人生は決まっているのか?変えられるのか?
質問 なぜ、私の人生は失敗ばかりなのかありがとう仙人さん、こんにちは。メール相談はしていないなのは承知で質問させていただきます。私の人生は、失敗ばかりです。中学のときに、いじめられて不登校になり、高校では、自分の第一志望の大学に落ち、最近は恋人にふられてしまいました。なぜ、私の人生は失敗ばかりなのでしょうか。人生とは決まっているのでしょうか?それとも変えられるのでしょうか? 「失敗」という概念は、単独では成り立たない概念です。「失敗」という言葉を使うときは、必ず、何かと比較しています。 比較すると、錯乱状態になります。例えば、不登校で言うと、「周囲の人は、毎日学校へ通っているのに、それに比べて私は…」と比較することによって、失敗したと解釈しているのです。 もし、不登校を対象とした通信制高校サポート校に入学したら、「周囲は皆、私と同じ体験者ばかり」という安心感を得るでしょう。すなわち、比較することによって、不安と安心の両方を体験するのです。これを錯乱状態といいます。なぜ、比較するのでしょう。貴女は、小さい頃から、親や教師から教わりました。「人より努力して、良い成績をとるのよ」、「たくさん勉強して立派な人になるのよ」と…。人よりテストの点数を上げることに努力し、運動会では競争に勝つことを目標とし、また、テレビで成績優秀者への賞賛を見てきました。こうして、貴女は、「そうか、努力して人より抜きん出ないとダメなのかぁ」という固定観念を潜在意識にしまい込んだのです。この「思い込み」によって、貴女は苦しんでいるのです。 そして、常に他人を意識して生きるようになりました。そのことに疑問も抱かずに…。周りも努力して人より優秀な成績を修めることを第一として生きている人達ばかりなので、疑問を抱かないのは当然です。 しかし、いい機会なので、考えてみましょう。なぜ、人より抜きん出ようとするのかを。本当に良い結果が出せない人は、価値がないのでしょうか。 貴女はペットを飼っていますか。猫を飼っているとします。猫の一日を観察してください。ただ、食べて寝ているだけです。良い結果など出していないですよね。でも、猫がいるだけで貴女は満足するはずです。猫が存在してくれているだけでいいのです。人間も同じです。存在していることに価値があるのです。「もし、あなたが存在していなかったら、今の宇宙は存在していない。あなたの存在が今の宇宙を存在させているのだ」(釈迦)「良い結果」というのは、貴女の存在にプラスされた小さな価値でしかありません。存在あっての結果です。我々の一番の価値は、存在です。そのことに気づいてください。さて、「失敗」と判断しているのは、誰でしょう。貴女は自分が判断していると思っていませんか。今、自分と思っている自分は自分ではありません。私とは、自我(顕在意識)と生命(潜在意識)の二人によって構成されています。自我というのは、この現象世界で様々な体験をするために、生命によって創られた道具です。その道具である自我は、認識できるがゆえに自分だと錯覚しがちです。が、本当の自分は、感覚することができない全智全能の生命です。 先も言いましたが、「失敗」と解釈しているのは、道具である自我で、本当の自分である生命は、「全ては上手くいっている」と知っているのでニコニコです。 なぜなら、人生に起こる全ての出来事は、生命が創造しているからです。今まで自分だと誤解してきた自我には、出来事を起こす力はありません。自我が出来事を起こしているわけではないのに、起きてきた出来事について、「成功」とか「失敗」とか、勝手に判断して喜んだり落ち込んだりしているのです。面白いと思いませんか。自我には、それが良い出来事なのか、良くない出来事なのか、絶対にわかりません。自我のすることは、「これをしよう」と選択することです。その望みが叶うかどうかは、生命にお任せするのです。自我と生命は役割が違うのです。 悩みや苦しみの原因は、実は一つです。今の状況が、「自分の思い通りではない」ということだけです。全てが「思い通り」と感じていたら、苦しみは湧いてきません。「思い通りではない」と判断したとき、悩むのです。「思い通りではない」と思っているのは、自我です。内なる生命から見れば、「全て思い通り」なのです。どちらの観点から見るかの違いです。今までは、自我が自分だと思い、自我の観点から見て生きてきたので、「思い通りではない」と判断して苦しんでいたのです。だから、これからは、本当の自分である生命の立場から見てはどうでしょう。