『博士の愛した数式』　小川洋子

2006.04.02

カテゴリ：本

『博士の愛した数式』　著：小川洋子

先日読んだ、『今日を忘れた明日の僕へ』と、
記憶喪失つながり、というわけではないけれど。

いやぁ、久しぶりに、素直に泣いた本。
ガンガン泣いたね。
翌朝の目が、大変でした。

たびたび出てくる数式は、
「素数…？」状態の私にとって、
ちんぷんかんぷんだったけれど、
そんなことは、入り込むに何の障害もなく。

かえって、数学（というか算数、いや数字レベル）
が苦手だからこそ、博士の口からすらすらと出てくる、
こ難しそうな数式が、魔法の呪文に聞こえるし、
数学が好きな人の言う、
「数学は答えが一つしかない」という潔さのイメージ、
それが博士の孤高な姿と重なり、
とても感動できたのかもしれない。

80分しか記憶の持たない、博士。

着古した背広に、忘れてはいけないことを記したメモが、
クリップでびっしりと留められているという、異様な風体。

そして胸元には、「僕の記憶は80分しかもたない」
という、一番大切なメモが。

そんな博士の家へ、家政婦として通うことになった、
シングルマザーの主人公。

毎日交わされる数式の話、それは、
何を話してよいか分からなくなった時に、
言葉の代わりに数字を持ち出す、という、
毎時知らない人と出会う状態の博士が編み出した、
コミュニケーションの手段なのだ。

靴のサイズや誕生日や電話番号といった、
単なる「数字」でしかなかったものが、
博士によって、美しく意味のあるものになる。

ふとしたキッカケで、彼女の息子も、
博士の家にやって来ることになる。

数式にしか興味がなかったかのようだった博士は、
息子を「√（ルート）」と呼び、とても可愛がる。

ルートのためなら、数式を考える大事な時間をも、
喜んで差し出す博士。

そんな博士が、取り乱した姿を見せた時が、二度。

それらは、博士がただ意味もなく数式を口にする、
アタマのおかしい老人、ではないことに気づかされ、
博士の深い混乱と悲しみに、直面させられた。

ルートがほんのちょっと怪我をし、病院に担ぎこんだ時。
病院の廊下で待つ間、博士は三角数の話を始める。
淡々と説明しながら、静かに泣き出す博士。

「分かるかい？自然数の和が求められるんだよ」
「黒豆を三角に並べるんだ。たったそれだけなんだ」
「僕の言ったこと、本当に分かってくれたかい？」

混乱して混乱して、どうしていいか分からないもどかしさ、
言葉で上手く表現することのできない気持ちを、
三角数を説明することによって示す博士の姿。

どこにもやりようのない悲しみを、
一人で抱えることの辛さが、ひしひしと伝わってきた。

江夏ファンの博士のため
（と言っても、博士にとって「野球」とは、
数字で表されるデータでしかないのだけど）
球場に野球を見に行った翌日。

博士は熱を出して、寝込んでしまう。
翌朝、目覚めた時。

ベッドに呆然と腰掛け、自分の胸元に目を落とし、
ひっそりとすすり泣く博士。

「毎朝、目が覚めて服を着るたび、
博士は自分が罹っている病を、
自らが書いたメモによって宣告されるのだ」

それはなんと悲しく、辛い現実であるか…。

博士の中で江夏は、タイガースのエースであり、
昨夜野球を見に行ったことは、記憶に残っていない。

何十年も繰り返されてきたであろう風景。
『今日を忘れた…』の主人公のように、
混乱し激しく取り乱す時期はとうに過ぎ、
その現実を受け入れているかのような博士だが、
毎日その悲しみは、新しくよみがえるのだ。

毎時突きつけられる悲しい現実に、
一人で耐えているのだ。

それでも、数式を生涯の友とし、生きていく博士。
博士にとって、数式とは、鎧であり、
悲しい現実を忘れる唯一の術。

物語は、ハッピーエンドでもなく、
バッドエンドでもなく。

ただ、博士と過ごした時間を、
懐かしく愛おしく思うのと同じように、
この作品に出会ってよかった、と思える、
一冊でした。