余多歩き

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2010年02月17日
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http://www.nogami.gr.jp/katudo/gijiroku/giji00_1126/giji00_1126.html
(野上)先日、小学校に勝本先生をお尋ねしたが、その時、農民一揆のお話が出て、その時、九鬼隆義が馬に乗って 農民を説得しに行ったと感情豊かにお話して頂いた。 あのような状況の中で、殿様自身が農民の訴えを聞きに行 こうと、優しい心を持った殿様だったと…。  (高田)あのような状況で藩主がその様な気持ちで行っても農民の方がイキリ立っているから、全く受け入れようと しなかった。  (青柳)農民の上に立っていた人は誰でしたっけ。 (野上)仲惣左衛門。 (青柳)あっ、そうそう、仲惣左衛門の子孫の方がこの前、農民一揆についてお話になっていたが、その中で、 九鬼や白洲が横領して使い込んだ等と、すごく悪く受け止めていた。 未だ、子孫の人達は尾を引いているよ うだ。  (千足)私が聞いた話は、三田カルタの中に百姓一揆が取上げられているが、あれはおかしいと…。 その後、 高田先生からあれは百姓一揆ではない。 そのために処刑されたのではないとお話を伺った。 (青柳)高田先生からお聞きした百姓一揆と、農民の子孫から聞いた百姓一揆の内容が全く違うんですよね。 (野上)勝本先生が前回お話になっていましたね。 西村先生が書かれた百姓一揆は農民側から捉えているが、 その本かを書かれた時代が反体制的な風潮が強い時代であり、その様な論調になったのではないかと。 勝本 先生のご先祖は農民一揆に立ち上らなかった郷の庄屋さんで、一揆の時に蜂起しないよう村民を説得されたと いうことをおじいさんやお婆さんからお聞きしていたと伺ったことがある。 先程のお話にもあったが、同じ 農民の中にも、優しく開明的な殿様に好意的な見方をする人も居るようだ。 (高田)あれは余りにも急激なテンポで文明開化を進めたために起こったもので、藩の中でも改革派と旧体制派 とがあった。 改革派がどんどん進めていくのに反対した旧体制側に農民が付き、巻き込まれて暴動になった ものだ。
あの時、村で郷学校を作った時、お宮とかお寺とかを使って行われたが、その時の運営費用は宮田とかお寺が 持っている畑等から上がる年貢をそれに当てた。 今まで、農民が管理していたものが教育に当てられた。  そこに、農民の不満があった。 何故、農民に教育が必要なのかと考えている人々にすると、これが搾取して いるとうつる。 それに、藩の財政も豊かではないし、そんな中で農民にも平等に教育をしていかなければなら ないという、福沢諭吉の理念もあって、それを思った隆義が何処の村にも平等にとやったわけだ。
三田町では市学校が出来、正覚寺がやっているわけだが、費用は町年寄などに負担させている。 だから、 藩からお金を出しているわけではないが、教育の機会を与えているわけだ。  だから、その必要性を感じて、 改革派の人がどんどん進めていく。 旧体制側の首謀者は九鬼兵庫だが、彼が農民に対して指示をだし、農民を 立ち上らせた。 だから、農民は立ち上ったわけだ。 
最終的に、一揆が終わった後、九鬼兵庫は閉門となり、家老だったが”西”に改姓した。 その息子、九鬼貢 は藩主のお姫様を嫁に貰っていたので取り潰しが出来ず、西貢と改姓した。  その様に、ものすごいテンポで進み過ぎ、そこに亀裂が生じて百姓を巻き込んだ。 だから、捉えように依って は農民を搾取したとなってしまう。
最終的に裁判は三田藩が行ったのではなく、明治新政府の弾正台が行ったことで、その事件を暴動と捉えた。  捉え方に依っては搾取となるが、隆義の平等に教育を与えなければという信念から取組んでいるわけで、根本的 に考え方が違っている。 (千足)歴史に謎が多いというのはその様なことをいうのでしょうね。  (高田)西村先生が百姓一揆を美化して書いているが、その子孫達も西村先生の本がベースとなっていると思う。   朝野さんのお宅の鍵屋重兵衛の日記の中にも百姓一揆の裁判の経過が詳しく書かれている。
それ以外にも色々ある。 今の内神屋惣兵衛の屋敷に、白洲や農民等、関係者全員が呼ばれ、京都弾正台から 厳しく詰問されている。 それに対してきっちり答えており、その結果、農民が暴走したということになった。  我々は始めからその様に思っているが、西村さんの様な意見も片方にはあるわけで、その様な本を読んだ人に とっては、白洲や小寺が悪いということになってしまう。 (千足)処刑があったのは新地稲荷の、あそこですか?  (高田)あそこが最終的に処刑の場となった。 (千足)だから、あそこには家が建てられないんですか? (高田)いえ、そうではないんですよ。 処刑されたのは河原ですから。 上に立ち会い役人の詰め所があったん です。 そこは政府のもので、その後競売にかけられたが、そこだけ売れなかった。 後は屋敷町とか、城の中 とか、澤という家老の家とか、河内屋あきえもん、岡島さんなどが買っている。 当時、岡島さんの家は大変な 金持ちやったんやなー。 新政府の払い下げの土地を相当買っている。 (青柳)売れなかった土地とは○○さんのところですか。 処刑場はその下ですね。 (高田)そうそう。 昔、そこに新地橋があって、向こう側に遊郭があった。 検番があって、当時そこを新地と 呼んでいた。 こちらも新地で、両岸に新地があった。


