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カテゴリ:日替わり日記
たびたび話題にすることだが、最近は若者を中心に言葉の単純化が進んでいる。 もっとも清少納言の『枕草子』にも、当時の若者の言葉が乱れていると嘆いているから心配にはあたらないという説がある。 しかし、昔は時間の経過や色などずいぶん細かく使い分けていた。たとえば昼と夜の間なども一般的な夕方、・暮(くれ)・黄昏(たそがれ)・晩(ばん)など使い分け、もっと情緒を加えたいときなど「逢う魔時」(おうまどき)とも、「大禍時」(おおまがとき)とも言った。何となく意味深な表現ではないだろうか。 黄昏時のことも「暮れ六つ」や「酉の刻」ともいい、現在の18時頃のことであるが、このように使い分けることで、日本語に膨らみをもたせていた。 ということで、若者言葉の特徴としては言葉を逆に言ったり、言葉をローマ字化してその頭文字のアルファベットを並べたり(チョーMM、MK5、KYなど)、誇張した表現(「超」チョーの濫用など)といったことが挙げられる。 また元々方言からきている物もある(やばい、ばり、めっちゃなど)。 きわめて単純で、あたりまえすぎることだから、あんまりそのことに気がつかないけれども、ボキャブラリーをふやすこと、あるいはことばをたくさんおぼえて使い分けることは、文章でも感情の伝達にしてもとても有効だと思う。 ボキャブラリーは、文章という構造体をつくりあげるための部品のようなものと考えてもよい。ここで、この部品が必要だ、というときに、その部品の手持ち在庫があれば、ドンピシャリ、とその場所に部品をはめこむことができる。 そんなふうにしてできあがった構造体は、しっかりしている。部品に狂いがなければ、ぜんたいも、がっしりとして、あぶなげがない。 たとえば、夏の青空に、もくもくとそびえる雲がある。いうまでもなく、積乱雲であり、俗に入道雲というやつだ。しかし、そのてっぺんが、かなとこのように平らになっているときには、かなとこ雲、ともいう。さらに、この雲が出たときには、豪快な雷をともなうことが多いから、かみなり雲という呼び方もある。 もしも、この四つの呼び名を知っていれば、真夏の風物のひとつである、もくもくの雲を表現するのに、四つのことなった部品をもっていることになる。 そして、つくられる文章の性質から、四つの使いわけが自由にできるだろう。 気象学の文章だの、すこしかたく気取った文章には「積乱雲」がいいだろうし、ふつうの無邪気な文章なら、「入道雲」でよい。「かなとこ雲」は、形態からいって入道雲とちがうし、心理的な意味もややちがう。「かみなり雲」といったら、その文章では、あとに雷鳴をともなう風景の描写が予想される。 どの名まえを使うかは、構築される文章のスタイルだの、文脈だので決定されてゆくのである。 だが、かりに、この四つのことばのうち、ひとつしか知らなかったとすると、ばあいによっては、かなりチグハグな印象をあたえるかもしれない。 他のことばが俗語で書かれているのに、そのなかにポッンと「積乱雲」が使われていたのでは、バラソスがとれない。 もちろん、ちょっと異質なことばをはさむことで効果をあげる文章作法もある。 しかし、それは、かなりの修辞学的計算のうえでおこなわれるときに効果をあげるものなので、計算なしにやると、落語の熊さんのトソチンカンのごときものになったりもする。なるべくなら、その文章のスタイルのなかに、おとなしくおさまることばを使うほうがよい。そうでないと規格外の部品でまにあわせたようなもので、できあがりが不安定なのだ。 そういった事では、若者言葉を聞いていると、どこかでついひっかかってしまうことがあり、話している本題より、言葉でつまづいて聴き取れないときがある。 などと嘆いていても、いまさらどうすることもではないのであろうが…。 こんな日記でも応援しているよという方は、 [Ctrl]を押しながら、左右クリックしてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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