カテゴリ:ヒストリー
「信長が死んだ。」 ↑本能寺跡(京都市中京区) 1582年(天正十年)6月21日、毛利攻めに向かう途中の織田信長(おだのぶなが)は家臣の明智日向守光秀に京都の宿所としていた日蓮宗の寺、本能寺で討たれた。享年49。 世に言う、「本能寺の変」である。 この男の死は、日本史上五本の指に入る大きな出来事であったと思う。信長は戦国時代を破壊し、奇抜な発想と軍団を用いて、天下を統一した英雄であった。もはや、この男の敵と呼べるものは中国地方の毛利輝元くらいであった。 明智光秀が織田信長を討ったとき、織田の重臣は地方で戦っていた。最も近くに居たのは、四国攻めをしようとしていた、丹羽長秀や堺見物をしていた、同盟者徳川家康であった。また遠方にあっては関東における滝川一益、越中魚津では、柴田勝家らが上杉景勝軍と死にもの狂いで戦っていた。そして羽柴秀吉は信長の到着を備中高松で待っていた。 秀吉は当時、毛利領の高松を水攻め攻略していた。しかし、そこは難攻不落の備中高松城。城主は名将と言われる、清水宗治(しみずむねはる)である。水攻めという奇抜であり古今東西稀なる戦法は秀吉の参謀、黒田如水の発案であろう。 ここで、秀吉は間者を捕らえる。明智方から毛利方に向けられた間者であった。ここで、信長の死を知る。急いで、清水宗治一人の自刃を条件に毛利輝元と講和を結び、姫路に帰った。世に言う「中国大返し」である。居城、姫路に帰った秀吉は光秀を討つことを誓い、二度と姫路に戻らないことを誓った。 ↑姫路城下(現・兵庫県姫路市) 結果として、一番遠くで戦闘状態にあった、秀吉が謀反人、明智光秀を討ったことになる。その後、織田方最大の宿老、柴田勝家を北庄に破り、信長の後継者の地位を確立する。その後の秀吉は苦労しながらもとんとん拍子に天下取りを進めた。 そして、関白に就任したのである。藤原氏以外の人間(しかも尾張国中村の百姓のせがれ)が関白になったことは、勿論日本史上初のことである。 この後、秀吉は天下に惣無事令を発令する。この法令は強制的な戦闘の停止命令である。 逆らえば、朝廷に叛いたもの、すなわち朝敵とされ征伐の対象になるのである。 このとき秀吉は、徳川家康、毛利輝元、長宗我部元親、島津義久、上杉景勝といった名だたる戦国武将を平定して、日本の半分以上を平定していた。 この惣無事令に従わず、上洛に応じないのは小田原の北条氏政と、奥羽の伊達政宗くらいであった。秀吉は信濃の真田昌幸配下の鈴木主水が北条家臣、猪股邦憲に討たれたことをきっかけに小田原の北条氏に向けて軍勢を派遣する。 世に言う、小田原征伐である。その数、三十万。 と、同時に奥羽(東北地方)の諸将にも、小田原参陣を促した。 ↑小田原城跡(現・神奈川県小田原市) この当時、奥羽は戦乱に明け暮れていた。南奥羽では伊達政宗が秀吉の停戦を無視し続け、相馬、芦名に出兵。佐竹、結城といった関東の諸将まで敵に回して、奥羽を荒らしまわっていた。また、名門の葛西晴信や大崎義隆は互いに牽制しあっていた。 北奥羽では、南部信直が一族の取りまとめに躍起になっていた。なぜならば、九戸政実(くのへまさざね)という一族内に大きな不平分子を抱えていたからだ。さらに秋田では、名将、安東愛季が死去。それに伴う内乱に最上、上杉、南部といった者たちが介入しようとしていた。 古来より奥羽の土地は保守的であり、朝廷に靡くものはいなかった。しかし、伊達は藤原氏の末裔、南部は源氏の末裔である。どちらも朝敵になることを恐れていた。 大勢力がお互いを牽制して小田原参陣できない時、比較的先見の目がある小勢力の大名は、小田原に参陣した。 角館の戸沢盛安(とざわもりやす)は濁流の大井川を渡り、上方勢(秀吉軍)の度肝を抜いた。津軽の大浦為信は摂家の力を利用して、南部氏からの独立に成功した。蝦夷地の蠣崎慶広も小田原に早急に参陣し安東氏からの独立に成功「松前氏」を名乗るのである。 兎にも角にも、歴史は変わろうとしていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/02/10 10:39:01 PM
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