イギリスでの誤認射殺についての雑感/日記のようなもの(340)
まずはいくつかの記事から。・<ロンドン同時テロ>あせりが大失態 誤認射殺事件・<ロンドン同時テロ>誤認射殺、ブラジル政府に衝撃・英「テロ犯射殺 貫く」・英当局、テロの実行犯2人の身元公表限られた報道情報の中から推察すると、特徴として以下の点が挙げられるかと思います。・警察は容疑者が地下鉄に乗ろうとする前に何度も別の場所で制止する機会を持っていた・警察は容疑者に自らの潔白を証明する機会を与えなかった(自爆犯に与える余裕は無いという反論については以下で触れます)・尾行し、制止しようとして結果的に射殺した警官達は私服だった(Tシャツにジーンズ姿の数人に突然銃を出されて『止まれ!』と言われたらパニックに陥って逃げ出そうとしても、おかしくは無いということ。止まれば撃たれなかった可能性も、もちろん有ります。26日に発表された情報だと、就労ビザが切れていて、それで逃げた可能性がある事も指摘されています)さて、この誤認射殺の何が問題なのか。それは以下の設問に尽きます。自爆テロを未然に防ぐ為なら、容疑者はいかなる法的保護も無視された上で、射殺されるべきか否か。これ、日本の報道だと全然問題にされてないようですが、ものすごく重い問題だと思うのです。何故か?例えば、数十人を殺した連続殺人鬼と報道されるような人々でも、裁判で有罪が確定するまでは、『容疑者』であって、とうぜん(量刑も)科刑も行われません。現行犯で逮捕されたとしても、裁判が済むまでは、「容疑者」であって、法の加護の元に置かれます。自爆テロの実行犯として誤認射殺される事の何が怖いかというと、その法的プロセスを一気にすっ飛ばして(無視して)、現場の警察官の判断のみで射殺が行えるという事です。しかも、誤認で射殺したとしても、その警察官にも体制にも、何の処罰も有りません。(あればあったで、本当の自爆テロ犯の射殺に警察官がとまどいを抱くようになってしまい、その結果さらに多くの人命が奪われるとすれば、そのとまどいを産むような法や体制は作るべきではない、という反論はもちろん一理有ります)今回の場合、具体的な争点になり得るのは、以下の点でしょうか。・自宅を出た時点でなぜ拘束(制止)しなかったのか・なぜバスに乗る事は許して地下鉄で止めようとしたのか・銃を出して「止まれ!」と言う際にも自らの身分などを証明する手立てなどはきちんと取っていたのかそもそも射殺に到るまでの前調べが容疑者に対して済んでいるのなら、寝込みを取り押さえるといった手段の方が、路上に出てから制止をかけようとするよりは、よほど容疑者の人命尊重にもなるし、自爆された際の周囲の被害もおそらく少なくて済むし、誤認射殺を防ぎ易い筈ですが、そういった再発防止措置が全くロンドン警視庁からは言及されていません。(例えば当人の留守中に裁判所の許可の元、被疑者拘束の前に、当人の不在時等に必ず家宅捜索を行ってテロとの関連や爆発物やその痕跡などが見当たったか調べて報告を義務付ける事なども重要な法的措置になるかと思います)誤認射殺された被害者の親族が賠償金を求める裁判を起こしてもし勝訴したとしても、殺された本人は生き返らないのです。そこが、この事件の一番怖い所です。即時の処刑執行なのですから。もちろん制止を受けた時に止まっていれば殺されていなかった可能性は有ります。その点を含めて、私は現場の警察官の判断や処置を責めるつもりは毛頭有りません。しかし今回のように、純粋に容疑者がパニックに陥って逃亡をはかってしまうケースは、今後も有り得ると思うのです。その時になって、「撃ち殺しましたが、自爆テロ犯ではありませんでした、すみません」で済まされるべき問題では無い、と私は思うのです。決して。冒頭のリンク先記事のように、目撃者の証言があるなら、まだ容疑者にも落ち度があったと言えるでしょう。しかし争点で挙げたのとは逆に、警察が自宅に踏み込んで、逃亡をはかった容疑者を射殺していたとしましょう。その際の証言は、容疑者を射殺した警官当人のものしか無い場合も考えられるのです。それがどのくらい怖い事か。私は心中慄いています。「自爆テロ犯かと思い射殺した」と警官が言えば、何の罪も罰則も無い社会なのです。これは決して遠い社会の出来事でも、他人事でもありません。エジプトで拘束されそうになって、テロとは無関係と判明した人もいました。警察や政府や国といった公的機関も過ちを犯します。人間一人を死刑に処するには、それが重大犯罪であればあるほど、法的なプロセスもまた慎重に行われるものです。(自爆)テロという悪しき存在が有るが故の業だ、と言い切れてしまうほど、私は自分自身を除外出来ません。自爆テロの被害者になることからも、誤認されて射殺されてしまう(もしくはそれを言い訳に使われる)ことからも。少なくとも、『遺憾の意』を表明されるだけで済まされたくは、私は、ありません。イラク戦争にしても、私が突っかかっている最大の箇所は、「誤った情報を元に動いたかも知れないけどさ、フセインて独裁者を政権から追い出せて民主的な政権が樹立されようとしてるんだから結果オーライじゃん?」とアメリカもイギリスも開き直ってしまってる所です。それは『大義名分が有れば何をしても良い』という第2次大戦前の教訓から何も学んでいない事にもつながるからです。