その人の父親は、この峡谷に流れ着いたどこの馬の骨とも知れぬ小生をなにかと引き立ててくれた。知り合ったときには市長という彼の肩書きは既になくなっていたが、彼の人柄を慕う人たちが、同じように小生を遇してくれた。彼が亡くなってもう数年になる。しかし、そのおかげでただ一人の知人もないこの地域で、今なお多少とも使ってもらえるものと思っている。
彼には、ちょうど同じ頃、この地域にUターンした、小生より10歳ばかり年長になる息子が居て、彼の死の前後からはもっぱらその息子との付き合いの方が多くなった。まだ還暦を迎えたばかりで、山にも登れば、不得手な酒席にもつき合ってくれた。知人一人いないこの峡谷に向こう水にも飛び込んできた「旅の人」を、彼の父親がそうしたように、彼もまた温かく受け入れてくれた。
数年前に父親を送り、昨年には母親を送り、その整理も済まないままだといいながら、体調を崩したといって急に入院することになったと言ったのが昨年暮れ、正月早々に入院し、何度か手術をした。病状については、入院時既にかなり進んでいたらしく、詳しいことは言わなかったが、彼は覚悟していたようだ。何度か見舞いに幾たびにやせ細っていくのがわかったが、努めて差し障りのない会話をした。落胆しているのがわかった。病床でも、本来であればこの春就職する筈の、末の息子のことを気にしていた
昼頃、共通の知人から連絡が来て、彼の死を知った。如何ともしがたい。
親の世代ならわかる。しかし、最近、同世代の友人たちの訃報に接することが多くなってきた。
体力がない割に、山は好きだった。よく1人、目を細めて遠くをみていた。
遺族も持っていないだろう、ここ10年ぐらいの彼の写真データを整理しながら、自分も折り返し地点を過ぎた、いつ逝ってもいいように遺影用の写真を用意して置かねばならないと膨大な写真データを前に考えた日であった。