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2006年 5月 高野山 奥の院
『郭公の杜 やはらかく 手を合わす』 奥の院納経所脇の御供所からちょうど出て来たのは… 生身供を行う行法師様方 空海はいまだ深い禅定の中におられ、我々を導き救済している…という。 そのご宝前には毎日朝昼、料理を調え供えられております。 大師入定信仰を端的に表すのがこの生身供。 早朝、まだ辺りの暗い中、唐櫃を運ぶ姿を写したものを本で拝見し… 見たいなぁ~ とは思いましたが…早朝にそれを見る為に奥の院に行くってのも難しいなぁ~ と、あっさりと諦めておりました 昼もあるんだ うれしくなって思わずついていっちゃいました(#^.^#) まず、あじみ地蔵にお参りし、料理の出来不出来をお地蔵様に確かめてもらっております。 それから御廟橋を渡りお大師様の御宝前へ…。 御廟橋…素晴らしい浄域です。 奥の院全体も勿論文句なく凄い場所ですが、その中でも御廟橋は……… この橋と川のことはあとにします~ で…生身供のお坊様方を拝見してびっくりしたのは… そのオーラに限界がないこと 無限に広がっているというよりは… 完全にこの世界と一つになっているが故に、大きさも境界もなく、 この世界に生かされ、この世界と支え合い、行動する、 無私の器としてそこに存在しているように感じました。 凄い (☆_☆) 自らを誇示することもなく、 かといって卑屈になるのでもなく… 参拝にいらした多くの方(この日はまた白装束の巡礼団も沢山いらしておりました)を一般人だからと蔑む意識は微塵も感じられず、 聖俗の分け隔てを作らず、 等しく溶けあいながら、自らの奉仕の道に専念する…。 黙って…ただひたすらに…誇りを持って…我が道を…。 カ・カッコイイ~ いやそうじゃなくてだな…f^_^; さすがです高野山 素晴らしい~ で…高い境地に到達した者ほど他を敬い、小さなことであれ大きなことであれ、人々や仏様に奉仕させていただけることを有り難い光栄なこととして受け止めている姿を高野山各所で拝見いたしました。 m(__)m 人々を、癒し、祓い、導く者はこの世にごまんといらっしゃいますが… 私はそのすべてを避けているのではなく…(98%は避けているかな?) 腰の低い、その根底に慈の想いのみを感じる存在は、信頼し、心から敬い、受け入れます。 (自己顕示欲や我の強さや卑屈さをちらっとでも感じるともう駄目でパチッと壁を作っちゃいますがf^_^;このへんに自分の狭量さを感じるなぁ~う~ん) というか…心からの尊敬の気持ちが自然と湧いて、気が付けば相手に対して頭を垂れていたのは、高野山のお坊様が初めてでございます。 心から神仏を敬う個体には自然と崇敬の念が湧くのだなぁ~と思いました。 (#^.^#) ちょっと話はずれますが… この時、いくつかの誓願を胸に高野山に上っておりました。 それを写経の最後に記し、奥の院の御廟前にお納めして来たのですが… その誓願の一つが、 《普く衆生を敬う》 でして、 奇しくも、その御手本を奥の院にて早見せていただくことができました そんなこんなでこの生身供の一行に行き会えたのは個人的に、かな~り感激でありました。 (☆_☆) 奥の院堂内は厳かな空間です。 無事、写経をお納めし、お料理を捧げている様子を少し眺めてから裏の御廟にまわりました。 参拝し、しばらく御廟の前に座ってのんびり過ごしました。 次から次へと人々が押し寄せております。 四国巡礼を終えて満願の御礼に来た巡礼団がいく組も参拝してゆきました。 その方たちの上げる読経に後ろでひそかに参加 f^_^; 巡礼団を率いている先達のお坊様やガイドの方たちが厳しく嗜めておりました。 「御廟ですから静かに音を立ててはなりません」 チャリーン…というお賽銭の音も控えるようにすべし だそうです。 しずかにお賽銭をあげ、読経の声も皆さん割とひそやかなトーンで、でも心をこめてあげていらっしゃいました。 2006年 5月 高野山 奥の院 『巡礼の 南無に唱和す 時鳥』 御廟前にいる…のですが、 ここが特別な場所だという感覚があまりしませんでした。 御廟が…というよりは、奥の院全体が弘法大師空海が聖別し、その心をこの世顕した場のように感じました。 コアが素晴らしいからその周りに素晴らしいものが集まるのではなく、 最初から全部等しく素晴らしいんだな… そんなことを考えて御廟前を後にしました。 ぐるりと周り…戻ってみると、 生身供の行法師様方が唐櫃を担いで御供所へ戻られるところでした。 m(__)m こうもうまく、行きも帰りも…狙った訳でもないのに…行きあたるとなると、 これはお大師様に導かれているなぁ~と、いやがおうにも思われます。 ありがたさについ…(ノ_・。) 帰りも、少し離れてついてゆきました(#^.^#) (お大師様のお食事タイムにご一緒させていただいたのですなぁ…) 御廟橋の上で少し…この玉川の持つすさまじい浄化のパワーを浴びてみました。 沢山の参拝者が橋の前で一礼し、真摯なおももちで橋を渡っています。 この川の水は水銀が入っている為、飲めない…とまことしやかに云われていたそうですが…違うはず この川の気は…水でありながら水でなく、清らかさの中にあたたかさも内包し、闇と光がバランスよく同居しているような…独特の空間でした。 弥勒というよりは大日如来。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.14 11:57:59
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