茅ヶ崎市博物館 戦後80年企画展『戦中・戦後のくらし』(2/3)
茅ヶ崎市博物館で、戦後80年企画展『戦中・戦後のくらし』を開催してるので久しぶりに愛車のリンちゃんで訪れた。3月27日(木) 14:05茅ヶ崎市博物館所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3786-1南側のエントランスでこの通路を進むと東側に駐車場がある。右下は駒寄川。館内に入ると受付の右側に、基本展示の「5地形に応じたサマリー展示」。受付でもらったパンフレット、『戦後80年企画展 戦中・戦後のくらし』 「昭和20年、こんな時期でも恒例の浜降祭は行われた。」 『柳島のうつりかわり』より 観覧無料 令和7年1月7日(火) ~ 6月29日(日) 開館時間 9:00 ~ 17:00 (最終入館 16:30) 休館日 月曜日 (祝日の場合は開館、翌平日休)戦後80年企画展 戦中・戦後のくらし本展では、戦後しばらく経った頃の人々のくらしの様子を導入として、昭和34年(1959)に返還されたチガサキ・ビーチをはじめとした茅ヶ崎と米国とのかかわり、昭和20年(1945)8月15日の終戦の日、そして戦中のくらしをご紹介します。時代をさかのぼりながら、茅ヶ崎の人々が戦中・戦後をどのように過ごし、生き抜いてきたのかを、当時の写真や資料をとおしてご覧ください。写真左上:演習場チガサキ・ビーチの返還 ※1写真中左:茅ヶ崎駅南口で25年間走り続けた「輪タク」写真中右:茅ヶ崎駅を出発する兵士 ※2写真左下:小和田婦人会による防火訓練 ※3※1:米国国立公文書館、※2、3:『写真集 茅ヶ崎きのうきょう』より関連イベント 〈学芸員によるギャラリートーク (展示解説)〉 展示の見どころをお話しします。 日 時:1月19日(日)、3月20日(木・祝)、5月6日(火・振) 各日 11:00~ /14:00~ (各回約30分) 場 所:茅ヶ崎市博物館 企画展示室 費 用:無料 申 込:不要 館内の西側から南側にある「旧和田家住宅」を望む。館内に、『戦後80年企画展 戦中・戦後のくらし』と。基本展示室基本展示室上の段に浮世絵が飾られていた。棚の下に浮世絵の説明。左:東海名所改正道中記 九 大磯迄廿七丁 平塚 馬入川の渡し 【三代歌川広重/明治時代】 原品:藤沢市藤澤浮世絵館所蔵 渡船がちょうど平塚側の岸を離れるところを描いています。明治時代初期に描かれ たものであり、船には人力車も載せられています。右:五十三次名所図会 八 平塚 馬入川舟渡し大山遠望(竪絵東海道) 【歌川広重/江戸時代】 原品:藤沢市藤澤浮世絵館所蔵 茅ヶ崎側から相模川を挟んで平塚側を望んでいます。対岸には馬入村が描かれてお り、富士山・大山・丹沢山を遠望することができます。 左:富士三十六景 さがみ川 【歌川広重/江戸時代】 原品:藤沢市藤澤浮世絵館所蔵 相模川の上流から材木を筏にして下流に流す様子が描かれています。相模川は河川 を介した物資の輸送に大きな役割を果たしていました。右:双筆五十三次 平塚 【初代歌川広重(背景画)・三代歌川豊国(人物画)/江戸時代】 上段の風景を広重が、手前の人物を豊国が描いた、二人の合作(双筆)です。馬入川 (現在の相模川河口付近)沿いの旅籠のひとコマを描いています。 二部屋目の「サマリー展示」。相模川の水運、つながる水の道コーナー相模川の水運柳島と須賀には、江戸時代の初めから湊がありました。甲州(現・山梨県)や津久井(現・相模原市緑区)などからの林産物(材木・薪・炭など)や相模川中流域の村々からの農産物(年貢米・麦など)が相模川を下って運ばれ、両湊で廻船※に積み替えられて江戸などへ送られました。柳島と須賀の両湊は立地条件に恵まれたことから、河川交通と開運の拠点として栄えました。 ※ 廻船:貨物船のこと。帆掛け船(高瀬舟)帆掛け筏つながる水の道相模川は、古くから相模国の南北を繋ぐ水上輸送に利用される一方、橋が架けられていなかったため、東海道を往来する旅人の障害でもありました。相模川の流れは大雨などにより大きく変化し、流域に大きな影響を与えました。近世には馬入川(相模川河口域の名称)の川筋を利用し、廻船輸送の拠点となる湊が柳島村(現・柳島)と須賀村(現・平塚市須賀)にできました。近代になると、建築資材として有用な砂利が相模川で採取されはじめ、運搬は相模鉄道(現・JR相模線)で行われるようになりました。馬入川鉄橋明治5年(1872)、新橋停車場(現・汐留駅) ー 横浜停車場(現・桜木町駅)間で鉄道が開通しました。明治19年(1886)に茅ヶ崎と平塚の間を流れる相模川(馬入川)に鉄橋が架けられ、明治20年(1887)7月に横浜 ー 国府津間が開通しました。大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により、馬入川橋梁は上下線とも橋台・橋脚・橋桁・線路・信号機・鉄道通信など、すべてが崩壊しました。当時の遺構は、東海道線の車窓から現在でも見ることができます。