秦野にある源実朝の首塚へー7、鎌倉殿13人の和田義盛ゆかりの西光寺
蓑毛の緑水庵から、帰路にある「鎌倉殿の13人の和田義盛ゆかりの西光寺」へ向かう。11月30日(水) 15:15県道70号線(秦野清川線)を下ると、小蓑毛の鳥居。カーナビの案内は、名古木交差点から国道246号を東へ走り所要時間は 9.2km、18分と。県道70号線(秦野清川線)の長い坂を下る。途中、道祖神、庚申塔があったがスルーして国道246号手前へ。国道246号の名古木交差点、ここを左折して国道を東へ進むがいつも渋滞区間である。15:35国道246号の渋滞は思った程少なく、桜坂交差点を右折して県道612号線を鶴巻温泉駅方面へ。この案内で駐車場へ入るが見落とし、再度戻り狭い道路を入る。雨沼山 幡松院 西光寺(さいこうじ)所在地:神奈川県秦野市鶴巻北2丁目13-3駐車場に車を停め、県道612号線沿いの山門へ。門前には幟が立っていた。石碑には何か刻まれていたが?雨沼山 幡松院 西光寺 所在 秦野市鶴巻北2丁目13-3源頼朝の家臣で侍大将だった和田義盛公が和田河原の合戦で討たれ、一族が全滅した時に、側室が亡き夫の菩提のためにとご持仏「阿弥陀如来」を持ってきて、三間四面の堂宇を建立し、祀られたのがはじまりとされています。今でも境内の和田家墓地には、観応二年(1351年)の銘がある五輪塔があります。 秦野市 観光振興課門前に建つ寺号標石には「幡松院 西光寺」。寺号標石の下に石仏が並んでいた。基礎が新しいので移設されたのか。山門を抜け参道を進むと、正面に木造入り母屋造りの「本堂」。参道から階段を上がり左側に「永久の郷」。新しいタイプの墓石であろうか。参道の右側には「敷石建設 記念碑」「地蔵像」。その向かい側に「六地蔵」が並んでいた。本 堂源頼朝の家来であった和田義盛が和田氏の乱で討たれ、この地に住んでいた側室の娘が亡き父義盛を弔うため阿弥陀如来を祭ったのが始まりと言われている。本堂の右側に「庫裏」が建っている。本堂の扁額「雨沼山」。本堂前に立つ念仏碑「南無阿弥陀佛」。ここにも、秦野市観光振興課「大河ドラマ 鎌倉殿の13人」の幟。秦野市では観光振興課がNHK大河ドラマ放映に伴い地域活性化を図っていると。山門方向を振り返る。宗祖法然上人八百年大遠忌法要奉修記念碑本堂の左奥にある「和田家一族の墓」。ここにも幟が立っていた。かつては墓地の後方に大木が二本?あったようだが切り倒され切り株が残っていた。本堂の裏側に廻り「和田家一族の墓」。墓地の後方は木を切り倒し擁壁工事をしているようであった。手前の墓石2番目の側面に歌らしきものが刻まれていたが?「此にまとふ 浮世のちり・・・・・」3番目の台座には「和田氏」と。観応2年(1351年)の銘がある和田家五輪塔。右側の墓石には「和田本家 代々之墓」と刻まれている。後方の木はクスノキであろうかまだ新芽が出ていた。上の写真の手前の板碑に、和田家の家系は古く、鎌倉時代 和田義盛公の一族で、西光寺の開基と口伝される。平成四年五月墓域改修にあたり記す。 第二十四代 当主 和田義男和田家一族の墓の手前には、「西光寺開山代々上人の墓石」。西光寺開山代々上人開 山 三蓮社諦誉上人幡流大和尚 慶長十年三月十九日二 世 行蓮社心誉上人岩秀大和尚 ・二十三世中興 白蓮社法誉上人 平成二十七年六月二十八日15:45本堂前に戻る。西光寺の近くには和田義盛公別邸跡に建てられた鶴巻温泉郷「陣屋旅館」がある。この後、鎌倉殿の13人 秦野ゆかりの「八声橋」へ行くことを考えたが時間が遅いので次回に繰り越し帰路についた。西光寺近くの路上にあったマンホール蓋が三つ。なぜか「カタツムリ」。中央に市章。市の花「ナデシコ」を描いたマンホール蓋。中央に「ハダノ」を図案化した市章ナデシコが描かれた汚水桝の蓋。花の数はだいぶ少ない。中央に市章。西光寺から県道612号線を進み鶴巻温泉駅東側の踏切を渡る。小田急小田原線の鶴巻温泉駅南口ロータリー15:50県道612号線の延命地蔵尊前交差点を左折。延命地蔵尊前交差点から県道612号線を進み、平塚市へ入る。16:04朝通った道を走り、愛車のジュークの累積走行距離が「100,000km」になる。購入年月日は「平成22年(2010)9月9日」で、12年間で10万キロの走行。16:22自宅近くに帰り、人だかりがあり何事かと。マスクをつけた若者が多く動き回っていた。車も渋滞、車内から撮影。フアミリーランドリーの中にも多くの人が。撮影の準備をしているようであった。アンテナであろうか。前方には機材を積んだライトバンが停車していた。16:25撮影している映像を確認しているのであろうか。どこにでもあるランドリーだが、ワンショットの映像をこんなところで撮影していることにビックリ。スタッフがここを探したのか、紹介されたのか、売り込んだのか?。急な思い付きで、源実朝の首塚を主に秦野市の史跡をめぐったが、6時間半のドライブであった。また、車の走行距離も累積10万キロとなり記念すべきドライブとなった。 END