃん、仕込みの時も可愛くなったと思ったけれど、店出しして舞妓になってから益々可愛くなってきたね。」「おおきに。」香欖は客に微笑むと、彼の猪口に酒を注いだ。「失礼致します。」部屋の襖が開き、料亭の女将が入って来た。「香欖ちゃん、今日はおめでとうさんどす。これからお気張りよし。」「へぇ、おおきにおねえはん。」女将は三味線が入った袋を女中から受け取り、襖の前に座り、三味線を袋から出すと音合わせをし始めた。「香欖ちゃん、準備出来ましたえ。」「へぇ。ほな、失礼します。」香欖は客達に向かって頭を下げると、襖の前に跪くと、ゆっくりと女将が弾く三味線の音に合わせて静かに舞い始めた。 舞を舞いながら、香欖は仕込みとして生活を始めた日々を思い出していた。あの時はまだ花街の掟やしきたりといったものが理解できず、戸惑う事ばかりが多かった。それ故に失敗を繰り返し、先輩舞妓や芸妓達、置屋の女将から叱責を受けたりしたし、先輩達からは陰湿ないじめを受けたりした。だがどんなに辛い事があっても、香欖は決して裸足でこの街から逃げ出したりはしなかった。自分が決めた人生の選択を放棄して尻尾を巻いて逃げ出すことなど、最も人間としてはいけない事だからだ。逃げ出したいと思った時、いつも脳裡に浮かんだのは、壮絶な両親の最期の姿だった。 命が尽きるその瞬間まで、敵に立ち向かい決して背中を見せることはなかった両親の姿は、幼いながらも香欖の目蓋の裏に焼きついて離れなかった。 ―父上や母上に恥じない立派な生き方をしよう―燃え盛る邸を高台の上から見ながら、香欖は姉と共に心から誓ったのだ。人に恥じぬ生き方を、人に恨まれるよりも感謝される生き方をしようと彼は仕込みとして生き始めた時、常にそう自分に誓ってきた。だからこそ、舞妓としての今の自分が居る。(父上、母上、あの泣き虫なわたしがここまで立派に成長いたしましたよ。)何度も涙を堪えながら、香欖は舞を舞い終えた。「ええ舞やったわ、香欖ちゃん。」「おおきに。」これまで仕込みの時に何度か客の前で舞った事はあるが、舞妓として舞う事に対して緊張し、大丈夫だっただろうかと二軒目のお座敷へと向かう最中で香欖は何度も思っていた。 石畳の路地におこぼの音を響かせ、花簪を揺らしながら香欖が男衆(おとこし)とともに二軒目のお座敷がある茶屋へと向かっていると、突然路地裏から下駄の音が響いたので思わず香欖は背後を振り向いた。するとそこには黒い外套と学生服を纏い、山高帽を被った男がじっと香欖を見つめていた。榛がかった黒い瞳は、何処か野生の狼を思わせるかのような獰猛(どうもう)な光を湛えていた。「香欖はん、行きますえ。」「へぇ。」はっと我に返った香欖は、男衆とともに二軒目のお座敷へと向かった。おこぼの音が次第に遠ざかり、外套の男は次第に小さくなってゆく香欖の背を見送ると、口笛を吹いて彼に背を向け、歩き出した。「哲爾(てつじ)様、こんな所にいらしていたのですか。」男の前に、黒いフロックコートを纏い、銀縁の眼鏡を掛けた男が呆れ顔を浮かべながら彼を見た。「なんだ、お前か。」にほんブログ村
2011.05.04
「只今戻りました。」 遠乗りから戻り、瀧丘家の別荘の居間に入った羅姫(らひ)がそう言うと、養父母と義理の姉弟の他に、見知らぬ青年がソファに座っていた。「お父様、そちらの方はどなたです?」「羅姫、紹介するよ。遥の許婚の、梨本陽輔(なしもとようすけ)さんだ。梨本さん、下の娘の羅姫だ。」「初めまして、梨本陽輔です。」そう言ってソファから立ち上がった長身の青年は、女と見紛う程の美貌の持ち主で、隣に立っている羅姫の輝くような美貌さえも霞んでしまうほどだ。「瀧丘羅姫ですわ。遥お義姉様は幸せ者ね、このような美しい方とご結婚されるのだもの。」羅姫はそう言ってソファに座っている義姉を見やると、彼女は何故か苦虫を噛み潰したような顔をしていた。「どうなさったの、お義姉様?」「気分が優れませんので、部屋で休ませていただきます。」遥はソファから立ち上がると、居間から出て行った。「御免なさいね、梨本さん。あの子ったら、どうしたのかしら。」冬香は溜息を吐きながら、紅茶を飲んだ。「さぁ。それよりも梨本さんの留学話を聞きたいな。」涼太は瞳を輝かせながら、そう言って陽輔を見た。「そういえば梨本さんは、学生時代に英国へ留学していたのですってね。是非ともお聞きしたいわ。」「いえ、お話しするような経験は余りありませんが・・」謙遜しながらも、陽輔は照れ臭そうな顔をしていた。 