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真理を求めて

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2012.03.29
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岩上安身さんによる安冨歩さんへのインタビューは岩上さんのインタビュアーとしての素晴らしさが見事に出ているものだった。出だしこそ難しい話が語られていたが佳境に入った話では実にわかりやすく面白かった。分かりやすさを引き出したのは岩上さんの力だと思った。

その安冨さんの話で印象に残ったのは、肩書きが重すぎる人間が生の自分の魅力を認めてもらうのは極めて困難だというものだった。東大出の人間が、東大出という肩書きを超える魅力を身につけるのは大変なことであり、評価される事柄の一番に数えられるのが東大出と言うことになる。生の自分が評価されることがない。

生の自分への評価というのは、宮台真司さんが語る尊厳の確立に関係があるように思う。尊厳というのは、自分が自分であることへの誇りを持ち拠り所となるものだ。生の自分が評価できないと尊厳の確立が出来ない。自分に対する自信が基本的なところで持てなくなる。尊厳は、自分だけの思い込みではなく、誰か評価してくれるものがいないと確立できない。尊厳には承認というものが必要だ。そう宮台さんが語っていた。

生の自分というのは、河合隼雄さんのカウンセリング理論でも語られていた。子供の成長においては、丸ごとその存在を認めてくれる人が必要で、そのような存在がいないと子供の成長には何らかの障害が出てくる。子供が尊厳を確立できなくなるからだろう。丸ごと承認してくれる存在は、河合さんによればファンタジーにおいてよく語られるという。祖父母がその存在になることが多い。利害関係を持たず、孫であると言うことだけで愛してくれるものになるからだ。

人間というのは、良い資質を持っていればそれによって高く評価される。生のむき出しの自分が評価されるというのは少ない。しかし成長の過程においては、まだ資質が花開いていないのであるから、子供の時には生の自分のままで評価され愛されることが必要であるというのは頷ける指摘だ。この難しい課題を解決するのが家族の絆というものかもしれない。家族であると言うことが愛することの基本にあるなら、それは他の資質を必要とせず、生の自分を愛し受け入れることを可能にする。

夜間中学のドキュメンタリーを撮影した森康行監督は、夜間中学を訪れるとほっとするという感想を漏らしていた。そこは暖かく迎え入れてくれるところで、日常での様々なストレスがあっても何か癒されるものを感じると語っていた。それは生の自分のままでいても受け入れてくれる場だったからではないかと感じる。夜間中学にはそのような場としての力があった。

夜間中学に来る人たちは肩書きを何も持たず、社会の片隅でひっそりと生きてきた人たちだ。その人たちは自分の感覚に正直に他者を評価する。その基本は、夜間中学にいる人たちはみんないい人だというものだ。だからすべての人を受け入れるという素地を持っている。それが暖かみのある、自分が生のまま受け入れられているという感覚を作る。

夜間中学では普通の教員が、生徒から信頼される教員になる。不登校で他人に対する不信を持っていた人間が、仲間を信じ支えられることによって、自分も他者を支えることが出来る人間へと成長する。いずれも生の自分を受け入れられているという感覚がそのようなものをもたらしていると感じる。

それにしても生の自分を受け入れるというのは難しいものだと思う。それも評価されるような価値を何も持たない人間を受け入れるというのは大変だろうと思う。価値を持たないどころか、マイナスの価値を持っていると思われるような人間を受け入れるのはさらに難しいだろう。

最近購入した昔のアメリカのテレビドラマ「宇宙家族ロビンソン」を見ていると、この難しさを新たな視点で考えることが出来る。ロビンソン一家はいずれも勇敢で誠実で優秀なもの達ばかりだ。尊敬すべき資質を持っており、愛される資質を持っている。家族としてお互いを愛していることはもちろんのこと、その家族にふさわしい人間として自分が振る舞わなければならないという高潔な思いを持っている。

だがそこに登場するドクター・スミスという人物は、これ以上マイナスの資質がないと思われるくらいにひどい資質を持っている。ウソつきで利己的で、他人のことを全く考えずに、自分のことしか考えない人間なのに何の反省もない。これ以上ひどい人間はない。全く愛される資質を持っていない。

ところがロビンソン一家は、このドクター・スミスをありのままに受け入れ、特に末っ子のウィルはドクター・スミスに愛情さえも感じている。そのままでドクター・スミスを受け入れている。この感情はどのような資質から育まれているのだろうか。

この物語は昔のSFなので、登場人物は科学の先端を行くもの達だが、彼らの生活はキリスト教の習慣に満ちているようにも見える。祈りの場面がしばしば入る。神への信仰というものがこの他者の受け入れの基礎にあるのかもしれない。

生の自分を受け入れるというのは、理屈では出来ないようにも感じる。家族への思いは、たとえば自分の子供を愛する気持ちというのは、単にそれが自分の子供だからと言うこと以外の理由は見つからない。たまたま自分の子供であるだけなのだが、それは他の誰よりも愛おしく感じる。もし家族でないものも、そのように生のまま受け入れるとすると、その基本に宗教的な信念がなければ出来ないかもしれない。

夜間中学にもいろいろな生徒がやってくる。中には理屈においてはとても愛することが出来ないような人もいるかもしれない。しかし、一度夜間中学に来たという関係を持ったから、生徒として敬愛するという基礎があれば接し方が違ってくる。だが、その反対に、夜間中学にふさわしい生徒像というものを持っている教員は、その生徒像に合わない生徒がやってくると、その資質において生徒として敬愛することが出来なくなる。このあたりに、生の自分を受け入れることの秘密が隠されているかもしれない。





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最終更新日  2012.03.29 10:55:36
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