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カテゴリ:日替わり日記
最近親しくなった女性(と言っても、まったく深い意味はない)から、唐突に「Mさんの好きな女性のタイプはどんな人?」 と尋ねられて、ウッと返答に詰まってしまった。 そういえば、そんな質問を受けたことはもうン十年もないし、それ以上に、好きな人間のタイプはあっても異性のタイプとなると、言ってみたところでどうになるものでもないし…と。 その昔、好きになって付き合ったことのある何人かを思い返してみても、そこには何の共通性もない。容姿も性格も実にまちまちで、我ながらじつに一貫性がないなと思う。 ようするに僕は昔から、好きになったらその人が自分のタイプになってしまうようなところがあるらしい。 だからくだんの女性に「好きな女性のタイプは?」と正面切って訊かれ、うろたえてしまったのである。 この時、苦しまぎれに返した答えというのが、「少し馬鹿な人」だ。 するとその女性は、「逆に嫌いなタイプの女性は?」とたたみかけてきたから、僕も間髪を入れずに、「すごく馬鹿な人」と答えた。 まさかあなたのような人とはいえないし、それが僕の偽らざる気持である。 まず、少し馬鹿な人々というのは、文字通り少しだけ抜けたところのある人である。 おっちょこちょい、という言葉に置き換えたら近いかもしれない。ようするに何をするにつけ完璧ではなくて、どこかにチラッと弱点や欠点が見え隠れする人。憎めない馬鹿とでも言えばいいのだろうか。そういう人が(女性でも男性でも)ぼくは好きである。(ホントウは、こういう人はおリコウな場合が多い) 一方“すごく馬鹿な人”というのは、自分の愚かさを意識していない人である。 世の中には色々な馬鹿がいるけど、まったく救いようがないのは、自分が馬鹿だと思っていない馬鹿である。 勉強がよくできて、エリートコースをまっしぐらに歩んできた人にこのタイプの馬鹿は多い。このテの人たちは、勉強がよくできるということを即ち頭がいいと誤解しているふしがある。 しかし僕に言わせりゃ、学力と頭の良さは別物である。だから経済を語り語学がものすごくよくできても、やっぱり馬鹿だという人は世の中にいっぱいいる。残念なことに、日本の政治家や官僚にはこのタイプの馬鹿がやたらに多いと思う。だからダメなのである。 昔からよく言われることに性善説と性悪説というものがある。 人間の本質は、善なのか悪なのかという議論だが、僕は前者に賛成したい。人間の本質は、きっと善だと思う。いや、そう信じたい。 ならば何故、戦争や殺人や幼児虐待が起きるのかと言うと、これは人間が愚かなせいである。善だが、愚か。これが人間の本質だとぼくは思う。 だからこそ自らの愚かさを知る、という態度が重要になってくるのである。 自分のことを、つくづく馬鹿だなーと思える人は、きっと向上することができる。反省して、その馬鹿な面を改めればいいのである。あるいは逆に「馬鹿でもいいッ」と開き直り、信じた道をまっすぐに進むこともできる。世の中には正しい馬鹿というものが沢山ある。例えば古い言葉だが、 「人生意気に感ず」なんて態度は、かつての小泉竹中路線風合理主義から考えると馬鹿そのものである。しかしその馬鹿は正しい。 自らの愚かさを知る人は、こういう正しい馬鹿を実行に移すことで、人生を豊かなものにする。 一方自分のことを馬鹿だを思えない人、自らの愚かさを知ろうとしない人は、結局反省することがない。従って進歩も学習もなく、永遠に馬鹿なままである。 どうだろう。この際、自分を愚か者として意識することを起点として、生活を見つめ直してみては? 真に楽天的な人生を送るための第一歩は、ここにあると思うのだが。 脱線したが、女性の好みでいうところの「少し馬鹿」と「すごく馬鹿」の違いは、馬鹿な会話を楽しめる素養があるか否かだ。食って飲むしかできない人は「すごく」のほうだと思うし、役にも立たない高度な教養を自慢げにひけらかす人も「すごく」のほうだ。 と、自分の無教養な馬鹿さかげんを棚にあげていうのであるのだが…(-_-;)、ホントは僕を好きな人はみんな好きなんである! こんな日記でも応援しているよという方は、 [Ctrl]を押しながら、左右クリックしてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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