夕食の時間となり、羅姫達はダイニングで陽輔の留学話に耳を傾けていた。「初めて舞踏会でワルツを踊った時、女性に技を掛けてしまって、後で友人にこっぴどく叱られてしまいました。」「まぁ、そんな事がおありになったの?」冬香は葡萄酒を飲んでいる所為なのか、いつもより陽気だった。「それにしてもお義姉様はお部屋に籠ったまま出てきませんわね。わたくしが呼んできますわ。」羅姫はそう言ってダイニングから出て遥の部屋の前をノックした。だが、中から返事が返って来ない。「お義姉様、どうなさったの?」「部屋に入ってこないで。あなたは梨本様のご機嫌をお母様と取りなさいよ!」ドアの向こうから返って来た義姉の声は、今まで聞いたことがない冷たく鋭いものだった。そっとしておいた方がいいかもしれない―羅姫は何も言わずにそっとダイニングへと戻った。「梨本様、わざわざいらしてくださったのに姉は急に体調を崩してしまって申し訳ないです。」羅姫がそう言って陽輔に向かって頭を下げると、彼は笑った。「いいえ、誰にだって機嫌が悪くなる時があります。今日はあなたにお会いできて良かった。」「ええ、わたくしも。」羅姫の言葉に陽輔は微かに口端を上げて笑うと、玄関ホールから出て行った。「またのお越しを、お待ちしておりますわ。」「ええ、ではまた近い内に。」陽輔を乗せた馬車が別荘の門を出て見えなくなるまで、羅姫は頭を下げてそれを見送っていた。その光景を、二階の窓から遥は見ていた。(梨本様はもう、わたしよりもあの子に会う為にここにやって来る・・)遥は溜息を吐いて窓から離れ、ベッドの端に腰掛けた。10年前羅姫と義理の姉妹となってから、両親や弟の目は常に羅姫に向けられ、周囲の者も羅姫の美しさや聡明さに惹かれていった。だが遥を誰も見てくれる者が居ない。(あの子がわたしの前に現れてから、わたしはいつもあの子の陰に怯えなければならないなんて・・わたしは瀧丘子爵家の正統な令嬢なのに・・)血が繋がらない、滅びた一族の聡明な姫にいつか自分の地位を脅かされるのではないのかと、遥はそう思いながらやがて眠りに就いた。にほんブログ村
香欖(からん)が両親と死に別れ、双子の姉・羅姫(らひ)と引き離され、この花街に引き取られてから10年の歳月が過ぎようとしていた。厳しい芸事や作法の稽古や、先輩達の陰湿ないじめにも耐え忍んだ彼は、明日で15―成人の年を迎えようとしていた。「明日はいよいよ店出しの日やなぁ、香欖ちゃん。今までようきばってくれたねぇ。」女将はそう言って、香欖の部屋にある衣紋掛けに掛けられた黒紋付の振り袖を眺めながら目を細めた。「へぇ。これもおかあさんのお蔭どす、おおきに。」香欖は10年間自分を実の子どものように愛情深く育ててくれた女将に感謝の言葉を述べると、彼女に向かって頭を下げた。「まだあんたの姉さんは見つからへんけど、あんたの事を聞いたらきっと喜ぶと思うわ。」「はい・・」10年前、香欖は目の前で両親と家を失い、姉とも生き別れた。その姉の消息は、未だに分かっていない。だがいつの日か、姉とともに暮らせる日を夢見て、香欖は稽古に打ち込んできた。「明日は忙しいさかい、ゆっくりお休み。」「はい、おかあさん。」襖が静かに閉められた後、香欖はふぅと溜息を吐いた。母譲りの艶やかな黒髪は、明日の晴れの日の為に割れしのぶに結っている。(いよいよ明日か・・)高まる気持ちを抑えながら、香欖は眠りに就いた。 翌朝、香欖は置屋の女将によって化粧を施され、男衆(おとこし)によって黒紋付の振袖とだらりの帯を身に付けた。「よう似合ってるわ。」「おおきに。」鏡台に映る己の姿に驚きながらも、香欖は舞妓としての新しい人生を歩み始めた。 同じ頃、新緑の季節を迎えた帝都近郊の避暑地では、藤色のドレスに身を包んだ1人の令嬢が、颯爽と馬で駆けている。緑の木々から時折射し込む陽光によって、彼女の金髪は美しく輝き、宝石のような蒼い瞳も一層輝きを増していた。ドレスの裾が邪魔になる為、馬に横乗りしながら疾走する彼女の姿は何処か凛としていて、道行く人々は彼女が通る度にその美しさに溜息を吐いていた。目的地の前で彼女が速度を落とそうとした時、道端で数人の少年が1人の少女に絡んでいるところを目撃し、速度を落とさずに彼らの方へと向かった。「そこで何をしているの?」突然自分達にぶつかりそうな勢いで目の前に白馬に乗った令嬢が現れ、先ほどまで同級生を苛めていた少年達は驚きの余り地面に尻餅をついてしまった。「何をしているのかと聞いているのです、答えなさい。」「べ、別に俺達は何も・・」「嘘おっしゃい。