テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:潜水空母・伊401
(ウツボ)花見は楽しかったね。周防大島町の瀬戸公園は、意外によかった。大島大橋や大畠の瀬戸をはるかに見下ろして、心が晴れやかになりました。桜も満開できれいだったし、瀬戸内の海の景色を眺めながら、花見弁当もお酒も美味だったね。
(カモメ)それにしても、今年の花見は昨年と比べて参加者倍増で、すごい陣容でしたね。ウツボ先生とカジカ先生、俺とアカエイ君、渚さんとアオザメさん、ヒラメと友人のクマノミちゃん、それにコノシロ君の奥さんのサヨリさんと、総勢九名が、ワイワイガヤガヤと、賑やかだったですね。 (ウツボ)特に盛り上がったのは、カジカ先生とヒラメだった。二人とも意気投合というか、乗りまくって、掛け合い漫才みたいで面白かったね。 (カモメ)確かに面白かったけど、ヒラメもよくやりますよ。あれで、女の子のつもりなんですかね。もう少し、しおらしさがないと。 (ウツボ)いやいや、見方によっては、ヒラメは、あれで、やまとなでしこそのものなのだよ。それに男も女も、元気で楽しい人が一番だよ。酒飲んだ時は、なにより楽しくやればいいんだ。もうそれだけで、百点満点ですよ。 (カモメ)俺なんか、聞き役ばかりでしたよ。 (ウツボ)でも、カモメさんも、ずいぶん楽しそうでしたよ。 (カモメ)ええっ、そう見えましたか。 (ウツボ)そう見えましたどころか、察するに、誰かに恋しているんじゃないか、と思えるほど、目が生き生きとしていましたよ。 (カモメ)いえいえ、ウツボ先生、それは、桜と海、その美観のせいですよ。 (ウツボ)それを言うのなら、桜と海と、女でしょう。ヒラメもクマノミちゃんも、サヨリさんも、みんな桜をしのぐ、美しさだった。それは凄いものでした。花と女と、代わる代わる愛でながら、盃を干して。俺のこころも久しぶりに満開になりましたよ。 (カモメ)ハハハ、ウツボ先生も、お酒ばっかりと思ったら、見るところはちゃんと、見ておられたのですね。 (ウツボ)まあね。カモメさんも、誰か気になる人、いるのじゃないか。 (カモメ)いえいえ、俺は食いしん坊ですから、そっちばかりでした。それはそうと、今度、サヨリさんも戦史対談に参加されたいと言っておられましたね。 (ウツボ)あっ、そうだね。話のなりゆきから、そういうことになったけど、大歓迎だね。 (カモメ)彼女は、乃木希典研究だけでなく、太平洋戦争を含めた戦史もかなり勉強しておられますよ。 (ウツボ)そうなんだ。花見の時に話したけど、サヨリさんは戦史全般について、かなり詳しく突っ込んだ話し方だったから、嬉しかった。こちらが教えてもらった位だよ。 (カモメ)期待できますね。花見の話はこれくらいにして、そろそろ潜水空母にはいりましょうか。 (ウツボ)オーケー。桜ときたら海軍だからね。帝国海軍の巨大潜水艦、潜水空母の物語だね。海底空母、潜特型(せんとっけい)とも呼ばれるけどね。 (カモメ)「米機動艦隊を奇襲せよ!」(南部伸清・二見書房)によると、潜水艦に飛行機を搭載するという発想は、第一次世界大戦が終わる、一九一八年、イギリス海軍が世界で最初に実行に移しましたね。 (ウツボ)そうだね。英国海軍のM級潜水艦(一九五〇トン)の一二インチ砲をはずして、水防の格納庫を設け、その前方の甲板上にカタパルトを設置、ベトという小型水上偵察機を射出できるようにした。 (カモメ)水偵は飛行作業が終われば着水し、格納庫の上のクレーンで吊り上げて分解、格納しました。 (ウツボ)アメリカでも一九二〇年頃、S級潜水艦の艦橋後方に格納筒を設け、小型複葉水上機を搭載、発進は潜水艦の後尾を沈めて、水上機を浮かせた。イタリアでも飛行機を搭載したことがある。 (カモメ)しかし、いずれも実験的なもので、その後の発展は無く、実用的に使用されなかったようですね。 (ウツボ)それでも、一九三四年(昭和九年)、フランスが当時世界最強の潜水艦スルクーフ(水上排水量二八八〇トン)を誕生させたが、この艦には飛行機が搭載されていたんだ。 (カモメ)当時排水量二八八〇トンといえば、かなり大きい潜水艦ですね。 (ウツボ)ああ、当時世界最大の潜水艦だった。ところが、二年後に犠牲者を出したことと、フランス海軍作戦上飛行機搭載の価値が認められず、その後飛行機搭載は無くなった。 (カモメ)これら、世界列強のなかで、日本海軍だけが、飛行機搭載潜水艦を積極的に推し進めたのですね。 (ウツボ)そうだね。日本帝国海軍だけが研究を続けた。その結果、昭和九年、水上機を搭載した伊五がはじめて艦隊に参加、その後、伊六型、伊七型、伊九型、伊一五型ほか、ぞくぞくと水偵を搭載する潜水艦が建造された。 (カモメ)昭和十六年十二月八日、開戦時、ハワイに集中した第六艦隊の潜水艦三〇隻のうち、一〇隻が小型水偵を搭載していました。 (ウツボ)十二月十七日早朝、日本海軍の潜水艦搭載機が実戦ではじめて使用された。第二潜水戦隊旗艦の伊七(艦長・小泉麒一中佐)が、島陰を利用して搭載機を発進、真珠湾攻撃の効果を確認した。 (カモメ)また、軍令部潜水艦主務参謀・井浦祥二郎中佐(海兵五一・海大三三)が立案した作戦も実行されました。昭和十七年八月十五日、横須賀を出港した伊二五(艦長・田上明次中佐(海兵五一)・二五八四トン)は、九月、アメリカ西海岸のオレゴン州沖に進出、九月九日と二十九日、藤田信雄飛曹長操縦、奥田省三飛行兵曹偵察による零式小型水偵が、七六キロ焼夷弾二個をもって、二回に渡ってオレゴン州ブランコ岬付近の森林地帯を焼夷弾爆撃し、山火事を起こさせました。 (ウツボ)「幻の潜水空母」(佐藤次男・図書出版社)によると、藤田飛曹長が落とした七六キロ焼夷弾は、破裂すると五百二十個もの小型焼夷弾となって、百メートル四方に飛散し、千五百度の高温で三十秒間燃えるというものだった。藤田飛曹長は後に、その爆撃の模様を次の様に語っている。 (カモメ)読んでみます。「樹木の深いオレゴンの山上で、私は第一弾を投下した。下を見るとピカピカと発火し四方に飛び散り、森林火災が起きた。私はこれで四月十八日のドーリットルの東京空襲に報いることができたと満足感で一杯だった」 (ウツボ)続けて読みます。「さらに東に数海里飛んだところで第二弾を投下した。またもや爆発が起き、目がくらむような白い花火が飛び散った。成功だ」 (カモメ)次を読みます。「その後、第二回の爆撃は二十日後の二十九日の真夜中、月齢十三の明るい夜だったが、帰投時母艦をなかなか発見できず、苦労の末ようやく見つけて着水、収容された」 (ウツボ)この時、米国のこの地方では季節はずれの大雨があった後だったので、大火災を引き起こすまでには至らなかった。だが、米国の軍や国民を大慌てさせたことは確かだった。この爆撃が日本軍航空機による最初で最後の米国本土攻撃だった。 (カモメ)「還らざる若き英雄たちの伝説」(光人社刊)には、伊二五飛行長だった藤田信雄飛曹長が、このとき日本軍が行った最初で最後の米国本土攻撃のパイロットとして手記を寄稿しています。 (ウツボ)そうだね。この米国本土攻撃の詳細が記されている。それによると、昭和十七年八月上旬、横須賀軍港の岸壁に係留されていた伊二五潜水艦でゆったりくつろいでいた飛行長・藤田信雄飛曹長は、軍令部第三課に出頭命令を受け取った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.08.15 09:24:59
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