531.陸軍大将異聞(31)蒋介石は安藤大将の自決を聞いて「なぜ、死んだのか」と絶句した
(カモメ)この事件は、台北を爆撃したアメリカ海軍第三艦隊所属の爆撃機が日本軍に撃墜され、捕獲されたアメリカ軍パイロットなど十四名が、無差別爆撃の罪で日本軍の軍事裁判にかけられ、死刑の判決を受け、昭和二十年五月二十日処刑されたという事件ですね。(ウツボ)そうだね。だが、安藤大将は、自分が戦犯に問われるとは思ってもいなかった。昭和二十一年四月十五日、安藤大将ら日本人戦犯は、台北から上海に送致され、監獄に収容された。(カモメ)アメリカ軍特設法廷は四月十七日に開廷し、非公開で、審理は一審のみで、控訴は認められないという非民主的なものでした。(ウツボ)法廷で、検察官のジュネーヴ協定違反という追及に、安藤大将は「日本の戦争法規では軍事目標以外の施設への爆撃、破壊、非戦闘員への無差別攻撃を禁止し、それを犯した者は厳罰に処すとある。この軍律により処断した」と陳述した。(カモメ)そして、最後に安藤大将は「台湾で起こったことは、軍司令官の私が全て責任を負う」と締めくくりました。四月十八日午後八時過ぎ、安藤大将は独房で「全責任は軍司令官たる自分にある。参謀長以下には責任がない」という趣旨の遺書を記したのです。(ウツボ)その翌日の四月十九日、安藤大将は衣服に隠し持っていた青酸カリを口に含み、息絶えた。部下に類が及ばないようにとの軍司令官としての配慮だった。(カモメ)中華民国を率いる蒋介石は安藤大将の自決を聞いて「なぜ、死んだのか」と絶句した。そして、その死を惜しんだと言われています。蒋介石は台湾の戦後復興に安藤大将の力を借りたいと考えていたのですね。(ウツボ)それはね、敗戦直後、台湾の進歩的知識人と日本軍人有志が台湾独立を企てたのを、安藤大将が押さえて、中止させたことに、蒋介石は感謝していた。(カモメ)蒋介石は、安藤大将の力量と人格を評価していましたね。(ウツボ)安藤大将は、識見のある軍人だったが、不運だった。【山田乙三(やまだ・おとぞう)大将】 (カモメ)山田乙三は、明治十四年十一月六日生まれ。長野県出身。成城学校を経て明治三十四年五月陸軍中央幼年学校卒業(成績六十五番)。明治三十五年十一月陸軍士官学校(一四期)卒業(成績百二十五番)。(ウツボ)明治三十六年六月騎兵少尉(二十二歳)、騎兵第三連隊附、日露戦争出征、チフスに罹り後送。明治三十八年二月騎兵中尉(二十四歳)、陸軍士官学校馬術教官。明治三十九年四月功五級金鵄勲章。(カモメ)明治四十二年十二月陸軍大学校入校、騎兵第三連隊附。大正元年九月騎兵大尉(三十一歳)、騎兵第三連隊中隊長、十一月陸軍大学校(二四期)卒業(成績五十四名中、二十五番)。大正二年八月参謀本部員。(ウツボ)大正三年十一月兼陸軍騎兵実施学校教官。大正五年十二月免兼陸軍騎兵実施学校教官。大正七年一月兼陸軍大学校兵学教官、六月騎兵少佐(三十七歳)、陸軍騎兵学校教官。大正十一年八月騎兵中佐(四十一歳)、騎兵監部員。大正十三年二月騎兵第二六連隊長。(カモメ)大正十四年八月騎兵大佐(四十四歳)。大正十五年三月朝鮮軍参謀。昭和二年七月参謀本部通信課長、十月兼陸軍通信学校研究部員。昭和三年一月兼陸軍大学校兵学教官。昭和五年八月少将(四十九歳)、陸軍騎兵学校教育部長。昭和六年八月騎兵第四旅団長。(ウツボ)昭和七年八月陸軍通信学校長。昭和八年八月参謀本部第三部長。昭和九年二月勲二等瑞宝章、四月勲二等旭日重光章、八月中将(五十三歳)、参謀本部総務部長。昭和十年八月兼参謀本部第三部長、十月陸軍士官学校長。昭和十二年三月第一二師団長、四月正四位。(カモメ)昭和十二年十二月満州牡丹江の第一二師団長・山田乙三中将の元へ、「参謀本部附仰付」の内示が届きました。これは予備役編入の配置だったのです。(ウツボ)山田中将は「なんと人事局のヤツは無情な事をするのか。二ケ月後には瑞一(勲一等瑞宝章)がくるはずなのに」と嘆いたと言われている。(カモメ)それが上司で同じ騎兵出身の関東軍司令官・植田謙吉(うえだ・けんきち)大将(大阪・陸士一〇・陸大二一・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官)の耳に届いたのですね。(ウツボ)そうだね。植田大将は陸軍大臣・杉山元(すぎやま・げん)大将(福岡・陸士一二・陸大二二・陸軍省軍務局航空課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・教育総監・第一総軍司令官・自決)宛てに、「指揮官不足のおりから、山田中将を現役にとどめるよう」要請する電報を発した。(カモメ)山田中将は、昭和十三年一月に関東軍の下に新設された、第三軍司令官に任命されました。山田中将は新京で司令部を編成すると、そのあと、牡丹江に戻り、第一二師団長官邸を格上げして軍司令官官邸として使用しました。