527.陸軍大将異聞(27)小磯は性格がハッタリであったから、用心して話を聞かねばならなかった
(カモメ)小磯國昭少佐は、大正三年八月に、内モンゴル、中国に出張を命じられ、「葛山」という偽名を使って一年余り調査活動を行ったのですね。(ウツボ)そうだね。帰国すると、小磯少佐は「帝国国防資源」を書いた。その文章の中に、日本と朝鮮を結ぶ『海底トンネル』を作ることを提案している。これが、面白いことを考える奴だ、と注目されることになった。(カモメ)ですが、小磯少佐は、この発案は菊池門也(きくち・もんや)砲兵大尉(岐阜・陸士一八・砲工高一六・陸大二七・陸軍大学校兵学教官・独立山砲兵第三連隊長・砲兵大佐・野戦重砲兵第一連隊長・支那駐屯軍参謀長・少将・舞鶴要塞司令官・野戦重砲兵第三旅団長・中将)であると述べていますね。(ウツボ)大正七年七月歩兵中佐(三十六歳)、八月第一二師団参謀、九月免兼陸軍大学校兵学教官。大正八年四月参謀本部作戦課兵站班長、九月兼陸軍大学校兵学教官。大正九年九月免兼陸軍大学校兵学教官、十一月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(カモメ)小磯中佐は、大正十年七月陸軍航空部員(欧州出張)。大正十一年二月歩兵大佐(四十歳)、十一月ヨーロッパ出張。大正十二年三月陸軍大学校兵学教官、八月歩兵第五一連隊長。(ウツボ)大正十四年五月参謀本部編制動員課長、六月兼陸軍歩兵学校研究部員、七月兼陸軍通信学校研究部員、八月兼陸軍大学校兵学教官。大正十五年十二月少将(四十四歳)、陸軍大学校兵学教官。(カモメ)小磯少将は、昭和二年七月陸軍航空本部総務部長。昭和四年八月陸軍省整備局長。昭和五年八月陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長、十一月勲二等瑞宝章。昭和六年八月中将(四十九歳)。昭和七年二月陸軍次官、八月関東軍参謀長兼特務部長。(ウツボ)この当時から、小磯少将は典型的な政治軍人として頭角を現してきた。だが、小磯國昭の評判は、あまりよくないものも多かった。(カモメ)そうですね。戦後、佐藤栄作首相のブレインだった鈴木貞一(すずき・ていいち)元陸軍中将(千葉・陸士二二・陸大29・陸軍省新聞班長・歩兵大佐・陸軍大学校教官・内閣調査局調査官・歩兵第一四連隊長・少将・第三軍参謀長・興亜院政務部長・中将・興亜院総務長官心得・予備役・国務大臣兼企画院総裁・貴族院議員・内閣顧問・戦後A級戦犯で終身禁錮刑・赦免・佐藤栄作ブレイン)は小磯國昭について次のように語っています。(ウツボ)読んでみよう。「小磯は性格がハッタリであったから、用心して話を聞かねばならなかった。世渡りの上手な人だった」。(カモメ)小磯中将は、昭和九年三月第五師団長、正四位、四月勲一等瑞宝章、勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章。昭和十年十二月朝鮮軍司令官。昭和十二年四月従三位、十一月大将(五十五歳)。昭和十三年七月予備役、八月正三位。(ウツボ)小磯大将は、昭和十四年四月第十五代拓務大臣。昭和十五年一月第十七代拓務大臣。昭和十七年三月満州国勲一位竜光大綬章、五月朝鮮総督。昭和十九年七月第四十一代内閣総理大臣、八月従二位。昭和二十年四月内閣総辞職、終戦後、十二月A級戦犯容疑で逮捕。(カモメ)昭和十九年七月十八日、サイパン陥落の責任を取り、東條英機内閣は総辞職しました。重臣会議の結果、小磯國昭大将が首相に指名され、七月二十二日小磯内閣が発足したのですね。(ウツボ)そうだね。だが、小磯大将は予備役のまま首相に就任したため、元首相の米内光政海軍大将を海軍大臣として入閣させ、副首相とし、「小磯・米内連立内閣」として発足させた。(カモメ)昭和天皇は、「小磯・米内連立内閣」について、次の様に話していますね。(ウツボ)読んでみよう。「私は、小磯は三月事件にも関係があったと言われているし、また、神がかりの傾向もあり、且経済のことも知らないから、稍稍不安もあったけれど、米内平沢の二人が勧めるので、不本意乍ら、小磯に大命を下すことにした」(カモメ)「初めは小磯単独の積りだったが、急に近衛が来て、米内と連立にした方が良いと言うので、再び重臣の意見を聞き、二人に大命を下した」。(ウツボ)小磯國昭大将が総理大臣に就任した時、「なんだ、海軍はこんなに負けていたのか」「陸軍もそういえば負けているなあ」などと言ったという。小磯大将は予備役だったので、戦況の実態を把握していなかった。(カモメ)小磯國昭大将は、陸軍大学校の卒業成績は五十五人中三十三番でした。この位の成績で大将、総理大臣にまで出世した軍人はいませんね。(ウツボ)いないね。出世の理由としては、まず、宇垣一成(うがき・かずしげ)大将(岡山・陸士一・十一番・陸大一四・三席・軍務局軍事課長・少将・歩兵学校校長・参謀本部第一部長・参謀本部総務部長・陸軍大学校校長・中将・第一〇師団長・教育総監部本部長・陸軍次官・陸軍大臣・大将・軍事参議官・陸軍大臣・予備役・朝鮮総督・内閣参議・外務大臣・拓務大臣・拓殖大学代学長・戦後参議院議員・正二位・旭日大綬章・レジオンドヌール勲章)の側近であったこと。(カモメ)そうですね。小磯國昭は少将に進級後、宇垣大将の後押しで陸軍省軍務局長に就任し、評判はあまり良くなかったが、その後、陸軍次官にまで上りつめ部内の注目を浴びましたね。(ウツボ)さらに、社交的で人から好かれる性格、かつ自分の士官学校、陸大での成績の悪さをもとに開き直った度胸のある態度、意外とも思える幅広い知識、構成が巧みで表現力の豊かさで、人を引きつける演説などで、次第に頭角を現していった。(カモメ)しかしながら、このように、「朝鮮の虎」として期待されて首相に就任した小磯國昭大将は、思われたほど力振わず、辞職する時は「木炭自動車」と称されたのですね。(ウツボ)そうだね。当時、木炭自動車はガソリン欠乏の時世の代用燃料車で、ノロノロと走り、いざという時に間に合わず、いつエンストするか分らないものだった。(カモメ)結局、「小磯・米内連立内閣」は八か月半の短命内閣に終りましたね。