わたしはお前達がこの子をいじめるのを見たのですよ。」「そんな事は・・」少年達が尚も言い募ろうとすると、令嬢は持っていた鞭で彼の頬を打った。「痛ぇ、何すんだよ!」憤怒の表情を浮かべる少年に対し、令嬢は氷のような声で彼にこう言った。「己の痛みが解らぬ者に、人に痛みを与える資格などどこにもありませんよ。もっと痛い目に遭いたくなかったら、ここから消えなさい!」怒りの炎を宿した蒼い瞳で睨まれ、少年達は一目散に逃げていった。「大丈夫?」馬から降りた令嬢は、両膝の間に顔を埋めて泣いている少女に声を掛けた。「大丈夫です。助けてくださってありがとうございます。あの・・お名前は?」「わたし? わたしは羅姫というのよ。」令嬢―羅姫はそう言って、少女に微笑んだ。「また機会があればお会いしましょう。」羅姫はひらりと馬に飛び乗ると、風となって消えていった。「素敵・・」徐々に小さくなってゆく羅姫の背中を、少女は潤んだ瞳でいつまでも見つめていた。にほんブログ村
2011.05.03
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「ユーフィリア、お前は何と言うことを・・」 突然実の父を射殺したユーフィリアに向かって怒鳴ったのは、彼女の姉でエスティア皇国第一皇女・キャサリンだった。「わたくしはもう疲れたのです、お姉様。もう“良い子”を演じるのはうんざりなの。」ユーフィリアはそう言ってドレスの裾を摘むと、バルコニーからひらりと舞い降りた。「ユーフィリア様!」慌ててユーリが彼女を追おうとすると、その腕をキャサリンが掴んだ。「一体あの子に何が起きたのだ!?」「わたしは、何も知りません。今言えるのは・・」ユーリは未だ虐殺が続く式典会場を見た。そこにはアイボリーのドレスを返り血で染めたユーフィリアの姿があった。「ユーフィリア様を止めるだけです。」 ユーフィリアは機関銃を手に、悲鳴と怒号、血煙の中をひたすら突き進み、逃げ惑う人々を無差別に撃っていた。繊細なレースで作られたドレスや、雪のように白いユーフィリアの肌や薄紅色の髪は徐々に緋に染まり、慈愛の光を湛えていた紫紺の瞳は今や狂気に彩られていた。「おやめください、ユーフィリア様!」ユーリはユーフィリアの虐殺を止めようと、彼女の前に立ちはだかった。「ユーリ様、わたくしを止めるのなら、わたくしを殺しなさい。」「ユーフィリア様・・」もう彼女に何を言っても無駄だ。(これだけは、使いたくなかったのに・・)ユーリの全身から微かに妖気がたちのぼった。「なに・・?」「ユーフィリア様、お許しください。」ユーフィリアが最期に瞳に浮かべたのは、狂気ではなく恐怖だった。「ユーフィリア!」ユーリが妹の元へと向かって行くのを見たキャサリンは、マントの裾を翻して慌てて彼女の後を追った。「ユーリ様、わたくしを止めるのなら、わたくしを殺しなさい。」妹は不気味な言葉を、まるで歌うかのような口調で言った。一体ユーリは何をするつもりなのだろうか―キャサリンがじっと2人を見つめていると、ユーリの全身から蒼い禍々しい妖気が漂い始めた。「なに・・?」ユーフィリアは恐怖のあまり、機関銃を下ろしてユーリを見た。「ユーフィリア様、お許しください。」ユーリの言葉が聞こえ、彼女の銀髪が揺れたのと、ユーフィリアの首と胸から大量に血が噴き出たのは、ほぼ同時だった。「ユー・・」キャサリンの目の前で、最愛の妹がゆっくりと地面へと倒れてゆく。彼女の血が、自分の頬についた。ほんの一瞬の出来事なのに、全てが緩やかに動いているように見えた。「ユーフィリア、しっかりしろ!」「お姉様・・ごめんなさい・・」ユーフィリアは、姉の腕の中で静かに息を引き取った。「ユーリ、貴様・・」怒りに燃えた目でキャサリンが顔を上げると、そこにはもうユーリの姿はなかった。「ユーリ様?」「殺したくは・・なかった・・」広場から帰ってきたユーリは、全身にユーフィリアの返り血を浴びながら匡惟にそう言うと、堪えていた涙を流した。「わたしは・・殺したくはなかったのに!」エスティア皇国第二皇女・ユーフィリアの葬儀は、しめやかに宮殿内の聖堂で行われた。「ユーリ、許さない・・」妹が眠る棺の前で、蒼い瞳を怒りで滾らせながらキャサリンは彼女の仇を討つと胸に誓い、聖堂を後にした。 その頃花街では、香欖(からん)が厳しい芸事の稽古を受けながらも、いつか姉を探し出す一心で伝統としきたりの中を生きていた。(姉上、いつか必ず探し出すからね!)にほんブログ村
2011.05.02