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カテゴリ:MBA留学
明日のケースがあまりにもつまんないんで、金曜のBGIEを読んでたら、なかなか熱い話だったので、またもや書いときます。
舞台は、アフガニスタン。 これは、前回のブラジルに加えて大分えぐいケースになっております。 * * * 2006年冬、アフガニスタンのカルザイ大統領は頭をかかえていました。 アメリカの侵攻・タリバーン政権の崩壊から5年。 アフガニスタンの国内ではタリバーンの残党などによるテロ等の暴力事件が続き、2006年に殺害された外国兵士の数は、2001年-2005年の合計を上回るという破滅的な状況。 経済もなかなか離陸せず、麻薬(アヘン)の闇栽培による収入がGDPに占める割合はなんと52%! まともな産業が立ち上がってこないため、政府の税収もほとんどなく、政府支出の大半が海外援助によってファンディングされている。 世界銀行の試算によれば、アフガニスタンの経済を離陸させるために必要な投資金額は280億ドル。一方で、2006年の政府収入はわずか4億ドル。。。280億ドルを外国から借入れてもいいけど、返せるあてのない借金はできません。。。 まさに、「どうする、どうする? 俺?」って感じです。 * * * 歴史 – カイバル峠の向こう側 アフガニスタンは、パシュトゥン人 (42%) 、タジク人 (27%) 、ハザラ人( 9%) 、ウズベク人 (9%)、その他少数民族 ( アイマク、トルクメン、バルーチなど)から成る多民族国家。 1919年に、イギリスから独立。 その後の数十年は、国王による穏健な統治が続く。 1973年、ムハンマド・ダーウード・ハーンが、クーデターにより王政を転覆し、大統領に就任。 しかし、ダーウードは経済政策や政治体制の安定化に失敗。 国内の不満がつのり、1978年に軍の兵卒たちがクーデターを起こし、アフガニスタン共産党に政権を譲り渡した。 新政府の厳しい共産主義路線に反対し、ダーウード派の残党や、イスラーム保守派の武装ゲリラから成る「ムジャーヒディーン」という反対勢力が形成される。 共産党新政府と「ムジャーヒディーン」の抗争は続き、共産党新政府はソ連に支援を要請するが、うまくいかず。 1979年、親ソ連の政治家が殺害されたのを契機に、ついにソ連がアフガニスタンに侵攻。 これに危機感を抱いたアメリカ、パキスタン、サウジなどの資本主義陣営は、抵抗勢力「ムジャーヒディーン」への武器供与などの支援を行ったといわれている。 1991年にソ連が崩壊すると、国際社会のアフガニスタンに対する関与は一気に失われる。 パワーバランスを失ったアフガンは一気に群雄割拠の内乱(日本の戦国時代みたいだ。。。)に突入。 アフガニスタンが再び国際社会の関心を集めるのは、1994年以降「タリバーン」の動きが強まりはじめてから。 「タリバーン」は、主にパシュトゥン人から成る、イスラム国家の樹立を目指すグループ。 パキスタン商人が中央アジアに商売に行く際の護衛をつとめるなどの活動を通じて、資金と力をつけていったと見られる。 1995年にタリバーンが南部の都市カンダハールを占領。 1996年10月には首都カブールを占領、暫定政権樹立を宣言。 反対勢力は、アフガン北部の山地に逃れ、「北部連合」と呼ばれる抵抗勢力を形成。 タリバーンの支配とアメリカの侵攻 タリバーンはイスラム原理主義に基づく厳しい統治をしきました。 ケースは、タリバーンは以下の二点において悪名高い、と批判しています。 1) サウジアラビアを追放されたテロリストのビン・ラディンをかくまった。ビン・ラディンはタリバーンから客人として丁重に扱われ、アルカイダのテロリストを養成したとされる。 2) 女性の人権を無視する過酷な政策をとった。 2001年、9.11テロ事件。 同年10月7日、アルカイダの巣窟を撲滅するという目標の下、アメリカ軍がアフガニスタンに侵攻。 空軍を中心とした作戦により、わずか78日でタリバーン勢力を壊滅。 僕のクラスメートの元空軍パイロットもこの作戦に参加していたそうです。 アフガン暫定政府 - 安定化に向けて 2001年12月に、アフガン暫定政府が樹立。 暫定政府は、平和と発展のための三つの戦略を実行: 1) 治安の回復: 国連のInternational Security Assistance Forceによる活動が中心。一定の効果を見せつつも、治安回復というには程遠い状態。 2) 国内インフラの再構築のための資金調達: 数回にわたる世銀の試算では、アフガン経済が離陸するために必要なインフラや教育等への必要投資額は280億ドル。