生命の立場から見ると、全て「思い通り」なので、悩みが消えてしまいます。さて、「思い通り」とは、どういう思いが「思い通り」だと思いますか。 我々は、生まれる前から存在していたのです。トロント大学のホイットン博士は、「私は、生まれ変わりなど信じていなかったが、実験結果から、生まれ変わりが真実だということを認めざるをえない。我々は、かつて前世を生きたことがあり、来世も生きるだろう」と発表しました。また、アルメダー博士は、「我々は、死後も生き続けることは、誰でも認められる証拠によって明らかである」と発表しています。 我々の生命は、生まれる前に、自分の人生の計画書を設計し、生まれた後は、その計画書通り生きています。過去に起きたことは、全て計画通りだし、今の状況も全て計画通りで、これから起こることも計画通りなのです。生まれる前に、自分の性別、両親、国、出会う仲間など、自分が体験したいことを達成するのにふさわしい状況を設計して生まれてくるのです。 釈迦は前世で臨終の際に、周囲の人たちに言っていました。「私は、今度、釈迦族の王子として生まれる。私の母はマーヤーという人で、私の父はスッドーダナという人だ。母は、ある日、象が自分の脇の下に入る夢を見る。母がルンビニー園で、しゅろの樹の下に立つとき、私は生まれる。そして、すぐに七歩歩く」そして、その言葉通り、紀元前四六三年ごろ、釈迦は生まれた。 「人生が決まっているのか」、「人生は変えられるのか」、それはどちらでもいいことです。 釈迦に、こういう話があります。朝、釈迦にある男が尋ねた。「私は、人生は変えられると思っています。人生は変えられますか?」「人生は変えられるかって!人生は決まっています」「エッ。あなたは、人生は変えられると説いているといわれて来たのです」「それは違います。私は、人生が決まっていることを説いているのです」昼頃、ある男が尋ねた。「私は、人生は決まっていると思っています。人生は決まっていますか?」「人生は決まっているかって!人生は変えられます。決まってはいません」「エッ。あなたは、人生は決まっていると説いているといわれて来たのです」「それは違います。私は、人生が変えられることを説いているのです」夕方になって、ある男が尋ねた。「私は、人生が決まっているのか、人生は変えられるのか、わかりません。教えてください」「私がわかるはずないじゃありませんか」「エッ。あなたは、悟りを開いた智者だと聞いてきたのです」「それは違います。私は無知な者です」 しばらくして、一緒にお供をしていたアーナンダは釈迦に尋ねた。「私は、頭が割れそうです。あなたは、朝は人生は決まっていると言い、昼は変えられると言い、夕方はどっちか分からないと言いました。何が何だか分かりません」「アーナンダよ。答えなんかどうでもいいのだ。大事なのは、誰に言ったかなのだ。朝の男は、人生が変えられると信じていた。が、そのせいで苦しんでいたのだ。だから、私に確認しに来たのだ。私に人生は決まっていると言われて朝の男は救われたのだ。昼の男は、人生が決まっていると信じていた。が、そのせいで苦しんでいたのだ。だから、私に確認しに来たのだ。私に人生は変えられると言われて昼の男は救われたのだ。夕方の男は、人生について何も考えていなかった。ただ、私が来たというので質問をしてみただけだった。だから、私は答えるわけにはいかなかったのだ。答えれば、その言葉を信じ込み、偏った考えで生きることになるからだ」自我には、未来は分かりません。だから、自我の立場から見れば、人生は変えられると言えます。人生の創造主である生命(魂)は、全てを知っています。だから、生命の立場から見れば、人生は決まっていると言えます。どちらも、同じ説明です。どちらの立場で見るかの違いです。貴女は、今まで、自我の立場で生きてきました。その結果、今苦しんでいます。だから、今度は生命の立場で生きることをお勧めします。そうして、ニュートラルになるのです。 生命から見ると、いじめも不登校も大学も失恋も計画通りに進んでいるということになります。全てが「思い通り」ということです。第一志望の大学に合格しなかったのは、生命にとっては、その大学は第一志望ではなく、合格した大学が第一志望だったのです。全ては予定通りだとしたら、「失敗」という概念は消えます。「人生は決まっている」という立場を採用すれば、人と比較しなくなります。この考えは、今の貴女を救います。全ては上手くいっていると決めて、起きてくることに委ねてみてください