カテゴリ:本の感想(な行の作家)
夏目漱石『坊っちゃん』 ~~新潮文庫、1995年105刷(1950年初版)~ 大好きな作品です。今回何度目かの再読をしました。 親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている―。そんな「おれ」が、勢いで学校を出て、四国のある村の中学校に赴任することになります。 同じ数学の山嵐とはウマがあいそうだと思いながら、ある出来事をきっかけにケンカになってしまい、どうも話せなくなったり。教頭の赤シャツは割合良い奴かもしれないと思ったものの、やはりいやな奴だと分かったり。 生徒にもいたずら、嫌がらせをされ、何度となく東京へ帰ろうと思いながら過ごす日々が描かれています。 なんといっても勧善懲悪が痛快です。この主人公くらい真っ直ぐな人が多ければ、世の中こんな悲しいことも少ないだろうに…と思ってしまいます。主人公も子供の頃はいたずらっ子ですが、しかし彼はきちんと謝ることを知っています。悪いことをしてへらへらとそれから逃れようとする、生徒たちや赤シャツ、野だのような人たちがとても対照的ですが、しかし現実にはこういう人たちも多々いて。 ちょっと思ったのは、同じ勧善懲悪でも、水戸黄門などのような時代劇とはさっぱり違うこと(これほどの作品と時代劇を比べること自体不遜ですが…)。 何が言いたいかというと、主人公が、果たして赤シャツは悪い奴なのかどうかと悩むシーンがあることです。時代劇では、悪代官は徹底的に悪ですが、たとえば女中さんが何かで困っているときにすっと代官さんが助けたり、あるいは(まずないのでしょうが)町人に優しい言葉をかけたり、というシーンが少しでもあれば、どれだけ越後屋さんと悪だくみをしていても、ずいぶん印象が変わってくるだろう、ということ。 赤シャツはずるい人間ですし、この物語の終わり方を思うに(解説も参考にさせてもらいましたが)、今後もずるい人間のままかもしれません。けれども、懲らしめようと心を決める前に、主人公はじっくり考えています。なんだか今回は、そのシーンが印象に残ったので、とりとめがなくなりましたがちょっと書いてみました。 痛快といえば、終盤の卵のシーンが大好きです。 そして今回、あらためて物語のなかで清さんが果たす役割の大きさに感動しました。 好きなシーンはたくさんありますが、今回ふせんを貼ったところを、文字色を変えて掲げておきます。 「考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく方法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大に感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツより余っ程上等だ」(51頁) 100年以上も前に書かれた(注:坊っちゃんは1906年に書かれたそうです)社会批判が、現代にもそのまま通用すると思うと、人間の進歩のなさを感じると同時に、なんだか悲しくなってきますね…。 (2009/10/12読了)
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