下高瀬上之原、内匠日向周地、内匠日影周地(中高瀬観音山エリア)古墳前期土器編年
以前分析した中高瀬観音山遺跡の東に所在し、互いに近い距離にある3つの遺跡(下高瀬上之原、内匠日向周地、内匠日影周地)の土器をまとめて分析した。中高瀬観音山のシートに追加して集計を行った。 鏑川上中流域のエリア区分 鏑川上中流域の弥生集落分布 分類結果 中高瀬観音山(含む下高瀬上之原/内匠日向周地/内匠日影周地) 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類3つの遺跡の位置関係は以下のようになっている。「遺跡位置およびグリット配置図」[1] 《拡大可能》 1.下高瀬上之原遺跡、2.内匠日向周地遺跡、3.内匠日影周地遺跡、4.内匠上之宿遺跡弥生後期~古墳前期の各遺跡の住居址は、下高瀬上之原遺跡が古墳前期の住居4軒、内匠日向周地遺跡が古墳前期の住居1軒、内匠日影周地遺跡A区が弥生後期の住居11軒、内匠日影周地遺跡B区が弥生終末期の住居1軒をそれぞれ検出している。各住居からどのようなタイプ土器が検出されたのか見ていく。住居毎の土器類型別集計中高瀬観音山216、下高瀬上之原4、内匠日向周地11の3軒の住居はいずれもS字甕(F類の台付甕)を検出しており、その特徴から順序が分かる。下高瀬上之原4(F1, F2)→中高瀬観音山216(F4)→内匠日向周地11(F6)という順序は間違いないと思われる。〔左上〕下高瀬上之原4甕1(F1) 〔中〕中高瀬観音山216甕1270(F4) 〔右〕内匠日向周地11甕16(F6)〔左下〕下高瀬上之原4甕3(F2)3つの住居はS字甕の3つの段階を代表していると見做し、各段階の様相を考えていく。下高瀬上之原4(F1, F2)では単口縁平底甕G3が新しい印象だが、在来系の甕A1Oa、B1Paが検出されている。A1Oaは上丹生屋敷山のYA240甕1などと同じく在来系の文様が欠落したものだろう。B1Paの縄文は口縁部に僅かに施されるのみである。また底部のみの出土で千種甕か月影甕か判別できないが、この段階では北陸系が共伴していた。またこの段階には東海系の高坏G4Oaが伴っている。〔左〕下高瀬上之原4甕15(A1Oa) 〔右〕下高瀬上之原4甕16(B1Pa)〔左〕下高瀬上之原4甕8(D1) 〔右〕下高瀬上之原4甕10(G3)〔左〕下高瀬上之原4高坏18(G4Oa) 〔右〕下高瀬上之原4高坏19(?4Oa)中高瀬観音山216(F4)では単口縁平底甕はG2が1点、G3が3点出土しており、G3主体の段階か。鉢はB1とB2が2点づつでB1-B2の過渡期だろう。中高瀬観音山216の土器は以下リンク参照。 中高瀬観音山(中高瀬観音山エリア)古墳前期土器編年内匠日向周地11(F6)では単口縁平底甕はG3が3点で一番多いが、G4も2点出土しており、G3からG4への過渡期だろうか。G9Naの高坏が5点出土しており、時期的にF6段階のS字甕に対応するものと考えてよいだろう。〔左〕内匠日向周地11甕11(G4) 〔右〕内匠日向周地11高坏6(G9Na)中高瀬観音山遺跡や今回取り上げた遺跡が所在する観音山全体をながめると、樽系や吉ヶ谷系の甕からS字甕の最終段階のもの迄が出土しており、弥生後期から古墳前期の期間、ほぼ継続して人が住んでいたことが分かる。F1からF2(どちらかといえばF2か?)段階の下高瀬上之原4号住居が在来系が残る最後の段階だったのかもしれない。この段階には北陸系の甕も伴っている。先述のように内匠日影周地遺跡には弥生住居が多数あるが、今回分析したB区2号住居よりも古い(樽式3期)と判断して対象としなかった。その根拠としては縄文を持つものが無いことや、簾状文の多連止めが少ない(時期よりも科野方面の傾向を持つと考えた方が良いかもしれない)、高坏の脚部の長大傾向などである。その土器の特徴としては頸部が屈曲せず滑らかなカーブを描く甕が多い点、簾状文ではなく横線文が多いなど科野からの影響が色濃いように思えた。[1] p.6 群埋文 1995 『内匠日向周地遺跡 下高瀬寺山遺跡 下高瀬前田遺跡』に加筆その他土器の図は下記の各報告書から採った。 群埋文 1994『下高瀬上之原遺跡』 群埋文 1995『内匠日向周地遺跡 下高瀬寺山遺跡 下高瀬前田遺跡』 群埋文 1995『中高瀬観音山遺跡』にほんブログ村