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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2023.05.12
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カテゴリ:カテゴリ未分類
幼い子どもは100%お母さんを信じています。
でも、子ども自身はそんなこと意識していません。

幼い子どもは、“君はお母さんを信じているの?”と聞かれても答えられません。だって、それしか知らないのですから。それは、“死”というものを知らない人に、“死ぬのは怖くないですか”と聞くのと同じ事です。
人が何かを“信じている”という時は、その反対の“信じていない”という可能性についても知っている時なのです。

お母さん達が素直に子どもを信じることが難しいのはそれまでの人生で“信じることが出来ない”状況をいっぱい体験したからなのです。だから“証拠”が欲しいのです。信じて裏切られてしまうことが恐ろしいからです。
でも、裏切られる可能性を意識した状態では信じることは出来ないのです。

信じると言うことは“任せる”ということです。実際、幼い子どもは生命もからだも丸ごとお母さんに任せています。
神様を信じると言うことは“神様に任せる”ということです。それは観念的な理屈でも、信念や思想でもありません。生き方なんです。

だからこそ裏切られた体験をした人にとっては信じることが難しいのです。
任せていて裏切られたら自分の存在そのものが危険にさらされてしまいます。子どもであれば生命にかかわります。抱っこされていてそのまま投げられてしまうことすらあるのですから。

よく人と神様の話をしていると、“私も神様っていると思っているよ”、“クリスチャンじゃないけど神様は信じているよ”という人が多いのですが、ほとんどの人が、自分と神様を分けて考えています。“私がいて神様もいる”という考え方です。でもそれは多くの場合、“私は人間を越えた何か不思議な力の存在を知っているよ”ということであって、“神様を信じている”ということではありません。

「神様を信じている」ということは「神様と共に生きている」という事だからです。「そう思う」というレベルの話しではないのです。

そして、古来からの日本人にとっての“神様”とはそのようなものっだったのではないかと思います。それが神道での“神様”です。日本人は特に教育を受けなくても感性的に神道の信者なんです。それがイエス・キリストも仏陀も八百万の神々の一人にしてしまう“日本教”の働きです。
日本人には“唯一神”という考え方が理解できないのです。
だから「私は神様なんか信じていない」などといいながら、ちゃんと神社に行ったら参拝するのです。

それに対して、悪や地獄という思想を含んだ仏教やキリスト教では、「そのような世界に落ちることを防ぐための信仰」ということがもっとはっきりと意識されています。
「地獄に落ちないために」信じている人もいっぱいいます。でも、神道にはそういう「信じなかったら」という思想がありません。だから、無自覚的に信じることが出来るのです。

幼い子どもがお母さんを100%信じているのも、お母さんが自分を裏切ることなんか予想できないからです。お母さんが自分を嫌うことなんか想像できないからです。
だから、お母さんに打たれても、罵られても「僕が悪い子だから」などと考えることでその状況を理解しようとするのです。

でも、思春期が来てお母さんへの依存度が低くなるに従ってお母さんを客観的に見ることが出来るようになります。「無条件にお母さんのやっていることを信じる」ということも減って行きます。

でも、強い虐待を受けていた子はお母さんを疑うことが出来ません。お母さんにやられたことを否定することは、そのまま「そのような行為によって育てられた自分自身」を否定することにつながってしまうからです。
それに、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じる」という能力も育っていません。だから、「お母さんにやられたこと」をそのまま自分も繰り返してしまうのです。

子育てにおいては子どもを信じることは絶対的に大切なことです。
でも、「信じる」というのは結果であって努力して出来ることではありません。自覚も出来ません。「私は信じています」という言葉は「信じていない」という意識を否定しているから言える言葉です。

でも、子どもを信じるためにはわざわざ「子どもを信じる」などと意識する必要はないのです。
一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に楽しみ、一緒に遊ぶことが出来ているのなら子どもを信じているのです。
そして、子どもも無意識のレベルで「信じられていること」を感じています。

お母さんは子どもの代わりに体験することは出来ません。子どもの代わりに学ぶことは出来ません。子どもの代わりに喜んだり、苦しんだりすることはできません。子どもの代わりに子どもの人生を生きることも出来ません。
だから、そういうことは子どもに任せてしまうのです。そして、子どもの選択した結果は素直に受け入れます。そして、子どもが喜んでいる時には一緒に喜び、子どもが苦しんでいる時には一緒に苦しむのです。
それだけでいいのです。

“お母さんが言った通りにしないからケガをしたじゃない”などとは言わないのです。
お母さんが注意することは大切です。でも、今ケガをして泣いているのなら子どもがその痛みや悲しみに耐えることが出来るように共感して支えてあげて下さい。
その痛みや苦しみに耐えることは子どもにしかできないことだからです。

だからお母さんに出来ることはその子どもを支えてあげることだけです。そのようにお母さんに支えてもらうことで、子どもはその痛みや苦しみを乗り越えることが出来るのです。
子どもの心とからだの中で働いている「命の力」や「成長を求める働き」を信じ、子どもに任せることが“子どもを信じる”ということなのです。

そして、信じられているから自立できるようになるのです。





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Last updated  2023.05.12 06:00:11
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