http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00482070&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA

 白洲退蔵氏は当時藩の大参事として郡奉行の小寺泰次郎氏等と共に隆義侯の信任最も厚く世は王政廃藩となるや逸早く神戸の開港に着眼し侯を擁して神戸に移り志摩三商会を設けて貿易の業に従事すると共に一方に於ては予め神戸の今日あるを知りて小寺泰次郎氏をして神戸の地所に資金を貸し以て今日の九鬼子爵家の資産を築き上げしめた三田藩に於ける此等の人々は兎に角其功績の没すべからざる人物といわなければならぬ
 白洲退蔵氏の一に藩侯の為に計りたるに対して小寺泰次郎氏は藩の資を以て自己の蓄財に力めた形跡がある之れが為め泰次郎氏は三田藩士より種々の非難を受けた
 此父翁の悪評を回復せんと計りたるが今の小寺謙吉氏である氏は数十万円の基本金を投じて現今の三田中学校を設け郷党の教育の為に至大の資を散じたのである而も此美挙は大に其時宜に当り三田藩積年の怨恨を一掃するを得た代議士としての小寺謙吉氏が今日牢乎たる地盤を有馬郡に有する所以も亦是に在る謙吉氏の挙を以て智と云うべきか狡と評すべきか勿論茲に判ずべきの限りではない(TK生)
(78)=西摂の各市街=三田=宝塚 三田藩の大立物たる故白洲退蔵氏の背後には故福沢諭吉翁ありたる事を忘れてはならぬ福沢諭吉翁に依って輸入咀嚼せられたる当時の西洋思想は更に其高弟たりし白洲退蔵氏に伝えられて三田に入り県下最先のハイカラ地たらしめた白洲氏の事業は時未だ適せず多く失敗に了りたりと雖も廃藩の当時藩主より藩士一同へ下附せられたる三百円宛の金を集めて茶園舎なるものを起し茶園部肥料部貸金部書籍部の各係を設けて合股組織の製茶事業を開始し三田藩士に生活の途を得せしめんと計りたるものは白洲氏である三田の人口を開けば彼が藩の為に尽瘁せし功労を頌せざるはなし
 三田藩は藩主と小寺氏の富を積みたるを除けば他の藩士は多く産を失いて所謂士族の商業に了りたれども有馬郡は一般に勤勉質素なりし

スナイドル銃を買わせた家臣三百五十のうち 志摩三商会参加が十五 小寺家が のれんわけしたように見えるのも それなりの事情があるわけで 学校作ったり 奨学金作ったり 懺悔というありがたいシステムがあるキリスト教に帰依するのも もっともな話かと







最終更新日  2010年02月17日 12時13分26秒
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