スカンジナヴィア組曲論-10
【作曲者と楽曲について】スカンジナヴィア組曲の作曲者であるフレデリクセン(Emil Juel-Frederiksen)については、本曲を紹介した中野二郎氏によれば詳細は不明とのことであった。しかし、現代はインターネット時代である。検索をかければ、ある程度のことはわかるのではないかと考え、いろいろと探してみたが、フレデリクソンの名前は、本曲関連以外では日本語のホームページには全くヒットしない。今でも日本では、全く無名の作曲家であることがわかる。それどころか、英語のホームページにもほとんど登場しないので、名前がヒットするドイツ語か北欧の言語による複数のホームページを辛抱強く調べてみることにした。その結果、次のことがわかってきた。・フレデリクソンはデンマークの作曲家である。・1873生まれ、1950年没。・スカンジナヴィア組曲の作品番号は77番で、他にも色々な作品を残している。ドイツやデンマークのサイトでは楽譜の販売もされている。・本曲はもともと1912年に作曲された管弦楽で、ドイツ人のエルドレンによってマンドリン合奏曲に編曲されたと思われる。なお、編曲者のエルドレン(Hermann Erdlen)も日本では無名のようだ。検索をかけても、スカンジナヴィア組曲関連の他は、全く日本語のHPに登場しない。だが、ドイツ語のHPではその名前を見ることができる。それによると、オーケストラ曲や合唱曲、アコーディオン音楽など手広く編曲や作曲を手がけているようである。さて、本論の最後が近付いてきた。作曲者フレデリクソンがデンマーク人であること、作曲された年が1912年であることを前提にして、本曲の背景について考えてみたい。スカンジナヴィア諸国の1912年の状況は下記のとおり。・第一次世界大戦勃発(1914年)の直前である。・ノルウエーはスウェーデンから独立したばかり(1905)。かつて支配したことがあるデンマークが独立を支援した。・フィンランドはロシア帝国の一部(1917年に独立)。有名なフィンランディアは1899年の作曲である。デンマーク人にとって、ノルウエーは兄弟国という親しみがあったのではないだろうか。ノルウエーの立場に立って歴史をおさらいすると、下記のようになる。・ノルウェーには約12,000年前には人が住んでいたらしい。おそらくドイツ北部からやって来て、海岸線に沿ってさらに北上したと考えられている。デンマークと同郷の民族であると考えられる。・9世紀からのヴァイキング時代に繁栄したが、黒死病の大流行などでノルウェー王家が1387年に途絶えデンマーク配下となり、1450年に従属化、1536年には正式に独立を失った。従属ではあったが、帝国主義の前の時代で、殖民と搾取といったシビアな関係ではなく、ゆるやかな連携というイメージではないだろうか。・1814年、ナポレオン戦争の玉突きで、ノルウエーはデンマークからスウェーデンに引き渡された。ノルウェー人はこの時独立を願ったが、列強の反対により実現できず、スウェーデンとの同君連合が開始された。時代的に、スウェーデンの国家主義に翻弄されていたと思われる。・20世紀初頭、独立運動が高まり、1905年にノルウェー側からデンマークに打診があった。その後国民投票により君主国家を設立し、議会は満場一致でデンマーク王家の分家として迎えたノルウェー王を選出、即位した。スウェーデン政府はこの決定に反発し、一時騒然となったが、結局ノルウェーの独立が認められた。これらのことから、デンマークとノルウエーの絆は相当に強いと類推できる。また、本曲の各楽章を見てみると、・そもそも、第1楽章の副題が「ノルウエー牧歌」である。・第2楽章の田舎の踊りは農村が舞台だが、半島を考えてみた場合、スウェーデンには湖沼が多く肥沃な地は少ない。中部から北部は農業には適さず酪農が主業となっている。農業と言えば、温暖なノルウエーの方である。・第3楽章で取り上げられたヴァイキングは、ノルウエーが一番隆盛を誇った。・最終曲のトロールは、ノルウェーの物語に特に多く登場すると言われている。今でもノルウエーではその存在を信じている人が多い。結論を急ごう。本曲で歌われたスカンジナヴィアは、フレデリクソンにすれば「ノルウエー」が想像の対象であると思われる。フィンランドはスカンジナヴィアの概念には入らないことは、前に述べた。スウェーデンは、デンマークから見ればライバル国で、果たして特別の郷愁を感じる対象になるだろうか。このスカンジナヴィア組曲は、デンマーク人であるフレデリクソンが、時代の波に翻弄されたスカンジナヴィア半島、とりわけノルウエーのすばらしい自然と、数奇な歴史と、そこに住む人たちへの情愛と哀切の思いがこめられている、と私は考える。