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テーマ:自己啓発すすめ(778)
カテゴリ:人生を楽しもう♪
<結婚へ> 日本人の主食であるお米を商売としているこの会社に就職して、また新たなる第一歩を踏み出したわけなのですが、ある日、彼女に新しく作った貯金通帳を預けた私は、毎月貯金してもらうようわずかずつですが、毎月のお給料日に彼女へお金を渡していました。 これは、私の一つの意思表示でもあり、「結婚するんだぞ」という確認でもありました。 仕事にも慣れつつあったある日、彼女が妊娠していることがわかりました。実は、すでにお互いの親にも挨拶を済ませ、翌年の式場の予約も済んだ後にわかったことなのです。 妊娠がわかったのは10月が過ぎた頃で、私が23歳になった翌月だったと記憶しています。 披露宴が翌年5月で結納式がその年の12月と、予定も決まっていましたので別に焦りはしなかったのですが、予定通り翌年5月までいってしまうと、お腹が大きくなっており念願のウェディングドレスも着られなくなるので急きょ2月に披露宴を早める手はずをとりました。 また、生まれてくる子の母子手帳の関係もありましたので、12月の結納後に入籍をしました。そして、これで戸籍上、正真正銘の夫婦となったのです。 17歳で知り合った彼女と、それはいろいろありましたが、結果、良縁となり今ここに私の子供をお腹に宿してくれたのです。 「俺の骨、拾ってくれよな。」別にプロポーズではありませんが、私は本心から彼女へそう伝えました。 翌年の2月の結婚披露宴は、両家合わせて120名程が集まっていただきました。 そして、これは自分自身ではとても恥ずかしいのですが・・・、新婦ニコニコ、新郎メソメソ状態だったのです。 まず、最初にこみ上げてきたのがウェディングケーキ入刀の時です。何とかこらえて共同作業とやらをこなしたのですが、高砂の席に着座した直後、私は顔を上げられなくなったのです・・・・。 そうです。今までの様々な思いが一瞬にしてこみ上げ、「ああ、俺たちは結婚したんだ」と思った瞬間、もうダメでした。 そして、二度目の涙は花束贈呈です。お決まりのお涙頂戴の時ですが、彼女の親父さんと私が実は一番泣いていたのでした。 <愛娘誕生へ> 当初、結婚したら二人でアパートに住もうと考えていたのですが、赤ちゃんが彼女のお腹に宿りましたので、いろいろ準備もありお金もかかります。 実は両親からの勧めもあって、結納直後から私の実家で一緒に生活するようになっていたのです。 彼女がある日、病院へ定期検診にいったところ「切迫流産の恐れがある」と診断されます。 これは体質や遺伝もあるらしいのですが、大事をとるため急きょ入院する事になりました。 しかも、結婚披露宴を1週間後に控えていた時にです。でも、そんなこと言っていられません。 治療を受け数日たって何とか落ち着いたのですが、結婚披露宴当日は夫である私が一筆書かされたうえで外出許可をとり披露宴会場に向ったのです。 そして、無事に披露宴を済ませ、友人たちが開いてくれた2次会には妻が少しだけ顔を出し、私は中座して彼女を時間までに病院まで送りまた2次会会場へ戻ってきました。 そうなのです。新婚初夜は妻が病院、私は友人と酔っ払い、と別々の夜を送ったのでした。 1989年7月14日、我が娘誕生の記念すべき日です。私と妻との愛の結晶でありこの世で一番大切な宝物です。 私は、自分の娘との初めての対面の時を今でも忘れません。あの透き通るような白く可愛らしい天使の寝顔を、誰が忘れるものですか。 後日から、仕事を早々に済ませ妻子が待つ病院へと向うのですが、病院に着くとクスクスと笑い声が聞えます・・・。 そうなんです。娘があまりにも私に似ていて、看護師さん達の間では「パパのコピー♪」と噂になっていたのです。 明日に続きます。 予告・・<辛かった灯油配達><店長へ> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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