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カテゴリ:日替わり日記
この夏にはブログ友だちのDr.悠々さんが四国・徳島から訪ねてくれたが、いざ行こうと考えるといささかの距離を感じる。職場を退職をしたのを機にその四国八十八ヵ所の旅をしてきたという知人が最近訪ねてきて話しをした。 そこで、巡礼中につれあいに死なれながら、ふたたび巡礼の貫徹をめざしている人とであい、信仰の力を感じたといった話しをした。 八十八ヵ所巡りはすなわち祈りの旅であり、その祈りの内にはそれぞれの個人的な思いが込められている。 それは自分や家族の健康祈願であり、または病気治癒の祈念であったり、あるいは息子や孫の受験合格の願いであり、時には自らの罪の贖罪の祈願であることもある。 あるいはまた、子宝に恵まれない人の祈りであろうし、またある人にとっては死者の供養の祈祷であることもある。 いつか何かの本で、恨みを抱いた人を呪い殺すために寺の柱に藁人形を釘で打ち付け、祈って回ったという恐ろしい話も読んだことがある。 この札所巡りという信仰の形は、四国だけでなくさまざまな形で各地にある。このような人の祈りの姿を思うことは、祈りというものはさまざまな様相を呈しながらも、おおむね自己救済を目指しているということである。 仮にそれが死者の供養のための祈りであれ、近しい者の死の供養には、愛する者の死によって波立つおのれ自身の魂の鎮魂も暗黙のうちに含まれるから、それもまた広義の自己救済の一つであろう。 あえて問われれば僕は無宗教であるが、思い立って寺社を訪ねることはよくある。 木曽のある山中の古寺を訪ねようとしたときに、道を訊ねるために駄菓子などを置いてある店に入ったとき、そこには赤ちゃんを抱いたお婆さんがいた。 その薄暗い中にほんのりと浮かぶ赤ちゃんの顔を見たとき、なぜか不意に身の引き締まる感覚を覚えた。水子地蔵を思わせるその生き仏のような澄みきった瞳が、じっと食い入るように僕の目を見つめていたのである。 これまでにも、そのように赤子から見つめられるというような経験はある。生まれたわが子を抱くときにも、澄んだ瞳を感じなかったわけではない。しかし、そのときの赤子の視線には、思わずたじろぐような光を感じた。 その赤子の無垢の視線に、僕のこころの底にある原罪が射貫かれたのではないかと思った。 これは巡礼のなかの出来事とはちがうが、寺を訪ねるという行動を思い立ったときに、無意識に何らかの宗教的な心のありように囚われているのかも知れないとおもった。 励ましのクリックを お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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