54.硫黄島玉砕(4) 短期攻略の必要性から、毒ガス攻撃が立案された
〈ウツボ)硫黄島の死闘は、結果的に日本軍の陸軍戦死者12723名、海軍戦死者7406名で合計21029名の戦死者がでた。生還者は1023名だった。(カモメ)米軍は戦死者6821名、戦傷者21865名。だから米軍の死傷者は28686名ですね。(ウツボ)だから死傷者の合計でいうと、日本軍よりアメリカ軍のほうが多かった。この硫黄島の戦いで、米軍は想像を越える損害を蒙った。(カモメ)さらにその後の4月からの沖縄戦でも米軍は44000人の死傷者を出しました。(ウツボ)だから、この硫黄島と沖縄の戦いの結果、その損害の多さにより、アメリカはその後の戦略を変更した。(カモメ)日本本土に上陸し、日本本土にまだ残っている日本軍120個師団と戦ったら、米軍の損害は250万人に達する可能性が出て来ると、試算されました。そうなると、とんでもないことになり、大統領は首が飛ぶことになる訳です。(ウツボ)それでアメリカは九州上陸作戦を延期して、条件付の和平提案「ポツダム宣言」を発したんだね。(カモメ)今までの世界の敗戦国で、領土保全の確約を得た上で、降伏した国は日本だけです。他の敗戦国は皆領土に侵入され、多大な被害にあっています。(ウツボ)そうだね。ところで、硫黄島までの戦況の流れをみてみよう。(カモメ)硫黄島の戦いとの比較をする訳ですね。(ウツボ)昭和19年6月15日、米軍はマリアナ列島のサイパン島に上陸した。上陸から1ヶ月もしない7月6日までに日本軍44000人は全滅した。それに対して米軍の戦死者は3441人だった。(カモメ)9月15日、米国海兵隊はフイリピンの東にあるぺリリュー島に上陸しました。11月25日までに約10000人の日本軍守備隊は全滅した。米軍の戦死者は1684人でした。〈ウツボ)このぺリリュー島の戦いが2ヶ月ももったのは日本軍司令官が米軍が上陸中の水際での初期戦闘を回避して、内陸部で地形に隠れて、温存した兵力で持久戦を行ったからだ。(カモメ)そうですね。栗林中将は、これに注目したのですね。その結果、硫黄島での戦いは米軍の上陸中の水際での戦いは放棄することに決めた。そして、巨大な地下トンネル陣地を掘り、防御戦での立案を行った。(ウツボ)栗林中将はアメリカ留学経験から米軍の研究を行っており、その強大さを知っていたからこそ、硫黄島での作戦を部下に任せず、自ら細微に渡って検討した。その結果、地下トンネルを掘り、硫黄島を頑固な要塞化にする事にした。時間が足らず、開戦時はまだ未完成ではあったが。(カモメ)その結果米軍は硫黄島に昭和20年2月19日上陸し、5日間で占領する予定だったのが、3月26日の玉砕まで1ヶ月以上もかかりました。米軍は多大な損害を出すことになりました。(ウツボ)日本歴史シリーズ21「太平洋戦争」(世界文化社)によると、サイパン攻略にあたったH・スミス海兵中将が第三、第四、第五海兵師団約七万五千人を率いて硫黄島を攻撃した。すぐ後に沖縄戦が控えているので、攻略期間は5日間と指定されていたんだ。(カモメ)J・フォレスタ海軍長官も観戦に同行していましたね。米軍は情報によって、栗林中将が硫黄島に堅固な洞窟陣地を構築している事をすでに察知していました。(ウツボ)うん。その事実と短期攻略の必要性から、毒ガス攻撃が立案された。だが、最後の段階でルーズベルト大統領に否決されたんだ。(カモメ)いくらなんでも、毒ガスは人道的に問題があると。(ウツボ)人道的といえば聞こえは良いが。そう単一的なものでもなかった。一つには、大統領として歴史に汚名を残したくなかったということもあっただろうね。(カモメ)けれども、ルーズベルト大統領の決定で、毒ガス攻撃は中止になった事は事実ですよね。議会は決議していたのに。(ウツボ)しかしそれは、大統領としても、結局人道的というより、戦略的な計算を優先させた。(カモメ)勝つ為にですね。戦争というものは、勝つための手段は選ばないですよね。普通は。(ウツボ)しかしね、硫黄島の時点で、大統領はこの戦争で、米国の勝利を、ほぼ確信していた。毒ガスは使用しないでも短期間に勝てるとの判断があったんだ。(カモメ)だが、硫黄島は思ったより長くかかってしまった。米軍がすでに上陸しているので、もはや毒ガスは使えない。(ウツボ)硫黄島の戦いの結果、日本に上陸すれば計り知れない損害が米軍に出ると予測した。するとその途端、原爆を使う方法論を検討し始めた。それが大統領の戦争だ。人道的ではない。戦略だ。