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誰のツイートだか忘れたのだが、「誤解するのは誤解する方が悪い」というようなものがあった。これは論理的な真理(ある前提を認めるとそこから論理的に帰結される)だと思うのだが、説明を要するものではないかと思う。
誤解というのを文字通り辞書的に解釈すると「ある事実について、まちがった理解や解釈をすること。相手の言葉などの意味を取り違えること。思い違い」という意味になる。この意味の範囲(この辞書的意味を前提として)においては、誤解は誤解する方の間違いであるから、誤解する方が悪いと言うことになる。 だが、誤解というのは往々にして誤解する方がそれを誤解だとは理解していないので、単純に誤解する方が悪いという言い方ではすまなくなる。特に難しいのは、その表現をしたときは全く意図していなかった(つまり意識の中にはなかった)ことが、第三者の解釈では違う意味で受け取られてしまったとき、それを誤解だと言って済ますことが難しくなるときがある。 意図していなかったことを読み取られるという「誤解」の場合、表現することが怖くなってしまう人もいるだろう。かつて差別語が糾弾を受けた時代には、公の場で発言すること自体を怖がる人もいた。いつ、自分が意図したことではないことで糾弾されるか分からなかったからだ。 誤解というのは果たして客観的に判定できるものだろうか。言語表現というものは曖昧さを含んでいる。その曖昧さがあるにもかかわらず、誤解であるかどうかが客観的に判定できるだろうか。もし客観的な判断が出来ないなら、誤解が生じたときどのような解決をしたらいいのだろうか。 誤解が間違った理解なら、正しい理解というものがなければ誤解の判定が出来ない。文章において正しい理解というのはどういうものなのか。国語的な文章読解が正しい理解になるのだろうか?文章表現に客観的な正しさが読み取れると言うことがなければ誤解の判定も出来ない。 かつて糾弾の対象になった「差別語」はほとんどが勘違いの誤解だったのではないかと思う。それは、単語だけを取り出して判断しているからだ。言語というのはそれがどのような場面で使われているかという「文脈」が意味において重要さを持っている。社会の中における言語表現は、単語を取り出して、その単語がいつも同じ意味で使われているという前提にはなっていない。そのような前提で使われる言語は数学くらいのものだ。 文脈が読み取れる言語表現は、そこに客観的に正しい意味を読み取れるか?これが出来るなら「誤解」という判定も正しく行える。僕の予想は、文脈の読み取りというのはかなり正確に出来るのではないか、というものだ。だからほとんどの言語表現は正しく意味を読み取る可能性がある。だが特殊なものについては、それが困難であったり、原理的に不可能であったりするものもあるかもしれない。その区別をする方法を見つけたいものだ。 安冨歩さんが語る「東大話法」と呼ばれる言語表現は、意味の読み取りを客観的に行うことが困難な例の一つではないかと思う。だが、これは困難ではあるけれど、文脈を読み取ることが出来れば、その意味は決まるような気もする。それの意味が、形式的に読み取れる意味とはかなり違うものであっても、文脈から判断して意味が確定しそうな気がする。 原理的に不可能かもしれないと思うのは、その言語表現が語っている対象の理解が出来ていないときは、どれほど文脈を理解しようとも、その表現の理解が出来ないのではないかと感じる。認識不可能な対象について語るときは、どんな表現であっても理解が出来ないかもしれない。ヴィットゲンシュタインが指摘した「語り得ぬもの」なのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.02.05 21:06:05
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