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katu6448@ Re:ティンバルカ(09/15) 正直な所、何を言っているのか? 最後はテ…

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2024.04.21
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カテゴリ:カテゴリ未分類
年表に当時の中国唐朝の情勢を掛け合わせて、再構築してみると
重大事件にこの当麻曼荼羅が関わっているのではないかと思えるようになった。

唐朝は則天武后の時代に道教から仏教を重視する政策に変わっている
これは則天武后の台頭と密接に関係しており、則天武后の時代王朝の名前を
唐から周に変わった事からもよく知られており
その時に仏教美術において、大変な発展が見られた国家事業として行われたためです。

その時に涅槃変相図など多数の物が作られたようですが、それから唐の滅亡に向かって
その大部分は破壊され残ってはいません。

この当麻曼荼羅は、唐から渡ってきていたと自分は考えていますが、その理由は
安史の乱によってその直前に長安で大虐殺と略奪が行われている事実があります。
ものすごい多くの人々が巻き込まれ、命を落としている状況です。
安史の乱は収束出来ておらず、また吐蕃による長安占領や、安史の乱で助力を求めたウイグルも
いつ手を返して、攻めてくるか不明の状況で行なわれたのが、この蘇州から帰国した
遣唐使船です。
この当麻曼荼羅自体重大な宝であると共に、浄土信仰の根源をなすものです。
浄土信仰の重要な物として信仰されていたのでしょうが
この戦乱の状況において、それを守る意味からも日本に送られてきたのでは
という意図を感じます。

この曼荼羅には折り目があり、布自体は非常に薄い物であるとわかっており
これを何重にもたたんで持ち込まれたのでは無いかと推定しています。

この仮説の場合、問題は下部の曼荼羅制作のいきさつを書いてある部分です。
原本はもはや剥落して残ってはおりませんが、その記述は復元された物から
内容がわかります。

藤原豊成が難波の地に隠棲していたとき、この遣唐使船の誰から入手し
その地において、この部分を付け加える事で、日本で中将姫が一夜にして作られた
という事になったのだと思えます。
おそらくこの制作にも、中将姫が一枚噛んでいるは間違い無いのでは無いかと思えます。

そうする理由として、唐朝の混乱の時期であり、おそらく秘密裏に持ち出されたので
記録として残すわけには行かない事情があったことになります。
送使沈惟岳の賄賂をもらったという事件が余計にひっかかります。

唐朝としては勝手に持ち出されたことになり、また日本側にもその記録を残す訳には
行かない事情を感じます。





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Last updated  2024.04.22 09:49:13



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