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真理を求めて

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2012.02.05
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誤解の考察の最後に、その評価が難しい問題を考えてみたいと思う。それは、自由報道協会賞授与式での日隅一雄さんの発言を巡るものだ。それは「誤解」という評価をするときにかなりの難しさを持っているものだと感じる。日隅さん自身は、発言について<情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄>というブログで

自由報道協会賞授与式での発言について
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/5de3523badbeec519452cc1553de13d7?fm=rss

というエントリーで語っている。ここでは、冒頭で「私が自由報道協会賞授与式で行なった挨拶について誤解されている方がいるようですので、この場を使って、挨拶の趣旨などについて説明させていただきたいと思います」と書いている。つまり「誤解」を問題にしている。

だがこの「誤解」は、

「まず、私の挨拶でチベットの高僧の高貴な行為が傷つけられたと思われた方に謝罪いたします。私としてはそのような意図はまったくありませんでしたが、そのような受け止めをされる余地のある表現しかできなかったことは、本業も含め表現行為を糧としてきた者として不甲斐ないことです。故意ではないにしても傷つかれた方に謝罪する必要があります。本当に申し訳ありませんでした。」

とも表現されている。つまり間違えた方だけではなく、表現した日隅さん自身にも責任があると語っている。板倉さんは、自分の表現には差別はなく、誤解した方が間違いだと主張したが、日隅さんは誤解を与えるような曖昧な表現をしたことに自分の責任も感じている。表現者と受容者のどちらにも責任がありそうなケースは最も難しいものであり、それを考察してみたい。

問題にされている日隅さんの表現は次のようなものだ。

「これまでに登場されたプレゼンターの方々が有名な方々で、「なんなんだ、こいつは」、ということで、私は昨日、東電の前でチベットの高僧のようにですね、火を、自殺をして私の名前を上げたほうがいいのかなと、悲愴な決意でここに来ているわけなんですが…」

この挨拶を、文脈を考慮しながら解釈してみたい。まず日隅さんの語りたかった真意というのは何かを考えると、

<他の人と比べると自分はあまりにも無名なので何か名前を上げることをした方がいいと思った>

ということだと僕は理解した。この表現であれば、単に事実を語るだけであり何の問題もなかっただろう。しかしいかにもつまらない表現だ。これをもっとセンスのいい表現にするためにレトリックを使いたくなるだろう。そのレトリックが比喩表現だ。それは次のようなつながり方をしているだろう。

<名前を上げる(有名になる)>
    ↓
<自殺のような衝撃的なもので注目される>
    ↓
<広く世界へ訴えるために自殺をしたチベットの高僧がいた>

このレトリックそのものはつながりに合理性があり、表現としては間違いではなく、何か貶めようというような意図は文脈からは伺えない。日隅さんがその後の文章で説明しているように、心の中の意図にも貶めようというようなものは僕には見えない。だから、表現そのものは、「チベットの高僧」という言葉に敏感に反応しなければ深い意味を読み取ることはないのではないか。

しかし、この挨拶とともに、自らを無名だと語るような自虐的ユーモアに笑いが起こったようだ。その笑いを不謹慎だと感じる人がいたのではないかと言うことは考えられる。それについては日隅さんは次のような弁明をしている。

「私が笑いながら話しているのがけしからんという方もいらしゃるかもしれませんが、私が笑っているのは、まさに、ほかの人とは比較にならないくらい知名度がない自分に対する自虐的な笑いです。
この私のユーモアに対し、会場内で笑いが起きました。しかし、チベットの高僧について笑った者は一人もいなかったでしょう。みんなは、私の自虐ネタを理解して笑ったわけです。」

この弁明は、僕には理解できるのだが、単なる言い訳と受け取る人もいるかもしれない。これは文脈だけの問題ではなく、実際の行為の解釈が伴うので難しいところだ。行為は言語表現ほど確定的な理解が出来ないので、誤解という問題ではなく、元々理解する対象そのものが曖昧だと言える。このような誤解を解くのは難しい。

この「誤解」がさらに難しさを生んでいるのは、日隅さんの発言が、他の人を介して広がっているように見えることだ。せめて実際の日隅さんの言葉を直接見て確かめてから評価してくれればいいのだが、バイアスがかかった伝聞で、日隅さんの発言が問題だと思っていると、それはやはり「誤解」ではないかと感じる。

この「誤解」の解決は、最終的には日隅さんのジャーナリストとしての活動を全体的にどう評価するかで判断するしかないのではないかと僕は感じる。たった一つの言葉を捉えて、日隅さんの活動のすべてを否定するような言い方をすれば、それは言い過ぎだ。日隅さんが真に優れたジャーナリストであれば、真意が伝わらなかったという失敗はあっても、日隅さんの発言の真意は違うという「誤解」であることが理解されるのではないかと思う。





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最終更新日  2012.02.05 23:25:43
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