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真理を求めて

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2012.02.05
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仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、かつて著書の中にあった「片輪(かたわ)」という言葉が差別語だという抗議を受けたことがある。抗議をしたのは、障害児学校の校長を務めた人だったと思う。

「片輪(かたわ)」という言葉は、相手をののしるときにも使われるので、差別感情を込めて使われる場合もある。だから「差別語」だと感じる人もいるだろう。しかし、それは文脈から決まることだと板倉さんは反論していた。

「片輪」の元々の意味は、片方の車輪というものだった。車輪は普通2つあるのだが、その一方が欠けていると本来の機能を発揮しないと言うことがそこに含まれている意味だ。それは事実を語る言葉であり、言葉そのものに差別的なものはない。差別的な意味を込めるのは、それをどこで使うかという話者の認識の中に差別感というものが入り込んだときだ。

板倉さんがそこに込めた意味は、「本来二つあるものの一方が失われることで、機能的に不完全なものになってしまった」という事実の方だった。文脈上はそのようにしか読めないように板倉さんは表現したという反論をしていた。差別的な意味を読み取るのは「誤解」であると主張したのだった。

これは正確な文章を今持っていないので再現することが出来ないのだが、僕は板倉さんの主張の方を信用した。ここからは一つの教訓も学ぶことが出来る。言葉に対する先入観が「誤解」というものに与える影響の大きさが重要だと言うことだ。「片輪(かたわ)」に敏感に反応する人たちは、この言葉自体に差別感情が込められているという先入観があるのではないか。

誤解をする人にとっては、「片輪という言葉を使う人間には差別感情がある」という前提があるので、差別だと理解するのはある意味では論理的でもある。問題はこの前提が正しいのか、ということだ。板倉さんは、言葉自体には差別的な内容はない、という前提を持っているので、差別感なしにこれを使うという理解をしている。だから差別ではないという主張もでてくるわけだ。

両者は前提とする認識に違いがある。どちらが正しいかを客観的に決めることが出来るだろうか?心の中の問題として言えば、どちらの前提も現実に存在するものであり、存在という点ではどちらも正しさを持っている。それを理解という点でどちらかが間違っていると評価できるだろうか。

これは「片輪」という言葉に関しては、板倉さんの方が正しいとも感じる。しかしもっとデリケートな言葉ではこの判定は難しいだろう。たとえば「キチガイ」という言葉だ。ここには明らかに差別感情が込められているようにも感じる。僕は、文脈上、言葉の見出しとして「キチガイ」というものを提出したので、そこには何の意味も込められていないので、おそらく差別表現にはならない。だが普通の言語表現の中で使われれば、それは差別表現と言われるだろう。

河島英五さんに「てんびんばかり」という歌があるのだが、この歌の一部に「キチガイ」という言葉が使われていた。それは後には「おかしい」と変えて歌われている。今ではネットで検索してもその歌詞は見つからない。元は次のような歌詞だった。

「母親が 赤ん坊を殺しても
 仕方のなかった時代なんて 悲しいね
 母親が 赤ん坊を殺したら
 キチガイ(おかしい)と
 呼ばれる今は 平和なとき」

ここで使われている「キチガイ」という言葉は、明らかに差別意識を含んで使われている。しかしそれは河島さんの中にある差別感情ではない。これは、「赤ん坊を殺した母親」をののしる人々の中にある差別感情が表現されている。文脈上はそのような解釈しか僕には出来ない。

河島さんは、この歌詞で、母親の苦悩を理解せずに、赤ん坊を殺したという表面的な事実だけでののしりの言葉を投げつけて、さらに母親を傷つけている人々の残酷な心を告発しているのだと僕は感じる。自分は安全な場所にいながら、ギリギリのところで傷ついている人を、形式的な倫理観・道徳で裁く人々に、真実を見なければいけないと言っているように聞こえる。

この河島さんの告発のインパクトは「キチガイ」という言葉を使うことによって大きくなっている。それが明らかに差別感情を含んでいる言葉であるが故に告発の深刻さも大きくなっている。芸術として真に優れたものだと僕は思う。

これを「おかしい」という言葉に代えると、その芸術としてのインパクトは急激に弱まる。人々の中にある無意識の差別感情は気づかれないままになってしまう。河島さん自身には差別意識がないにもかかわらず、この歌詞は「差別語」と言うことで差し替えられている。これは、「誤解」が生み出した間違いだと僕は思っている。





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最終更新日  2012.02.05 22:22:34
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