サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)
ラストにBack numberを追加しました。サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)巡礼今年は時間がとれずなかなか進んでいなくて・・と言うより時間をかけすぎてしまい遅延気味です。急いで手を抜くのも何なので・・ごめんなさい (*´人`*)サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)カスティーリャ・イ・レオン州、レオン県オスピタル・デ・オルビゴオルビゴ川(Rio Orbigo)巡礼路の盛衰オルビゴ橋の馬上槍試合の逸話巡礼宿今回は巡礼街道で最も有名な橋の紹介です。オルビゴの村からレオンから35kmほどの地点、アストルガの少し手前にあるオスピタル・デ・オルビゴはサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の中でも主要宿場として中世賑わった場所です。以前も紹介しましたがサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼証明書は徒歩or騎馬で100km以上、自転車で200km以上を満たす事が最低条件です。本来巡礼は心のものですから、巡礼証明書など無意味ではありますが、形に残る記念として、宿場の教会毎のスタンプや証明書は嬉しい証になります。最低100kmを徒歩で行くとポルトマリンの聖ニコラウス教会あたりだそうですが、レオンからちょうど300kmなのでブルゴスやレオンあたりから歩いてこの橋を渡って行く人も多いようです。記念撮影している巡礼者巡礼者の必需品、リックと寝袋を背負い杖を持っているので解りやすいです。振り返って撮影。写真に見えるのがオルビゴの村巡礼路は地元の生活道にもなっている。オルビゴ川(Rio Orbigo)この時は水量は少ないようでしたが、案外流れが速い川なのだそうです。この川は鱒釣りでも有名な川だそうですよ因みにフライフィッシングのマテリアルで欠かせないスペイン産の羽毛「コック・デ・レオン」はこのレオン地方の特別な鶏の羽毛なのだそうです。オルビゴ川(Rio Orbigo)とオルビコ橋オルビゴ川(Rio Orbigo)にかかるオルビコ橋は、現在は増改築されていますが、最初に建設されたのは古代ローマ時代なのだそうです。橋桁は全長250m。8つの橋脚と19のアーチを持つ長さです。しかし今は全てが川の上・・と言うわけではありません。おそらく治水工事が進んで現在は川幅が狭くなったのでしょう。巡礼路の盛衰古来ケルト人の定住地だったアストルガ(現在のレオン県)は紀元14年にはローマの都市となり、当時北西スペインの重要都市だったそうです。アストルガの地名自体が、アウグストゥス帝の名から由来しているそうで、このあたりはローマ浴場の跡も残っているそうです。アストルガはスペインで最初に設置された司教座も置かれた程の大都市でしたが、イベリア半島がイスラーム勢力(ウマイヤ朝)に征服され、西ゴート王国(415年~711年)が滅亡した頃から政治的に除外された土地になり、このあたりも衰退。この地が表に出るのはレコンキスタ後の12世紀、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の民族移動が始ってからだそうです。しかし、中世期に欧州で度々起きたペストの発生、や戦争などで衰退し巡礼路も荒廃。現在に至るのは20世紀に巡礼路の復活に向けた活動があったからなのだそうです。因みにスペインでは大航海時代の最盛期1596年から3年間、フェリペ2世(1527年~1598年)の治世下でペストが蔓延。度重なる戦争も主にフェリペ2世の治世下で起きているのです。巡礼者の数が最盛期は50万人と言いますから、このあたりもかなりの人が流れ込み賑わったようです。来た方を振り返って橋を撮影。現在は川は橋の一部下に流れていますが、河川敷が広くとられて反対には家があるのでこの当たりはもはや川ではないようです。上の写真、河川敷はイベント場になっています。オルビゴ橋の馬上槍試合の逸話1434年レオンの騎士ドン・スエロ・デ・キニョーネスが恋人の為に騎士の名誉を賭け「この橋を通る騎士から300本の槍を奪う」と言う願かけをして結婚を申し込んだそうです。逸話ではそれを聞きつけた勇者が欧州各地から戦いを挑み試合は30日続いた・・と伝えられ、彼は見事成し遂げて結婚できた・・と伝えられています。それ故にこの橋はパソ・オノロッソ(名誉の歩み)橋とも呼ばれるようです。さて、馬上槍試合ですが、一日10本計算で10人と戦った? と思いきや実際は競技形式できちんとルールがあり橋を通過する者全員が戦ったわけでもなく、槍数も166本と少なかったようです。しかも、1対1ではなく従者も数人いての戦いだったようで、完全に国王を前にした余興的な意味合いがあったのではないかと思います。確認はしていませんが、橋のたもとにその逸話の看板があるそうです。そして、この出来事を記念して現在オルビゴの祭りとして仮装行列や槍試合など中世さながら華やかに行われていると言います。巡礼宿11世紀にはアルフォンソ6世やフランスのクリュニュー修道会などが巡礼路に教会や救護院などを設立。巡礼者が巡礼しやすいようフォローされていったそうです。いろいろ探して文献は見当たりませんでしたが、オスピタル・デ・オルビゴの「オスピタル」には病院とか救護院の意味合いがあり、このオルビゴが巡礼者の保護施設の役割を持った宿場であった事が推察されます。巡礼の今、ですが、サンティアゴ巡礼路にあたる所は、市役所、町役場、教区教会、巡礼の団体などが巡礼者をフォローするべく簡易宿泊所や相談所を用意しているのです。「アルベルゲ(albergue)」と呼ばれる巡礼宿はクレデンシャル(巡礼の手帳)をもっている事が条件で無料で宿泊出来たり、わずかな寄付金を払う形で宿泊できるようです。もっとも宿泊と言っても基本、寝袋持参で食事も付いていないそうで雨風をしのげる屋根と水がある程度、と期待をしてはいけないそうです。巡礼者でない人はオスタルやペンションなどホテルより格下の安宿もあります。この橋の向こうにもホテルの看板などが見えていました。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 つづくリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)Back numberリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン) サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)