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簡単で便利な機械は、簡単に結果を与えてくれます。
失敗を繰り返してご飯の炊き方を学び、苦労してご飯を炊かなくても、便利な機械を使えば子どもでも簡単に「美味しいご飯」を炊くことができます。 そこで必要になるのは「よい機械」と、その機械を扱うための「マニュアル」だけです。そして、その「よい機械」を得るために必要になるのは「お金」と「情報」だけです。その「お金」と「情報」を得るために必要になるのは「競争に勝つための能力」です。 そして、競争に勝つためには効率的に勉強して、効率的に仕事をして、いっぱい結果を積み上げる必要があります。 その際、実際に時間をかけて自分自身でやろうとするのは時間の無駄です。機械で出来ることは機械にやらせ、お金で買うことが出来るものはお金で買い、自分が体験しなくても、すでに体験した人の言葉を知識として学んでしまえば遙かに効率的です。 情報化社会で必要になるのは「実際に出来るかどうか」ではなく、「そのことに関する情報をどれだけ知っているか」ということの方だからです。 そして多くの現代人がそのような価値観に染まってしまっています。学校教育でも「体験」よりも「知識」の方を重視しています。お母さん達も体験を与えることなく、知識だけを覚えさせようとしています。 道徳教育でも、「優しい子ども」を育てるのではなく、「他の人には優しくしなさい」という知識を与えています。 競争に勝つことだけを大切にしている人にとっては、「人間としての成長」などというものには何の意味も価値もないのです。 「私は子どもの幸せや人間としての成長を願っています」と言うお母さんは多いですが、でも、実際にそのようなものがどのようにして育つのかを知っているお母さんは少ないのです。そのため、多くのお母さんが「優しさ」を知識として教えるようなことしかしていません。 「なんで優しく出来ないの」と怒鳴っているようなお母さんはそのような状態です。 多くのお母さんが、子どもの幸せや成長を願いながら、実際には、子どもを追い立て、勉強を押しつけ、子どもから体験を奪い、子どもの成長や幸せを潰すようなことばかりをしています。 私はそういうお母さんを見ていると悲しくなります。 毎日の生活の場で「人間として成長するために必要なもの」を与えていなければその希望は叶わないのです。 子どもが「人間として」成長するためには、自分自身の心と、頭と、からだと感覚を使った多種多様な体験が必要になるのです。 「体験」を与えずに、優しさや、自己肯定感や、工夫力や、精神的自立といった結果だけを求めても無理なんです。 「子どもの成長」を支えているのは「結果」ではなく、「体験」に伴う「過程」なんです。 なぜなら、どんな場合でも、「学び」は過程の中でしか発生しないからです。 炊飯器で美味しいご飯が炊けてもそこで学べるのは「炊飯器の使い方」だけです。 でも、自分で薪を割って、自分でお米と水を入れ、自分で火をおこして、自分で炊いた子は、その過程で感覚の使い方、からだの使い方、イメージ力の使い方、火について、お米について学ぶことが出来ます。 だから、結果を急ぐのではなく過程を充実させることが子どもの成長につながるのです。 そして、「想い出」も過程の中にしか存在しません。 薪でご飯を炊く体験した子は、そのことをズーッと覚えているでしょう。 他にも色々な体験をすれば、その体験は感覚の記憶、からだの記憶、頭の記憶の中に残っていきます。 そういう記憶が子どもの成長を支えてくれるのです。 そして、その「記憶の時間」が、子どもが「自分で生きた時間」になるのです。 同じ20年間生きても、「生き生きと思い出すことが出来る記憶(自分で生きた時間)」を育てることが出来なかった子にとっては、その20年間は空っぽなんです。 どんなに素晴らしい結果を出せていても、過程を失った子は「結果」と引き替えに「自分の時間」や「自分の人生」を失ってしまっているのです。 でも、「生き生きと思い出すことが出来る記憶」に満たされた子にとっては「20年以上の価値がある20年」になるのです。 「想い出の量」が「その人が生きてきた時間の量」になるのです。どんなに多くの結果を出しても、その「想い出につながる過程」が存在していない人の人生は空っぽなんです。 だからそういう人ほど、年を取ってから「俺は昔○○会社の部長だったんだぞ」などと虚勢を張るのです。私の父はそういう人が嫌いだったので、老人の集まりには参加しませんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.05.14 10:07:01
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