<村田エフェンディ滞土録>
村田エフェンディ滞土録 / 梨木香歩カタカナ(外国名)がいっぱい出てくる本は、本当は苦手。「家守綺譚」にチラと出る村田さんが、この村田エフェンディなのだろうか?それを知りたくて手に取ったようなもの。*考古学の研究のために留学した、学者・村田の土耳古(トルコ)滞在記。(エフェンディというのは学問を修めた人に対する敬称で「先生」というのに似てる)考古学・・・・・・。 なんて魅力ある研究だろう。私の古いモノ好きは、実は年季が入っている。ちょっと違うかもしれないが、小学生の頃、プチ発掘に熱中したことがある。尖った石や素焼き鉢の破片を掘り出しては、「これは石器だ!土器だ!」と興奮し、模様の入った岩を見付ければ、「植物の化石に違いない・・・」とドキドキしたものだ。 (その時の名残で、今でも地層を見付けると立ち止まってしまう)遺跡跡に佇み、同じく数千年前にその場に立ったであろう人に想いを馳せ、過去に、確かにここに存在していたであろう人が何を見て、何を考えていたのかを、想像するのは時間の流れを忘れるくらい、豊かで楽しいものだ。こんな自分が、この本に熱中しないわけがなかった。村田と一緒に、数千年前の日用品から溢れる情景に耳を傾けたり、鸚鵡(オウム)の間合いの良い台詞に笑ったり、村田が説教したらイジけて消えてしまう置物を人間くさいと思ったり、ずっとこんな調子で面白くのんびり進んでいくのだと思っていた。しかし、時は第一次世界大戦に突っ込んでいく。村田は下宿先で、人種や宗教・文化を超えて、かけがえのない友情を築いた。人種や宗教。 人は皆違うのだから、何を信じるのかも異なるはずだ。そんなのは問題じゃない。 少なくとも戦争に発展するほどのことじゃない。・・・と思うのだが、そんな単純にはいかないのだろうか。かけがえのない人々を失った、下宿を切り盛りするディクソン夫人の台詞。 私は2人を殺したのは、国ではない、何かもっと、国に名を借りた、 もっと別のものだという気がしてなりません。 この世には、私達の目には明らかでない、あまりにも多くのものが 蠢いていて、良くも悪くも、私達はそういうものとともに生きているということでしょう。ディクソン夫人のやり切れない哀しみが表れているように思う。私だったら、すぐに国や殺した人々に憎しみを滾らせるでしょう。憎しみは憎しみしか生み出さない、としても。後半は、本当に切なく哀しい話なのです。家守綺譚の登場人物がちょっと出てホッとさせてくれますが・・・ (やはり村田と村田エフェンディは同一人物でした)村田と鸚鵡の再会場面でのやり取り。 ディスケ・ガウデーレ(楽しむことを学べ) 友よ!涙が溢れてしまうのです。-----------------------------------------------------------------------今年も残すところ、2週間半。少なくとも、あと10冊は読む予定でいるが、この話を超える本には出逢えないだろう。<村田エフェンディ滞土録>を、私の今年の本No,1にしたい。 ・・・・・・<家守綺譚>を超えちゃったよ! でもこちらは、No,2なのです。