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カテゴリ:日替わり日記
僕がなぜ色平哲郎医師の講演の後、夢にまで出てくるほどの魅力をもったのか書こうと思うのだが、思うように書けない。 講演内容はなかなかシニカルで核心をついた内容なのに、ユーモアあふれる話し方で講演中笑いが絶え間なかった。それも、笑いをとろうとする馬鹿笑いではなく、思わず笑みがこぼれてしまうようなしっとりとした笑いといえよう。 話しのなかに大切なエピソードや、患者さんが語ったことで心にとまっていることなどがつぎつぎと披露されるが、そのネタ帳というノートをときおり拡げて読んでいる。 そのノートを懇親会の折りに見せて貰った。 秘密ごとというものがないのか、ポケットからとりだすと無造作に僕に手渡してくれた。 開いてみると、ぎっしりと、文字通り真っ黒になるまで書き込まれたノートは、何重にも文字が重なり、何を書いてあるのか僕にはかいもく読めなかった。まるで、CDに記録されている情報をとりだすように、彼はノートに書かれたペン痕から必要な情報をとりだしていたのだ。 講演中、色平氏は自分のことを、いまだに反抗期の抜けきらない子供だとして、妻のかすみさんあっての自分ということを強調していた。 かすみさんとはどんな人だろうかと調べてみたら、1995年に「私の夫は医者」という文章がでてきたので、引用して紹介したい。 私の夫は医者 医師 色平哲郎の妻 かすみ 私達が結婚したころ、結婚するなら“三高”の人という言葉がはやりました。 私達の場合“三高”どころか、背が低い、学歴なし、収入なしの“三低”(学生結婚だったので)おまけに、短気、単純、短足の“三短”にもかからわず、うまくだまされ、結婚届に印を捺してしまいました。 夫は東男、私は京女とことわざになるような夫婦なのですが、家庭での彼は、夫として、父としての自覚がまったくなく、子どものために食べやすく作ったおかずを食べるし、いじわるを言って子どもを泣かせるし、子どもに焼きもちをやくしと35歳の頭のはげた万年反抗期の子どもなのです。 (注:この文章は12年前に書かれたものですので、その時は35歳でした。) オーブンレンジの使い方、留守番電話の聞き方、自分の衣類の場所も何も判からない本当に手のかかる夫で、5歳の息子が彼の世話をしている事があるくらいです。 彼の楽しみは、やっぱり旅行でしょうか。普段あまり家にいないので家族団欒といえば、病院を替わる時に行く長期の旅行なのです。 行き先を決めず、こっちの国、あっちの国と親子3人でふらふら! 今度は今年2月に生まれた娘も一緒に親子4人で息子がお気に入りのタイで象に乗りたいものです。 彼が学生時代「色平さんを知る会」という学生サークルがあって、本人は「知る必要がない」と言っていましたが、私に講師依頼がありました。 とにかく不思議な人に見えるようですが、私は100年に1人の奇人変人と思っています。 彼に、ごく普通の家庭があるというのは、妻の私が言うのは変だけれど、本当に不思議なことです。 でもこの人に家庭がなかったら、今よりもっと変わり者で普通のことが判からなかったと思います。 夫は「かすみは、世の中の人のために僕と結婚してボランティアをしている」と言っています。 「僕より先に死ぬな。老後は頼む」 と私に言うので、 「私は哲郎君よりも長生きしても、夫婦を続けているとは限らない」 と言い返すこのごろです。 彼がちゃんと医者をしているか一度、診療参観をしてみたいものです。 たぶんこれは、「診療所たより」のようなものへの寄稿文なのでこのようにくだけた内容になっているのだろう。 しかし彼を知る何人かと話しをしたが、みんな一様に色平氏のきさくなつきあいの良さを指摘している。 僕は、色平氏の医師としての信条を思い出した。 「人を診るためには、その人の住む風土や本当の暮らしを知らなければならない。患者の家庭までふくめた環境をしらずにヤブの僕には的確な処方はできない」という。 村の草刈りなど共同作業に加わり、酒を酌み交わし、往診先で出された夕食を一緒に食べ、深夜でも往診する。 患者がどのような生活をし、どんな食べ物を食べているか、味付けなどもさりげなくチェックする。 そのようにしても、五千人からの人を殺してきたダメ医者だと自問する。どのように死へと橋渡ししてあげるかが、究極の老人医療ということなのだろう。 このような勤務をつづけていれば、家庭が唯一バカになれ、子どもに戻り、すべてを解き放たれリラックスできる場でなくて、どこにそれがあろう。 この妻ありて、この夫があるのだ。 励ましのクリックを お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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