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大分前に読んだ記事ですが、先進的な教育について学ぶために、政治家や教育者がフィンランドなどに視察に行ったとき、施設を見て、資料をもらって、説明を聞いて、それだけで帰ってしま人が多いそうです。
つまり、わざわざ現地に行ったのに、ネットなどで得ることが出来るような情報だけをもらって帰ってきてしまうのです。 その記事には、ほとんどの人が「現場で働いている人の言葉に耳を傾けない」と書いてありました。 日本人の多くが、「形」には興味があっても、その「形」が生まれた思想的、文化的、風土的背景や、実際に働いている人たちの言葉には興味がないようなのです。 明治維新の時もそうやって西洋文化を取り入れました。政治制度も、学校制度も、軍隊制度も、経済制度も欧米のやり方(形)を真似ました。 ただし、取り入れたのは「形」だけです。その中身は明治以前のものをそのまま詰め込みました。 でも、いくら現地の設備やシステムを真似して形だけソックリなものを作っても、中身が異なっていたら同じようには機能しないのです。 むしろ「形」と「中身」の乖離が、様々なトラブルの原因になっていきます。 これはシュタイナー教育やモンテッソーリ教育、その他の「教育法」でも同じです。森の幼稚園も同じです。モデルとなったものがいくら素晴らしくても、その背景を無視して、表面的な形だけ真似しても同じようには機能しないのです。 気候風土や文化的風土が異なった場所でも同じような結果を得たいのなら、「その土地に合わせた新しい形」が必要になるのです。 「乾燥地帯で快適に暮らせる家」と「高温多湿の地帯で快適に暮らせる家」とでは、同じ「快適」を求めていても、家の形や構造は違うのです。 スペインやフランスの「快適で素敵な家」をジャングルの中に建てても快適な生活は出来ないのです。 伊那小学校でやっていることは、その土地の気候風土や、その土地で暮らしてきた人たちの思想的、文化的背景があって初めて可能になったのです。そのことを理解しないまま、ただ結果だけを見て感激して、形だけを真似しようとしても、同じ結果にはならないのです。 大切なのは「形」ではなく、その「形」を創り上げている気候風土や人々の意識の方なのですから。 「形」を真似すれば中身も付いてくるような錯覚があるのかも知れませんが、それは幻想です。「中身」が「形」を作るのであって、「形」が「中身」を作るわけではないからです。 シュタイナー教育で絵を描くときは「輪郭」は描きません。物に輪郭など存在していないからです。輪郭は人間の頭の中にしか存在していないのです。輪郭があるから物が生まれてくるのではないのです。 顔にも輪郭などないですよね。顔があるから、その顔の周囲をなぞることで輪郭を認識することが出来るのですよね。 そして、その本体は「作るもの」ではなく「生まれてくるもの」です。 様々な要素が絡み合って、長い時間をかけて生まれてきた結晶のように少しずつ「そのもの」が育って行くのです。その輪郭をなぞれば形を確認することが出来ますが「形」は中身が創り出した結果に過ぎません。 「形」から始めるのは塗り絵と同じです。誰か別の人が作った「形」を使って、中の色だけ自分で塗って、あたかも自分が描いたかのような錯覚に浸って満足するのです。 でも、そんな塗り絵ばかりやっている子に、真っ白い紙を与えても何も描けません。元になる形(正解)がないと何も出来ないのです。それはつまり、「心の自由を失ってしまう」ということでもあります。 「形」は正解を決めてくれます。キャラクターの塗り絵なら、もう、色まで決まっています。でもそれと同時に、「形」は限界を固定してしまいます。枠からはみ出してはいけないのですから。枠の内側を自由に塗ることは可能ですが、枠を無視して塗ることは許されていないのです。 伊那小学校の実践に感激したなら、皆さんが住んでいる場所で、それまでの生活の延長で、今できることを探して始めてみて下さい。そして、それを発信していれば仲間が現れます。 その際、オリジナルを正解にしないことが重要です。オリジナルを正解にしてしまうと、命を持たないマネキン人形と同じになってしまいますから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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