これに対し、諸外国からの援助は2002年から2004年にかけて総計51億ドルにとどまる。 3) 選挙の実施と「正当な」政府の樹立: 3つ目の戦略は、選挙の実施。国際社会は、アフガンがアナーキズムと内乱の時代に戻らないためには、民主的な選挙で正当に選出された政府の存在が不可欠、と考えており、選挙の実施は非常に重視されていた。 2001年12月にドイツのボンでの合意では、次の三つのステップで新政府が設立されることとされた。 最初のステップは、パシュトゥン人のカルザイ氏をリーダーとする暫定行政機構の設立。 次のステップは、選挙による「Transitional Authority」(臨時議会みたいなもんか?)の樹立。 最後のステップが、憲法の起草。 これらのプロセスも、ひーこらひーこら言いながら何とか完了。 (強力なリーダーシップで治安回復と経済回復を目指す大統領制がよいか、いろんな民族の意見を反映しやすい議院内閣制にするのかで、相当もめたらしい。この辺もケースのポイントになりそう) 2003年12月に、憲法が批准され、アフガニスタン・イスラム共和国が樹立される。 憲法に定められた政治体制は、大統領制 + 二院議会制だったから、早速選挙が実施された。 2004年10月の大統領選挙では、カルザイ氏が大統領に当選。 2005年9月には、下院の選挙が実施。投票用紙はロバ、ラクダなどにより地方各地に配送された、みたいなのどかな話も載ってます。 結局、当選者の60割ぐらいが内乱時代に地方に割拠した元将軍だったり、有力な政党が形成されずバラバラ状態だったりと、いろんな懸念はありつつも、何とか選挙は完了。 「元将軍や麻薬の運び屋も議員に当選しているけど、これは個人の集まりじゃなくて、きちんと投票で選ばれたInstitutionであるという事実が大事なのだ。。。」というNGOスタッフの有名なコメントが紹介されています。 麻薬栽培について アフガンは農家にとっては厳しめの気候だそうだが、その中でも元気に育つのがケシの花。 最初にも書きましたが、麻薬の闇栽培による収入がGDPに占める割合はなんと52%! まあ、考えてみりゃケシの栽培はやめられないですな。 まず、もうかる! 1ヘクタールの麦を育てても550ドルしか入らないけど、ケシを1ヘクタール栽培すれば5400ドルが手に入るそうな。 また、ケシをやめろといわれても、代わりになる有力な収入源がない。 ソ連時代には、ドライ・フルーツ(干しぶどうなど)や大理石の輸出が盛んだったらしいが、内乱でこれらの産業が荒れ果て、復活させるには工場や道路の整備などの多額の初期投資が必要。 海外のシンクタンクが、医療で使う麻酔薬向けにアヘンを輸出すればいいじゃん、という提案をしたらしいが、全世界の麻酔薬の需要よりもアフガンのアヘン栽培量の方がはるかにでかい!というのが現状で提案は一蹴。。。 困ったですな。。。 カルザイ大統領の選択 - どうする?俺 もちろん、いいこともあるんですよ。 たとえば、経済は勢いよく成長しています。2005年-2006年の実質成長率は13.8%。 ただ、もともとのGDPの額が少ないから、いくら成長しても、アフガニスタンが必要としている膨大な投資額に比べたら、まさに焼け石に水。 経済もいまひとつ、治安維持は海外勢力頼みでしかもなかなか治安が回復しない、となると、政府の威厳はがた落ち。 そうすると、ますます国内が混乱していく、という悪循環状態。 下手をすれば、政府転覆のリスクも。。。 ケース曰く、"A point could be reached at which the government of Afghanistan becomes irrelevant to its people, and the goal of establishing a democratic, moderate, self-sustaining state could be lost forever..." で、あなたがカルザイ大統領だったら、どうする?というのを金曜日に議論するわけです。 。。。ここまでの状況だと全くノーアイディアです。 ここまで、期待して読んだHBSの予習中のみなさま、すいません。。。(合掌) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 14, 2007 11:32:33 AM
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