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カテゴリ:日替わり日記
もうだいぶ前になるが、めったに自分のものを買わないカミサンが気に入って買ったものに、素朴な画集や絵はがきがある。 有名な画家の筆によるものではなく、ねむの木学園の子供たちの描いた作品である。彼女にしては珍しくいい買物である。 「こんな絵だけれど、すごくいい!」 と、買ってきたときに興奮気味に開いて見せたのだが、目にするなり僕もはっと凝視してしまった。彼女の言う通り、本当にいいと思ったのである。もちろん技術的なことを言えば、稚拙な部分はある。専門家にみせれば、デッサンがなってない、とか、色彩のバランスが…とか、あれこれ難癖をつけるかも知れない。 しかし彼らの絵は生きている。 花も緑も動物も山も青空も、生きて呼吸をしている。僕は描く方はからっきしだが、絵を見るのは好きなので、それなりに美術館へも足を運んだりする。 しかしこれほど生きている絵を目にするのは、あまりない。理屈ではなく、胸の中へ直接飛び込んでくる何かが、これらの絵の中にはある。 ある日、中川一政という画家の随筆集を読んでいたら、実に同感できる文章に出会った。 「絵は芸術ではない」と中川一政は断言し、「絵の中に生きてうごめいているもの、それを指して芸術と呼ぶのだ」と書いている。 これは絵だけでなく、文学でも音楽でも彫刻でも、すべての表現に当てはまる。 芸術、と言ってしまうのは口はばったいが、とにかく表現の中にあって、生きてうごめいているものこそが尊いものであることに間違いはない。 カミサンが買ってきた絵の中には、その尊いものが確かにある。少なくとも僕はそれを感じた。普段はケチなカミサンにしても、やはり何かを感じたから、この本やら絵はがきやらを買ってきたのだと思う。 ぼんやりとこの絵を眺めていると、自己満足って大事だなあとつくづく思う。 この絵を描いた子供たちは、誰かのためではなく、純粋に自分を満足させるために描いている。描くことで自分を満たし、それを楽しんでいる。尊い何かは、そこから生まれている。 普通、自己満足という言葉は否定的な意味あいで使われることが多いが、決して悪いことではない。むしろいいことであると、僕は捉えている。 何かの意味で自己満足がないと、表現というものは成立しない。いや、もっと広い意味……例えば生きる上でも、自己満足は必要である、と思う。 自分で納得し、これでいいのだと思えないと、命は輝きを失う。他人が何と言おうが、まずは自己満足すること。それがなければ、人は決して前へ進むことができない。 自己満足という言葉を換言すると、自分を信じることである。 もっと大袈裟に言うなら、自らの生を肯定することである。もちろん自己満足だけで終わってしまう場合も多いがために、「自分だけいい気になってる」と非難されることもあろうが、それでも自己満足すらできない状況と比べれば、よほどマシである。 まずは自分を満たすこと。自分以外の人もいい気にさせてあげるのは、それから後の話である。 極端な意見かもしれないが、完璧に自己満足できている人は、他人をも満足させる力をもっていると思う。一人よがりで終わってしまうのは、本当に自己満足ができてないからだとも思う。 自分を満たし、満足させる。これは簡単なことのようでいて、実はかなり難しい。僕も、自分で書いた川柳や文章になかなか自己満足することができない。そんなものを他人に見せても喜んでもらえるはずがないのだとも思う。 楽しむ力、信じる力、愛する力など、様々な力がそこには必要になってくる。もしかしたら、勇気が必要なケースもあるかもしれない。 しかし、いずれにしても人は、自分を信じ、自分を満足させることを支えにしないと、生きていけない。 自分を殺し、不満足な状態で生きているのでは、命がないのと同然である。 ねむの木学園の子供たちからずいぶん教えられるのである。 こんな日記でも応援しているよという方は、 [Ctrl]を押しながら、左右クリックしてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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