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カテゴリ:日替わり日記
その頃の渥美清へのまきこの献身ぶりを大変なものだった。 まきこは渥美の前では明るくふるまって元気づけていた。しかし、やせ細り、生気のなくなった渥美を見て帰ってくると、「死んじやうんじやないか」と人目もはばからずメソメソ泣いたという。 まきこの経済的な援助と文字通り献身的な励ましがあって、昭和32年に渥美は無事退院し、浅草に戻った。 芸人として再出発した渥美は、それまで浴びるように飲んでいた酒をやめ、前にも増して静かになり、人を避けるような雰囲気になっていったという。 「役者として成功できるなら、酒、タバコ、バクチをやめる」という願を立て、私生活をまるきり改め、この誓いを終生守った。 ところが、その願かけのなかには「女」は入っていなかった。そのころ渥美にはベツの女の陰もちらついていたようだという。 しかしまきこは、「イイ男(?)に女が惚れるのはあたりまえ」と、そんなことを気にもとめず、惚れた男のために、その母親の面倒まで見ていた。 まきこは渥美の母親の家に下宿し、下宿代として相場よりずっと高い生活費を払っていたという。その金が、母親からまわりまわって渥美に渡ることを願っていたのだろう。まきこはそういう女であった。 昭和28年にはじまったテレビ放送は急激な成長を遂げて、テレビはまだビデオ録画もなかったため、ぶっつけの生放送で活躍できる芸人を数多く必要としており、舞台で場数を踏んだコメディアンがストリップ界や演劇界から続々と抜擢され流れ込んでいった。 劇場で人気のあった渥美も目をつけられて、テレビに出るようになった。 昭和34年は、皇太子御成婚で日本中にテレビが普及し、劇場の芸人仲間と「ポケットトリオ」、そして「ボケナストリオ」というコントコンビを組みなおして、渥美清の出世に拍車がかかりはじめた。 NHKの連続ドラマ「若い季節」に淡路恵子、黒柳徹子、横山道代らと出演し、東映映画に伴淳三郎などと出演し、テレビの「大番」で当たりをとり、映画「拝啓天皇陛下様」でとうとう主演を果たしたのである。 そして昭和43年に、テレビの連続ドラマ「男はつらいよ」が大ヒットし、45年から山田洋次監督の映画シリーズがはじまって、渥美は寅さん一辺倒に絞って、つぎつぎにヒットを飛ばしていった。 渥美がテレビに出はじめ、上り調子になっていったころ、まきこは渥美から静かに身を引いた。 その頃の業界用語でいう「チャリ振った」というそうだ。 未練も情けもなく、チャリッと女を捨てることを「チャリを振る」、哀しい言葉だが、その世界ではごく普通にあることだったという。 ハタ目には、渥美が出世して、もうストリッパーの助けがいらなくなったからチャリ振った、と見られてたが、実際は、まきこの方から離れていったようだったという。お互い惚れ合っていたことはたしかなのだが、他人にはわからない事情もあったのだろう。 ストリッパーの女は、自分が惚れて一生懸命に世話した男なのだから、これから、というところで別れたいと思うはずがない。ただ、男がテレビで人気者になり、さらに出世しようというときに、ストリッパーである自分の存在がその妨げになるとしたら、どうするだろうかと、その当時のこの世界の女たちの心情を思う。惚れた男の出世を望むからこそ、黙って身を引くというストリッパーとしての美学も当時はあり得たと思う。 まきこは、別れた男の出世を祈り、輝きはじめた男の姿を陰から見守り、喜ぶようなつつましい女だったと、老人はいう。 その頃、渥美にはほかに彼の身の回りの面倒をみたがる女がいた。だから、振った振られたというのではなく、その人にバトンタッチするように、離れていったのかもしれない。 渥美と別れたまきこは浅草を離れた。親しかったコメディアンや踊り子にも、老人にもなにも告げず、ぷっつりと消息を絶ったという。どこか地方の小屋にでも落ちていったのだろう。 渥美清は、その後の自分に家庭があることやその場所さえ誰にも明かさなかったが、世間に向けてというよりまきこへの、彼なりの思いやりであろう。 * 上記文中で、リリーをストリッパーと錯誤する内容で書いてしまいましたが、リリーはクラブ歌手の誤りでした。 そういえば以前にも同じような記載をして、kaoruさんに指摘されました。僕の聞いていた渥美清の身の上に、ストリッパーまきこのイメージが強くしみついていて、ついリリーをストリッパーと思い込むクセがついていました。 訂正してお詫びします、リリーさん失礼しました。 これで良かったら、励ましのクリックを お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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