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テーマ:自己啓発すすめ(778)
カテゴリ:人生を楽しもう♪
第5章【青年期(社会人生活その2)】 <将来に向けての決断> 私としては、チョウさんとヤマさんとの仕事がとても楽しく、実際に日々学ぶことも多く、近い将来に会社にするぞという目標をもとに頑張っていました。 また、プライベートでも、付き合いを再開した彼女と具体的に結婚に向けて話をするようになった時期でもありました。 そんなある日、彼女からこのまま結婚するのが不安だと打ち明けられるのです。 確かにチョウさんたちとの仕事は、1週間青森に行ったりして東北6県を忙しく飛び回っていました。それでも、あまり成果の得られない月などは収入も極端に減ります。 お互いにサラリーマンの家庭に育ったということもあり、特に女性である彼女は生活の安定を第一に考えたのでしょうか。私も、彼女の氣持ちはわからないでもありませんでした。 仕事に関しては、初めて面白いと思い始めていた頃なので、正直言って続けたいという氣持ちはありました。それに、若くして会社作りに参加できるなんて、とてもラッキーだなぁとも思っていたからです。 それでも、結果的に私は彼女の意見を尊重し、また会社務めをすることを決意するのです。 チョウさん、そしてヤマさんから学んだことは、今の私のある意味ベースになっているものも数多くあり、当時まだ20歳そこそこの私に手取り足取り教えて下さったこのお二人には今でも感謝の氣持ちでいっぱいです。 私は、彼女とのことを正直に話し、再就職することを快く承諾してもらうのでした。 <社員60人の米穀会社> ご縁があって就職した会社は、仙台に本店を置き、仙台空港付近のバイパス沿いに大きな自社精米工場を持つ米穀会社でした。 市内に支店も7店舗の支店を持ち、お米屋さんとしては大きな会社でした。また、灯油などの燃料も扱っていました。 米穀業には、業務用と一般家庭用の大きく2種類に分かれますが、私が勤めた会社は一般家庭向けのお米をメインにしていました。 実は一般家庭向けとなりますと、対抗馬がスーパーマーケットのお米売り場となりますので大変です。よほど、何かの特徴がない限りは生き残っていけません。 ましてや、価格競争は大手スーパーには叶わないのです。それでも、現在のように米の流通自由化になる以前のお話ですから、宮城でしたら宮城経済連を通した地元の玄米しか取り扱う事ができませんでした。 それ以外の他県の玄米を扱うと言う事は当時「ヤミ米」を扱うことになる時代でした。 私が勤めることになった会社の社長は、お米に関しては、並々ならぬこだわりを持っている方でした。 宮城の県北に位置するある地区の農協をコンサルティングして、田んぼの状態や米の発育に関しても、田植えから稲刈りに至るまですべて指導したりしていました。 また、自社精米工場にてあみ出した昔ながらの精米技術「どうづき」のオートメーション化の実現など、当時としては画期的なものがありました。 品質管理も徹底していまして、「レイキ米」と呼ばれる残留農薬除去米にもこだわっていました。 私は、入社早々そのようなことを社長から説明を受け、とても感動した事を思い出します。 こだわりを持っているお米だけに、根強い固定客も多く、スーパーから比べても千円近く高いお米を買って頂いていました。 私自身、これまで出会ったお米の中で、これを超えるものは未だに口にしておりません。見た目は白く輝き、こしと粘りと甘味があり、本当に最高のお米でした。 今でいう無洗米のように、たとえといでもほとんど白いとぎ汁がでず、磨きもかけていましたので米粒も通常のものより小さめでした。 また、味と実績も認められ、仙台の三越へも出店していました。一坪坪にも満たないスペースで、贈答用を中心に月に6トンほどの販売実績も持っていました。 一つの事にこだわりを持ち、その道一筋に精進した、まさに匠の業とも言えるお米でした。 明日に続きます。 予告・・<結婚へ><愛娘誕生へ> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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