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真理を求めて

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2012.04.08
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安冨さんが第2章で語るのは友だちについてだ。それは1章で語った自立としての依存を実現するための友だちのことを語っている。自立のための依存には本当の友だちが必要だ。本当の友だちとはどういうものだろうか?それは偽物と比べることによって明らかにされる。

誰とでも友だちになると言うことの批判を安冨さんは語っている。誰とでも友だちになろうとすると、本物の友だちは逃げてしまい、偽物の友だちが自分を支配してこようとするのを防げないからだ。そう、偽物の友だちは、自分を支えて、助けが必要なときに支えてくれるような依存をさせてくれる友だちではないのだ。それは、自分の中から利用可能な資質を奪い取っていく、利益のために他者を利用しようとする人間だ。そのような人間を友だちだとは思ってはいけない。

誰とでも友だちになると言うのは、「みんな仲良しの教育」として宮台真司さんも批判的に語っていた。それは人殺しに通じる教育だと。これには共感しつつも、理屈ではよく分からないところがあった。どのような論理的なつながりで、「みんな仲良し」が「人殺し」につながっていくのだろうかと。

安冨さんの論理展開は、そこの所をすっきりと解決してくれた。誰とでも友だちになるという「みんな仲良しの教育」は、ハラスメントを仕掛けて支配してこようとする者とも友だちになることを勧める。そうするとそこにハラスメントの連鎖が起こり、それが「人殺し」につながってくるのだ。

安冨さんは、本当の友だちは、お互いを尊重して、お互いの本当の姿をそのまま認めてそこに美点を見出そうと努力すると指摘する。決して自分の都合のいい像を相手に押しつけて、相手が自分の思うように振る舞うことを要求したりしないという。

像を押しつける人間は、それがその人間の利益であるにもかかわらず、それを押しつける相手が自分の利益と考えるように仕向ける。そのような働きかけを安冨さんはハラスメントと呼んでいるのだが、偽物の友だちの間にはハラスメントが蔓延している。

偽物の友だちに支配されると自分自身を出すことが出来なくなり、主体性を失う。倒錯した感覚を持たなければ、その状態に耐えることが出来なくなる。そのため、人の不幸が自分の幸せのように思えたり、ハラスメントの犠牲者を作ることによって自分のハラスメント被害を埋めようとしたりする。これは精神的に人間を殺すことになり、直接の「人殺し」につながってくる。

安冨さんは、本物の友だちを友だちと呼ぶべきだと主張しているように見える。以前に読んだ橋下徹大阪市長の『どうして君は友だちがいないのか (14歳の世渡り術) 』という本では、本当の友達を作るのは無理だから、ちょっと親しい人間を友だちだと思えばいい、という主張が書かれていた。この本では、友だちがいないことに悩む必要はない、友だちなんてその程度のもので、時間がたって離れていれば忘れてしまう存在に過ぎないと言うことが語られていた。

宮台真司さんは、今の若者が言う親友というのが、我々のような高齢の世代にとってのいわゆる友だちで、親友と呼べるような友だち関係が今の若者には持てていないということを指摘していた。親友というのは、宮台さんによれば、心の奥底を話せる相手であり、絶対の信頼を置ける友だちのことだ。いわゆる友だちは、近くにいたという場の偶然性から親しくなった相手に過ぎない。

今の若者の心理には、相手からどう思われるかと言うことを心配するあまり、相手との関係性を保つために相手に配慮するという傾向があるらしい。その関係性を保ちたい相手を、今の若者は親友と呼ぶようだ。それは信頼を基礎にして、何でも話せるという間柄にいるのではなく、単に関係性を保ちたいために相手にいろいろな配慮と譲歩をする存在のようだ。これは確かに我々が考える親友ではない。

この友だち概念の違いは、安冨さんが語る「本当の友だち」を理解する上では大切だと思う。僕は、以前は宮台さんの分析に共感し、親友という概念が重要だと思っていた。しかし今では安冨さんが語る友だち概念の方に惹かれるものを感じる。親友と単なる友だちを区別してしまうと弊害が現れるような気がする。安冨さんが語る「破壊的構え」、つまり自分を支配し利用しようとする人間とも適当に付き合うような関係を持つ結果になりそうな気がする。

安冨さんは、友だちを創造的な構えを持つ人間と規定し、そうでない破壊的構えを持つ人間とは友だちにならず避けるようにしなければならないと語っている。創造的構えの人間は、互いの本質を理解し合い、互いを尊重し尊敬し合う関係になれる。しかし破壊的構えの人間は、相手を利用しようとしているのであり、自分の本当の価値を見失うように仕向けられる。このような相手とは友だちになってはいけないのだ。

誰とでも仲良くするわけではないが、嫌な相手とも適当に付き合うというのが、橋下さんや宮台さんの語っていた友だち概念のように感じる。橋下さんは、親友などほとんどいないと語り、宮台さんは親友を求めはするが、適当に付き合う人間もいると捉えているようだ。両者の考えの中には、そうしないと付き合う相手がいなくなり孤立するという考えが含まれているのではないか。

親友はなかなか見つからない。だが、これを創造的構えを持つ人間として、安冨さんが語るような友だちと考えると、自分が創造的構えを持つことによって、そのような相手が現れたときにそれを感じ取るセンスを身につけることに努力すると発想すればあまり孤立感を感じなくてすむ。自分が創造的構えを持つことが出来るなら、いつかはそういう相手と出会えると思えるからだ。自分に出来ることなら、それが出来る人間はたくさんいるに違いないと思える。

嫌な相手とは、適当に付き合ってもいけない。むしろ自分が創造的構えを持つように努力すべきだ。自分の感覚に正直になり、好きか嫌いかを自覚して決断をする。創造的構えを持つことが出来れば、破壊的構えの人間は自然に去っていく。残るのは創造的構えの人間だけだ。それが<本当の友だち>になると言うのが安冨さんが語る本質ではないだろうか。

本当の友だちというイメージで思い出すのは、重松清さんの小説『きみの友だち』だ。主人公の少女は、交通事故に遭って多くの「友だち」を失う。だがその大部分は、表面的に付き合っているだけの友だちだった。お互いが、相手の受け入れやすい自分の像を作って、友だちの前で演じるという形での「友だち」だった。

しかし多くの「友だち」を失うことで、少女は自分自身を素直に出すようになった。もう相手の感じ方を気にすることがなくなったからだ。どうせもう友だちはいないのだし。自分を素直に表現するようになって孤立するようになった少女に、そのままの姿を受け入れてくれる創造的構えの友だちが現れる。これは小説だから、と思う人もいるかもしれないが、構えが違ったために今まで気づかなかった友だちに気づいたと言うことでもある。これは小説が真理を捉えていると僕は感じた。

新しい友だちも、どちらかと言えば孤立している少女で、多くの子供たちに受け入れられているとは言い難い存在だった。しかしこれはある意味では当たり前で、破壊的構えの人間が多い中では、創造的構えの人間は孤立せざるを得ない。だが、創造的構えを自分で見つけた人間は、今まで見えなかった他の創造的構えの人間が見えてくる。それをこの重松清さんの小説は感じさせてくれる。

「親友」という存在は、どちらかというと感情的な思いが強く出るもので、直感しないとそういうものがつかめない。だが、安冨さんが語る「創造的構え」という概念は、この直感を理論として提出してくれている。直感に確信を与えてくれる理論だ。「創造的構え」こそが親友へとつながる道だ。これの実現を目指して日々努力することにしよう。





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最終更新日  2012.04.08 21:38:05
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