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私はシュタイナー教育が大好きです。シュタイナー教育が提示する人間観や宇宙観や子どもの成長に関する考え方が好きです。
でも、シュタイナー教育だけが絶対だとは思っていません。「シュタイナー教育でないと子どもが素敵な人間に育たない」などとも思っていません。 むしろ、「シュタイナー教育の方法」に拘ることで精神の自由を失い、見かけは「シュタイナー教育」であっても、中身は「R.シュタイナーが目指した教育」ではなくなってしまう可能性もあります。 方法に拘ると精神の自由は失われてしまうからです。 そもそも、私がシュタイナー教育に惹かれたのは、シュタイナー教育と出会う前に学んでいた宗教や、芸術や、自然や、宇宙や、霊的なことや、人間の成長に関することなどが、シュタイナーの思想や教育の方法の中にうまくまとめられていたからです。 だから私の中身はシュタイナーではないのです。 私はお釈迦様も、イエスキリストも大好きです。そして、R.シュタイナーも釈迦やキリストも肯定しています。でも、釈迦もキリストもシュタイナー教育を受けていません。そもそも、R.シュタイナー自身がシュタイナー教育を受けていません。 シュタイナーが提示した世界に近い感性を持っていた宮沢賢治や八木重吉といった人たちもシュタイナー教育を受けていません。 多分、皆さんが「素敵だな」と思っている人のほとんどがシュタイナー教育を受けていないと思います。 そもそも、シュタイナー教育のやり方だけが人の魂や精神性を育てる正しい方法なら、そんなもの知らないで育ったそれらの人たちは否定されてしまうのです。ネイティブ・アメリカンやチベットの人達の精神性も否定されてしまいます。 「方法」は、「迷子にならずに目的にたどり着くためのガイド」のようなものです。これはシュタイナー教育だけでなく、モンテッソーリ教育でも、その他の方法でも同じです。 でも、目的に向かう道は一つではありません。同じ富士山の頂上を目指していても、登り方はいっぱいあります。そもそも、最初にいる場所が違えば、同じルートで登ることが出来ません。体力がある人が登るルートと、体力がない人が登るルートも同じではないはずです。 目的地は同じでも、岩場を登る人もいれば、砂のようなものに足を取られながら登る人もいます。 さらにいえば、登りたい山も同じではありません。みんながみんな富士山に登りたいわけではないのです。そして、富士山を目指す人だけが偉いわけではありません。それほど高くなくても、無理なく登れて景色がきれいな山の方が好きな人もいます。 だから世界中には無数の宗教があり、人が幸せになる方法も無数にあるのです。 子育ての方法も無数にあります。 子育てをするときには、ほとんどの人が「子育て書」を読むと思いますが、参考として、ヒントとして読むのならOKですが、それを「正解」として読んでしまうと、子育てが苦しくなってしまうのです。子どももお母さんも苦しくなってしまいます。 皆さんが読んでいる「子育て書」は、皆さんの子育てを対象にして書かれているわけではないからです。子育て書の中に出てくる子どもは皆さんの子どもではありません。お母さんも皆さんと同じではありません。 全てはヒントなんです。そして、全てがヒントだと分かると、あらゆることをヒントとして学ぶことが出来るのです。 アリがエサを運んでいる姿を見て何かを思いつく人もいます。 子どもが折り紙で遊んでいるのを見て何かを思いつく人もいます。 道ばたに落ちている石っころを見て何かを思いつく人もいます。 育児書など読まなくても、子どものことをよく見ているだけで上手な子育てが出来てしまう人もいます。 木々から落ちてくる枯れ葉を見るだけで、命の素晴らしさやこの世の無情に気付く人もいます。 誕生や病気や死に出会う事で「命の不思議」に気付く人もいます。 青い空、太陽、雲、夕日、星、そういうものは世界中の誰でも見ることが出来ますが、昔の人はそのようなものを見て壮大な物語を創り上げました。 この世界にあるものは全てがヒントなんです。そのことに気付くと全てが教師になります。自然も、子どもも教師になります。 R.シュタイナーも、そのヒントに気付いてシュタイナー教育を作ったのです。 でも、多くの人が身の回りにあるヒントには目を向けずに、自分とは無関係な人が考え出した方法に頼ろうとしています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.01.12 07:58:54
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