(いやまぁベトナム戦争一つ取っても学んでいないんだろうけど。笑)ぶっちゃけ、力の理屈、は古来から何も変わっていないのかも知れません。いわく、その時々で最大の力を有する者が全てを支配し、時代を支配する理屈を作り上げる、というものです。「文句あるなら殺すぞ?」という単純極まりないものです。自由や平等というものに関しても、気の利いたジョークを聞いた事があります。それを本気で信じて求めない限り、あなたはそれを持っている、というものだったと思います。(You have it unless you actually try to deserve or enforce it.)つまりぎりぎりの線に立った時、そんなものは存在しないという事です。ぎりぎりの時に役に立たないものであれば、つまりは役立たずの存在という事です。人々の生命と財産と幸福の追求を保障する事が目的の筈の民主的政体の国家が、一人の命や、一国の主権を、何の制約も無しに反故にしてしまえるのであれば、もう怖い物無しじゃないですか。"Woops, I might have done something wrong, sorry! hehehe"で全て済ませてしまえるのなら、まさしくそれは鎖を外されたリバイアサンに他ならないと、私は思うのです。テロは理不尽な暴力で、国家の行使する武力は正義だ、なんて戯言を信じる程には幼くないにしても、民主主義のタテマエが無意味なものに過ぎないと信じるまでに擦り切れてはいない。そんな中途半端な落とし所にいる私ですが、じゃあどうすれば安心できるのか、を少しだけ考えてみました。思いつくところから書いてみます。・最低でも裁判所に事前に容疑者の拘束許可を得ておく(マスコミなどにその情報を一般公開する必要は無い)・少なくとも被害が最小限に出来る場所で、麻酔弾などの利用が可能な場合は、殺害を第一義としない。自爆テロの容疑者の「自爆行為による広範な人命と健康体への実害」を防ぐのが目的であって、容疑者が誤認で射殺された場合、それは守るべき一人の命を政府が無碍に奪った事になる。その場合家族があるなら、最大限の保障はされなければならない。・誤認射殺に到った場合でも、裁判所に提出する射殺現場の映像は残さねばならない。(その現場に容疑者と警官(又はテロ対策特殊部隊など)当事者同士しかいない場合が考えられるので)・最低でも二人以上で拘束にかかる。・容疑が決定的な場合(当人が自爆犯である可能性が非常に高い場合)でも、射殺に到るまでのプロセスを可能な限り遵守する様にする。a.交信履歴や交友履歴などから、容疑者が自爆犯(テロリスト)である可能性を裁判所に報告して、最悪の場合、射殺を含めた拘束許可を受ける。b.ただしa.で触れた射殺行為に及ぶまでは、可能な限り、本人が自宅に不在の時に、家宅捜索を行い、テロとの関連や爆発物やその痕跡などが見当たったかどうかを裁判所に報告する義務を負う。c.可能な限り、容疑者の身柄は生きて確保する。家宅捜索済みの自宅に本人が帰宅した時や特に就寝中などに、テロ容疑とは無関係な近隣住民を避難させておいてから、容疑者の拘束を目指す。路上や公共交通機関などにおいて拘束しようとするよりも周到な前準備と広範な手段が取り得るし、誤認射殺を行ってしまう可能性を著しく減じられる。d.裁判所は、提出された全ての交信記録や物証などを鑑みて、自宅や通勤先、交友先など全てから爆発物等やテロリストネットワークなどとの関わりが無いと判断された場合、可能な限り本人との接見も行った上で、警察(防諜)機関などに被疑者を容疑者リストから外し拘束を解くように命令できる。e.ただしd.の処置が行われた場合でも、警察(防諜)機関は裁判所に追加申請する形で、元容疑者の追跡や盗聴行為などを一定期間行う事が出来るが、これらの証拠品は全て裁判所に提出されなければならない。f.国民の主権の代行者たる議員は、裁判所に申請し、警察(防諜)機関の同意を経た上で、これら全ての法的措置の経過で裁判所に提出された申告や証拠や接見記録等を検証し、必要と判断すれば議会で報告できる権限を有する。(非公開委員会でも可だが、議事録は後日公開される必要がある)今回の様に、テロリスト組織にはっきりと属していない様な人物が実行(自爆)犯になる場合、彼らに爆薬といったテロ手段を渡す役がいる筈で、その経路を掴んでそこを潰さない限り、いたちごっこは続いてしまうわけです。その意味でも実行犯の射殺は現場のぎりぎりの判断に任せられるべき場面に限定すべきで、可能であれば生きたままの拘束の方が望ましい筈です。仕組みに全てを求める事も出来ないでしょうが、現場の警察官の判断のみに全てを求めるべきではありません。当然ですが、政治は、テロの発生と密接に関係しています。外交政策の修正などは、イラク戦争の支持/不支持、イラクへの軍隊の派遣の可否を含めて、基本的に選挙といった審判プロセスを通じてのみ行われ得るとしても、今回の様な誤認射殺の再発防止策はもっと現場に近い部分で修正を重ねていける筈です。目をそらさず、声をあげるべき時は声をあげる。声をあげた理由も、そして発言した対象への自分なりの解決策も自分で考えてみる。それが結局、自分や、自分にとって身近な人が、本当に万が一の確立で悲劇に遭遇した場合、それまでとその後の人生を大きく変える要素になるように、私は感じています。