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今日からテーマを「からだについてのあれこれ」に変えさせて頂きます。
私は今は茅ヶ崎に住んでいますが、元々は鎌倉生まれ、鎌倉育ちです。(材木座です) 結婚して、子どもが生まれ長女が5才ぐらいになるまで鎌倉にいました。 その頃、偶然知り合った素敵な先生に夫婦でお茶を習っていました。宋編流というマイナーな流派ですが、家元が鎌倉に住んでいらっしゃるため鎌倉にはその派の先生はそれなりにいるようです。 家内も私も「茶道」には興味があったので、「免状はいりませんから」ということで、全く個人的に、しかも子連れで教えて頂きました。最初、生徒はうちの家族だけでした。(でも、あまりにもったいないので後から私たちの友人も誘いましたが・・・) 子どもたちはお菓子を食べたりして勝手に遊んでいました。 その時、私がよく注意されたたのが「引く手が汚い」ということでした。 お茶をたててお客の前に置くところまではいいのですが、その手を引いて来るときに雑になっていたようなのです。 お椀を持っているし、それなりの見せ場なので、茶碗を置くところまではかなり意識を集中しています。でも、置いたとたん「ああ、おわった」と気を抜いてしまうのです。その途端に汚くなってしまうのでしょう。 でも、人はその気の抜けた時の状態を自分では意識することが出来ません。人は気が抜けたときには無意識状態になってしまうからです。ですから、そういうことは先生に指摘してもらわない限り分らないのです。そのために先生が必要なんです。 「自分が分っている自分」は、「自分の意識が働いている時の自分」だけです。それなのに、みんなその「自分が知っている自分」だけが、「自分の全て」だと思い込んでいます。でも、「自分が知っている自分」なんて、「自分全体」の中では本当に小さな一部分にしかすぎないのです。 そして、他の人はその人が「意識的に動いている時」より、「無意識的に動いている時」の方をよく観察しているものです。 子どもは特にそうです。だからお母さんが言ったことはすぐに忘れても、お母さんも気づいていないその時の表情や身振りや声はよく見聞きして覚え、すぐに真似をするのです。 ですから、「自分」を変えるためには、「自分で意識できる自分」ではなく、「意識することが困難な自分」に気づいて、変えていく行く必要があるのです。そして、そのためには日常、無意識的に行っていることに意識を向け、意識化していく必要があるのです。 私が太極拳や茶道を勧めるのは、それらには無意識への気づきを促す働きがあるからです。様々な表現活動を勧めるのも同じです。 茶道に興味がない人は「なんでお茶を飲むだけなのにあんな面倒くさいことをするのだ」と言いますが、そのような人は、「目に見える世界を支えているのは目に見えない世界だ」ということを知らない人です。 茶道の時に限らず、一般的に人間は、手を伸ばす、足を伸ばす、からだを伸ばすといったように、「伸ばす」という動きをする時には意識的に自分のからだの動きをコントロールしようとするのに対して、「引く」という動作に対しては無意識的なんです。 なぜなら、「伸ばす」という動きは攻撃や行動といった外の世界に対する能動的な行為につながるのに対して、「引く」という動きは、その外の世界と関わりを断って、身を守るために必要な動きだからです。 だから伸ばすのは意識的であり、「引く」「縮める」「固める」のは無意識的なのです。人は不意に熱いものに触ってしまった時など“アチッ”と手を引きますが、手を伸ばす人はいないのです。 これは人間だけでなく、他の生き物たちでも同じです。カメも、首を出す時はゆっくりと慎重に出しますが、ひっこめる時は瞬間的です。岩に張り付いている貝も、そのしがみつきを緩める時はゆっくりですが、固める時は瞬間的です。 これは筋肉の仕組みとも関係しています。筋肉には「縮む」という能力しかないのです。「伸びる」という能力はないのです。伸ばすためには反対側の筋肉に引っ張ってもらうか、緊張をといてゆっくりと固まってしまった筋肉が緩むのを待つしかないのです。つまり、筋肉は無理に伸ばすか緩めないことには伸びないのです。 でも、この「伸ばす」とか「緩める」ということがなかなか難しいのです。筋肉は意識の働きによって固まる性質があるからです。何かを強く意識している時には筋肉は縮み、からだは固くなるのです。そして現代人は常に何かを意識しながら生活しています。 (観察的な意識の使い方はいいのですが、監視的な意識の使い方がからだを固くします。) 周囲のお母さんたちの目を意識しても筋肉は固まり、からだは固くなります。叱られた時の子どものからだは小さく固まってしまっています。また、不安や緊張やストレスが強い時などにもからだが縮こまってしまっています。自己肯定感の低い人のからだも同じです。意識が張り詰めていると、筋肉はゆるまないのです。 でもそれは防御の態勢なのです。ですから、そのような状態の時には能動的、創造的に動くことが出来ません。 また、そのような状態の時、人は無意識に支配されてしまっています。だからいつも同じことの繰り返しになってしまうのです。 その無意識と向き合うためにはからだを緩めなければいけません。でも、それが難しいのです。からだが緩んでいる状態の体験がない人は「ゆるむ」ということがどういうことなのか全然分らないからです。 日常的に肩がパンパンに凝っている人は、自分が肩が凝っていることに気づきません。完全に弛緩した状態を「0」、極度に緊張した状態を「100」とすると、日常的に50くらいの程度の緊張状態で過ごしている人には「50」以下の状態が分らないのです。 「30」レベルの人は「50」レベルの人の緊張が分ります。だから「もっと緩められますよ」と言うのですが、ずーっと「50」レベルで暮らしている人は自分のからだが緊張していることが全く分からないのです。だから先生からの指摘が必要になるのですが、防御が強い人はそれすらも「攻撃」と取ってしまい、さらにからだを固めます。 ちなみに「弛緩させる」ということと「緩める」ということは違いますからね。 筋肉を弛緩させるだけでは動けなくなくなります。麻酔を打つとそのような状態になります。 でも、茶道や武術などで必要になる「緩める」は、筋肉を「柔軟性があり自由に動けるニュートラルな状態」に保つということです。固まっていたら自由に動けません。かといって、弛緩していたら動けません。 ストレッチのような肉体的な活動には筋肉を伸ばし、弛緩させる効果はありますが、それだけでは筋肉を動けない状態にしてしまいます。 動ける「ゆるめる」という状態を作るためには、肉体的な活動ではなく意識の働きを使う必要があるのです。逆に言うと、いくらからだが固い人でも緩めることは出来るのです。 だから、昔の武術家達はストレッチ的な訓練をしなかったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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