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真理を求めて

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2012.01.26
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「東大話法」と呼ばれるような詭弁的な議論は、これまでも指摘する人は多かったように思う。しかし安冨さんの視点は、それらの今まで語られていたものとは違う斬新な面があるのを感じる。それはどこから来る感じだろうか。

「東大話法」を語る人間は、いわゆるエリートであり、偉そうに振る舞っている人間が多い。頭はいいのだろうが人格的には低劣だと思いたくなるような人間たちだ。感情的な反発を感じる人は多いと思う。そのような偉そうな人間たちが、実はそれほど頭がいいわけではなく、本当のことをよく分からずに、利害という嫌らしいことを基本にして語っているとしたら、なんてひどいやつだと感情的に軽蔑することが出来る。そうするとかなり溜飲を下げることが出来るだろう。

このような言説だったら昔からよくあったし、今でもネットでは多く見かける。だがこのような言説は実際には余りよい効果は生まない。感情的な溜飲を下げるだけで、それで世の中が変わることはない。

この感情的な悪口がもう一歩進むと、彼らの詭弁の論理面の批判というものが出てくる。僕の視点はそのようなものを見ることが多い。これは感情的な溜飲を下げることに比べて、より建設的ではあるけれども、なかなか他者に理解してもらうのが難しい。詭弁というのは感情的に受け入れやすく、それが詭弁であることを理解することがかなり難しい面があるからだ。

安冨さんの「東大話法」の視点は、この論理的指摘を超えてそれが日本社会のシステムの問題であることを指摘して、それに気づかせようとしている。これは僕には斬新な指摘に見えた。宮台真司さんが高く評価する山本七平氏の「空気の論理」に匹敵するもので、山本さんが直感的に捉えたものを理論的に整理して学問として耐えられるものに洗練しているように感じた。

「バブルの時の銀行」「原発事故への対応」「戦時中の軍の暴走」など、それは結果的に失敗であったことでその「東大話法」が詭弁であったことが理解されている。この詭弁が、間違いであるにもかかわらず誰もそれを正せなかったのは、山本さんによれば「空気」の問題であり、安冨さんの指摘では「魂の植民地化」による「東大話法」と言うことになる。

山本さんの「空気」という表現は、感覚的にはわかりやすい。しかしそれは具体的に指摘することが難しく、何となくそう思うが、考察の対象とするのは難しい。つまり学問的に扱うことが難しい対象ではないかと思う。それに対して、安冨さんが指摘する「魂の植民地化」はより具体的ではっきりした対象として捉えることが出来る。そして「東大話法」はそこで使われる言葉を問題にすることで、その考察の対象を明確にすることが出来ている。

第1章の「名をただす」という発想・視点は素晴らしい。「東大話法」は、名前を歪曲することで詭弁を、理屈だけは通るように屁理屈を立てている。「許容量」と「がまん量」は、どちらが実質を表しているかは明らかだが、「許容量」という言葉を使う限りでは、理屈は通ってしまう。その詭弁を見抜くのはかなり難しい。だが名前にこだわれば、「空気」の原因がどこにあるかを、「それは名前にある」という指摘ではっきりさせることが出来て、「空気」を消し去ってしまうことも出来る。素晴らしい視点だと思う。

「東大話法」の視点の素晴らしさは、そこに表現された「名前」を問題にすることで、「東大話法」の詭弁を見抜くことが出来ることだ。何か胡散臭い詭弁の匂いを感じたら、そこに表現された「名前」にこだわってみよう。その「名前」にこそ「東大話法」の神髄が秘められている。

池田信夫さんの言葉についても幾つか指摘されているが、僕は「計算可能なリスク」という言葉に引っかかった。どうも胡散臭い「東大話法」の匂いがする。リスクというのは、計算可能だったら果たしてリスクと呼ぶのだろうか?

90%以上の確率でリスクがあるものを誰がやるだろうか。そんなものはリスクではなくて「危険」だという判断をするのではないか。また10%程度しかリスクがないと計算できれば、それはある程度安全だと判断できるのではないだろうか。問題は50%と言う五分五分のリスクだ。これはリスクとしては分からないとしか言いようがない。分からないと言うことが計算できて、いったいリスクを選択するのに何か役に立つのだろうか?

「計算可能なリスク」という言葉にはほとんど意味がないにもかかわらず、これが「発電所の周辺を除いて人体には影響がないでしょう」という言葉と結びつくと、発電所の周辺でなければリスクが計算されて安全ではないかという詭弁を受け入れやすくなる。実際には、大きな事故が起きれば発電所の周辺でなくても大変な影響が起こることは明らかなのに。

「計算可能なリスク」には意味がないが、「残余のリスク」には意味がある。これはマル激で紹介されていた言葉だが、どんなに危険への対処を取ったとしても、どうしても消せない(ゼロに出来ない)リスクが残るものを「残余のリスク」と言っていた。ある種の危険があった場合に、その選択(たとえば原子力発電をすることを選択すること)をするかどうかは、危険があったとしてもそこから得られる利益が大きいときになる。しかし如何に利益が大きかろうと、それを遙かに上回る危険がリスクとして残るなら、その利益はリスクを取ることの判断には結びつかなくなる。むしろ選択してはいけないという判断になるだろう。

安冨さんの、言葉に注目しろという指摘は、その注目した言葉から論理を発展させていくという展開につながる素晴らしい視点だと思う。安冨さんにしびれるような同調感を感じたのは、きっとこの素晴らしさのせいだ。





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最終更新日  2012.01.27 01:11:08
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