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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2023.05.28
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カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日は「待つ」ということについて書きましたが、「待つ」といっても色々な「待ち方」があります。

一般的な「待つ」というイメージは、人気のあるラーメン店で並んで待つ、ディズニーランドで順番を待つ、電車を待つ、食事が出てくるのを待つ、というようなものだと思います。

でも、子どもとの間に信頼関係を築いたり、子どもの育ちを支えるために必要な「待つ」はそういう意味ではありません。

それらの「待つ」は「待たされる」という受け身的な状態でもあります。
待たされているから、しょうがないから待っているのです。

だから、イライラしたり、暇をもてあましてゲームをしたりスマホをいじったりしてしまうのです。

子育ての場でも、お母さん達は「待たされているからしょうがないから待っている」という「待つ」は日常的にやっていると思います。

歩いてお買い物に行くときも、子どもは寄り道をしながら歩きます。また、マイペースでしか歩きません。「早くしなさい」とせかしても、子どもは言うことを聞きません。

そのため、優しいお母さんは、イライラしながらも子どもを待ちながら歩くことになります。
食事も、遊びながら食べるので時間がかかります。
そのため、なかなか片付けに入ることが出来ません。
この時も、「よいお母さん」を目指している人はイライラしながら待っています。

時には「早くしなさいって言っているでしょ。なんべん言ったら分かるの!!!」などと子どもを叱ってしまうこともあるかも知れませんが、それでも子どもは早くすることはありません。

というか、大人と違って、子ども自身にも自分の行動を早くすることが出来ないのです。早くするだけでなく、ゆっくりも出来ません。

そんなことは叱っているお母さん自身がいつも体験していることなので経験的に知っているはずなのですが、それでも毎回同じように叱ってしまうのです。こんな時も待つしかありません。
でも、イライラした状態で待つことになります。

そのようなイライラが溜まると、肩がこって、頭が痛くなり、睡眠も呼吸も浅くなり、冷静に考えることが出来なくなります。

ラーメン店で待っている場合には、「美味しいラーメン」という「待つことの対価」がちゃんとあるので、待っていてもストレスは溜まりませんが、子育ての場ではその対価がありません。

待ったからといって、すぐに子どもが「よい子」になるわけでもありません。
むしろ、追い立てなければ子どもはもっとダラダラし始めます。
だから待つことが出来ないのだし、待つことの意味も分からないのでしょう。

でも実は、それとは違う「待つ」という形があるのです。
この「待つ」では、対価がなくてもイライラしません。

「十時に渋谷のハチ公前でとデートの約束をした」という状況を思い浮かべてみて下さい。

でも、その日は運良く電車の乗り継ぎがうまくいって九時半頃に着いてしまいました。

それで、相手が来るまで待つことになりました。
自分が早く着いてしまっても、約束が十時ですから、当然のことながら十時までは待つ義務があります。
それが「受け身的な待つ」です。

ですから、スマホなどをいじくりながらその時間が来るのを待ちます。
そして、このような「待つ」は常識のある人なら普通に出来ます。

でも、その相手が十時を過ぎても現れなかったとき、人によってその対応が変わってきます。

イライラしながらでも10分ぐらいならなら待つ人もいれば、スマホなどで連絡を取って遅れている理由を聞こうとする人もいるでしょう。
その相手が、スマホなどが嫌いで持っていなければ、その事にも腹が立ってくるでしょう。

「すっぽかされた」と怒る人もいるでしょう。

でも、「どうしたのかな」「事故でもあったのかな」「電車に乗り間違えたのかな」などと相手のことを心配しながら待ち続ける人もいます。

自分の価値観だけで相手のことを判断するのではなく、相手の立場に立って理由を考えようとするのです。
そのような人は相手の心配はしますが、イライラはしないでしょう。

そして、やっとこ相手が現れてきたとき、イライラしている人は相手に怒りをぶつけるでしょうが、相手の立場に立って待っていた人は、相手の顔を見たら安心するでしょう。

このような人は、ただ待っていたのではなく祈っていたのです。
「祈り」もまた「待つ」の一つの形なんです。

そして、私が「子どもの育ちを支えるには待つことが大切だ」という場合の「待つ」も、この「祈り」のことなんです。

「何分待てばいいのですか」というような「待つ」ではないのです。

この4月で新一年生になった子を学校に送り出すときも同じです。

子どもにとっても初めての体験ですが、お母さんにとっても初めての体験なので、お母さんはものすごく不安を感じるでしょう。

隠れて後ろからついて行きたくもなるでしょう。

ナビを持たせる親もいるかも知れません。

友達は出来るかな・・・
いじめられないかな・・・
先生は優しいかな・・・
などと色々考えながら子どもの帰りを待つことになります。

でも、心配だからといって子どもが帰ってきてから根掘り葉掘り聞き出そうとはしないで下さい。

子どもが話しやすいような状況を作ることは大切ですが、聞き出そうとすると子どもはお母さんが喜ぶような嘘をつきます。

ここでも「待つ」ことが必要なんです。
「祈り」としての「待つ」が。





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Last updated  2023.05.28 06:28:14
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