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真理を求めて

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2012.04.22
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第3章では安冨さんは愛について語っている。この章では、安冨さんの言葉の定義の巧みさに最も印象づけられた。安冨さんは、「名を正す」と言うことで、言葉を正しく使うことが真実への道であることを語ってもいるが、それをこの省では見事に実践している。愛という言葉の本当の意味を語ることで、愛という言葉の名を正している。

安冨さんは、愛を「自愛」と定義づけている。これとよく似たものに「自己愛」というものがある。両者の違いは、「執着」という言葉で語られる。「自己愛」は「執着」から発する。「自愛」には「執着」はない。むしろ執着を否定することによって自愛を獲得する。執着するのは、それが自分に足りないのを悪と感じて認められないからだ。自分をありのままに認めることが出来れば、執着を離れ、自分を本当に愛することが出来る。自分を大事にすることが出来る。

この自己愛とともに提出される概念が「自己嫌悪」だが、この定義に僕は最も深い共感を覚え、この定義なら「自己嫌悪」を脱することが出来ると思った。それは次のようなものだ。

「自己嫌悪とは、自分自身を自分自身としてそのまま受け入れることが出来ない状態です。そして、自分のあるべき姿を思い描き、自分がそれとズレていることに嫌悪感や罪悪感を抱くのです。
 これはその人が勝手にやっていることではありません。自分とは異なる像を自分の像として、誰かに押しつけられていることから生じます。その上、押しつけられているという事実を自ら隠蔽するのです。こうやって押しつけられた像があるべき姿となり、それとズレた自分の姿を嫌うのが自己嫌悪です。」

僕は、自己嫌悪というものを青春期にかかるはしかのようなものだと思っていた。青年は誰でも理想像を持っているので、その理想像に対して現実の自分がとても追いつかないからそこに嫌悪を感じて誰でも自己嫌悪に陥るのだと思っていた。だから、成長し現実を正しくとらえ、大人になることで自己嫌悪から脱するのだと思っていた。

だが端から見ていると、どうしてもひどい性格の持ち主で、それを自分で自覚したら自己嫌悪に陥らずにはいられないような人がいるのにも気づいた。多くの場合、驚くことに、そのような人は自己嫌悪に陥るどころか、わがままのし放題で自分のひどさに対する自覚が全くない。

自己嫌悪に陥る人は、むしろ誠実で真面目な人が多く、そんなに自分の評価を低く見なくてもいいのにと思えるような人が多かった。自己嫌悪というのは理不尽なもので、このようなものを通過しなければならないというのは全く困ったものだと思っていた。

しかし、安冨さんの「自己嫌悪」の定義を見て、すべてが合理的に理解できた。世界の姿が、霧が晴れて明確に見えたという感じがした。自己嫌悪とは、理想像があって、それに比べて自分の姿を嫌悪するのではなく、誰かに洗脳的に押しつけられた像に対して自己を評価するのだ。だから、その像の通りに自分を作ってしまった者は、その像がとんでもなく醜いものであっても自己嫌悪を抱かなくてもすむのだ。

自己嫌悪に苦しんでいる人の方がむしろ誠実に見えるのは、その押しつけられた像の方が狂っているからだ。狂っている像と自分を重ねることが出来ないので自己嫌悪に苦しむのだ。そして、自己嫌悪に苦しまずに、狂った像と自分を重ねることに成功した人間が、むしろ現実社会で成功を勝ち取る。嫌なやつほど主流派にいるという現実の姿が妙に納得出来たりしてしまう。

狂った像を押しつける行為を安冨さんは「ハラスメント」という概念でも語っている。これも教育を考える上で大変役に立つ概念だ。すべての元凶は狂った象にあるのだが、これをあるべき姿だと勘違いすると、それに重ならない自分の本当の感覚の方が正しいのに、本当の感覚の方が苦しみを与えるようになる。そうすると、自分であり続けようとすると「不安」が大きくなっていくようになる。

この不安を埋め合わせるために執着が始まり、「自己愛」に包まれた人間になっていく。わがままで自己中心的で嫌なやつになっていくわけだ。これが「ハラスメント」という、他人の美点を切り取って自分のものにしようとする行為にもつながってくる。実に論理的にすっきりした展開だ。すべてのつながりが合理的に理解できる。気分がすっきりし、自分が自己嫌悪から解放されていくのを感じる。これが学習の喜びだ。

多くの人は、執着することが他者を愛していることと勘違いをしている。他者のことを思っているから執着していると感じるわけだ。恋い焦がれることが愛情だと思っている。それに対する次の安冨さんの指摘は全くその通りだと思う。

「執着から生じる異性に対する欲情の表現は、ストーカー行為かセクシャル・ハラスメントであって、それは愛情とはなんの関係もありません。ところが、往々にして、執着している本人ばかりか、その執着を向けられる人まで、あるいは周囲の人々までもが、それを愛情と誤認するのです。その執着の度が過ぎていたり、状況があまりにも不適切である場合にのみ、ストーカー行為やセクシャル・ハラスメントと見なされます。
 しかし、ストーカー行為と愛情とは、全く相容れない、正反対のものです。執着に基づくものは、どんなに低レベルであっても、不埒で悪質で破壊的なものであって、ストーカー行為と同じことです。執着するということは、相手の持っている美点を狙うということですから、その人の人格全体には無関心です。」

自己嫌悪というのは、その元凶になるのは押しつけられた狂った像であるが、それは本人には自覚できていない。無意識の底に押し込んで「抑圧」しなければ生きていけない。だから自己嫌悪から脱するのは困難がある。この困難を克服するには、無意識の抵抗があろうとも、自分自身の生の声に耳を傾け、自分の感覚に素直になることだ。そう安冨さんは語っている。

この「抑圧」の説明は、僕は内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』で明快に理解することが出来た。そこで内田さんは、狂言の「ぶす」において、頭のいい太郎冠者が、無断で砂糖をなめてしまったことを隠蔽することが出来たのに、太郎冠者自身がずるがしこいウソつきだとみんなに思われているという認識だけが欠けていた、ということから「抑圧」という言葉を説明していた。

そのことを認めてしまうと、自分の存在を否定するに等しい事実であれば、無意識のうちにそれをないことにしてしまうと言う「抑圧」の心が働く。押しつけられた狂った像もそのような「抑圧」のメカニズムが働いている。そして、狂っているものこそが正しいと倒錯して理解していると、実にひどい性格の持ち主として成長してしまう。頭がいいのに、その理解だけは出来ないという不思議な存在になる。

この「抑圧」に逆らって自分の本当の感覚に従うのはとても難しい。だが、狂った像をそのまま認めるのではなく、「自己嫌悪」というきっかけでその像の狂いに気づくことが出来れば、この「抑圧」を抜け出る可能性も出てくる。「自己嫌悪」を自覚的に捉えることで、本当の感覚を大事にする道が開けるかもしれない。

最近読了した『検事失格』の著者の市川寛さんは、実はこの「自己嫌悪」から抜け出る過程で、自分の感覚を取り戻したのではないかと感じる。安冨さんの理論が正しいことを、市川さんの生き方が証明しているように僕には感じた。





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最終更新日  2012.04.22 23:34:49
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