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2015.10.24
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カテゴリ:江戸珍臭奇譚 
蓬.jpg

 江戸の表通りにも裏通りにも、犬の糞や馬の糞がいたるところに転がっていて、朝に夕に、商家の丁稚や番太が掃除をしていた。
だが、拾い集めた犬や馬の糞を買い取ってくれていた百姓が来てくれなくてはお手上げであった。
そんな江戸の町の惨状を見て、熊五郎は手下の者に、しょい駕篭を背負わせ、本所深川一帯の犬の糞、馬の糞を拾い集めさせた。糞を拾いながら、「肥とろう」「こやしございませんか」「糞汲みいたしやす、一桶二十文、即金払い」と声を出して歩いた。
「おから村の者が道の糞を掃除してくれるので、そりゃあ、助かるねえ」丁稚や番太は嫌な仕事をしなくてすんだので喜んだ。

 最初に厠の糞汲みをさせてもらったのが、見回り同心の真壁兵四郎が懇意にしていた本所熊井町の宗兵衛長屋であった。
「それでは、裏長屋の厠からやってもらおうか、きれいに頼みますよ」
 大家の宗兵衛に言われて、下掃除人として、この仕事を最初に請け負ったのが『でく』であった。でくが丁寧に掬っていると、紐が柄杓にあたり、そのまま掬い上げると、一文銭が紐に連なった百文はあるだろうか、結構な重さの銭だった。でくは大家の宗兵衛に届けた。
「これは、これは、でくさん、あんたは正直者だね。この銭は多分、金魚売りの茂平のかみさんが落とした銭に違いない、おたよさん、ふんばりすぎて、この銭を落としたって泣いてたからねえ、助かったよ、ありがとうよっ」
 大家の宗兵衛のところには厠で銭を落とした、櫛を落とした、簪を落としたいう訴えがしょっちゅうあったが、今の今まで、肥汲みに来た百姓たちは知らぬ存ぜぬで、みなくすねてしまって届けてくれたことはなかった。でくは大家の宗兵衛に気にいられ、それからずっと宗兵衛長屋の受け持ちとなった。

 流しの糞汲みに厠の汲み取りを頼むのは百姓に一年間の契約をしている長屋では気が咎めたが、糞尿が糞壺に溜まり、今にも溢れそうな長屋やお店、岡場所、お屋敷でもでは背に腹は代えられない、
「こりゃあ、助かった、よろしく頼む」
 糞溜めが溢れそうで、いつになったら、百姓が汲んでくれるのかと心配で、出る者も出ず、便秘状態に陥った者たちも、糞壺が空になれば、出糞制限解除で一斉に糞づまりを解消させて、清々しい表情が戻った。
「はいっ、御免なすって」
 八丈島で散々糞汲みをしてきた熊五郎の手下は手際がいい、たっぷりたまった臭気芬芬(ふんぷん)の厠では、掻き回しながら、息を少しずつ吸う、うっかり深く息を吸い込むと咽てゲロを吐きだしそうになる。肥柄杓をあげながら、ゆっくりと息を吐く。こいつが臭いに負けないだった。

 おから村の下掃除人の仕事は瞬く間に本所深川の町人に受け入れられた。熊五郎は集めた糞尿を肥樽を積んだ土桶船(どおけふね)といわれるお穢船(おわいぶね)で、葛飾近辺の百姓の田畑まで運んだが、亀有村、葛飾村、あたりの百姓はまだ、糞尿代金の係争中であり、おから村のお穢船から、糞を買うことをしなかったので、さらに堀を上り、遠い、寺島村や墨田村の百姓の田畑まで運ばなければならなかった。
 棹を差す手も痺れるほどの距離であったが、百姓とのいざこざは遠山様からきつく禁じられていたので仕方がない。だが、葛飾の百姓たちも、糞尿の肥(こやし)を汲みに本所深川まで行くのは辛く、重労働であり、あまりやりたい仕事ではなかった。
 それに、士農工商という身分があるはずなのに、町民から、「百姓は臭えなあっ」と、差別された目で見られるのも悔しく、先々、息子たちにはやらせたくない仕事であった。

 誰かに、変わってもらえないだろうかというのが本音であり、糞汲みなどより、百姓仕事に精を出したかったのだ。実は葛西の方では、すでに、大百姓が、部切船(へきりふね)といって、船の胴間に肥をそのまま流し込む大型のお穢船を何隻も持っていて、近隣の百姓の肥汲みを一手に引き受けていた。
 したがって、糞一揆というのも、実のところ、百姓の一揆ではなく、こういった大型のお穢船を持つ大百姓が灌水の飢饉を利用して、ごねているという側面もあったのだ。町屋から安く肥を買って、小作人に高く売りつけようとする、悪徳商人の真似をしている節もあった。
 そんな背景もあり、儲けなどははなっから頭になかった、おから村の肥(こやし)に声をかけてくる百姓はだんだん増えてきた。おから村の肥は墨田から葛飾亀有としだいに広がっていったのである。
  
(つづく)

作:朽木一空

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最終更新日  2015.10.24 17:19:31
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