関東大震災で崩壊した東海道本線の馬入川鉄橋。馬入川の船渡し明治19年(1886)に橋が架かるまで、馬入川を渡るには船を使うことが定められていました。中島村(現・中島)と馬入村(現・平塚市須賀)には「馬入の渡し」と呼ばれる船渡しが設けられていました。渡船料は1人10文(約120円)、荷物は馬1頭分につき22文(約260円)でした。絵は、歌川広重「東海道五十三次之内 平塚馬入川舟渡しの図」。柳島湊と藤間家江戸時代、相模川河口近くの柳島は、あたりに広がる入り江が廻船輸送の拠点となっており、柳島湊と呼ばれていました。柳島村の名主・藤間家は、この柳島湊で廻船問屋を営んでいました。幕末には、観音丸・不動丸・福徳丸という3隻の400石船(現在の単位で約60tを積める帆掛け船)を所有していたとされています。東海道歴史さんぽ、東海道コーナー東海道歴史さんぽ 関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、徳川家康は宿駅伝馬制度を定め、日本橋(江戸)から三条大橋(京)間に宿場を設置し、東海道五十三次が成立しました。江戸幕府は、慶長9年(1604)から街道の整備に取りかかり、並木を植えたり一里塚をつくったりするよう命じました。茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿の間にあり、間の宿と呼ばれました。当時の様子は江戸時代の文献や市内の神社に残されている幕末期の絵図にも描かれており、また、絵図に描かれた場所からは遺物も発掘されています。立場茶屋とは、「立場(たてば)」とは、宿場間にある休憩所のことです。藤沢宿から平塚宿までの間、三里半(約13.7km)には立場が4つ設けられ、現在の茅ヶ崎市域には、「牡丹餅立場」と「南湖立場」がありました。特に「南湖立場」は、東海道を西に向かった左側に富士山が見えることから、「南湖の左富士」と呼ばれた名所で、二階建ての茶屋が建ち並び、茶屋町と呼ばれるほどの大きな立場でした。写真:絵葉書(牡丹餅茶屋)大正時代昭和初期の東海道近世以来、交通の大動脈であった東海道(現・国道1号)は、第一次世界大戦後に自動車が普及したことを背景に改修が進められました。昭和初年の道幅の拡張工事に続いて、昭和12年(1937)には舗装工事も完成しました。自動車がたてる土埃に悩まされてきた沿道の住民にとっては朗報となりました。写真上:昭和初期の東海道 (牡丹餅茶屋付近)写真下:昭和初期の東海道 (鳥井戸橋付近)東海道東海道は茅ヶ崎市域を東西に走っており、現在の国道1号と一致しています。藤沢宿と平塚宿の中間にあたる南湖には、立場茶屋といった茶店がならび旅人で賑わいました。また、江戸幕府は街道沿いに一里塚を設けるとともに、松並木をつくることとしました。寛政10年(1798)の小和田村の記録では436本、万延元年(1860)の茅ヶ崎村の記録では1176本の松並木があったことがわかっています。また、当時は一里塚から姥島が見えたそうです。現在、市の史跡に指定され保存されています。写真右上:一里塚写真右下:絵葉書 (左富士の景) 大正時代左:初代歌川広重 「五十三次□□□□」右:二代歌川広重 「御上洛東海道 平塚」企画展示「戦中・戦後のくらし」の品物写真が展示されていた。企画展示室入口にあった、「ごあいさつ」昭和20年(1945)の第二次世界大戦の終結から、今年で戦後80年を迎えます。本展では、この節目の年に、戦後しばらく経った頃の人々のくらしの様子を導入として、昭和34年(1959)に返還されたチガサキ・ビーチをはじめとした茅ヶ崎とアメリカ合衆国とのかかわり、昭和20年8月15日の終戦の日、そして戦中のくらしをご紹介いたします。時代をさかのぼりながら、茅ヶ崎の人々が戦中・戦後をどのように過ごし、生き抜いてきたのかを、当時の写真や資料をとおしてご覧ください。また、当時の人々の「言葉」も合わせて紹介し、想いや印象を感じる展示といたしました。人間の記憶には、曖昧な点があるかもしれませんが、当時の人々の心情を知る手がかりになることでしょう。本展が、平和の尊さを感じ、過去の経験を未来に生かしていく機会になれば幸いです。 令和7年(2025)1月 茅ヶ崎市博物館銃後のくらし ~ 統制下の日々 ~銃後とは直接戦闘に加わらない一般国民、または兵士が出征した後の日本全体をさす言葉です。昭和13年(1938)、国家総動員法の制定により、すべての国民が一丸となって戦争に勝つ体制がとられるようになり、昭和14年、国民徴用令によって、女子青年層や中学生以上の学生が茅ヶ崎や寒川、平塚、横浜等の軍事工場へ産業戦士として動員されるようになります。昭和15年には生活物資の割り当て配給制(※)が実施され、それは「空気と水以外の生活用品すべてが自由に売買できなくなった」ほどでした。配給制により、人々は部落会・町内会などの組織を離れては日常生活が成り立たないようになりました。また、戦局の悪化によって出征兵が増すと、農村労働の多くを家に残された女性や高齢者、子ども達が担うようになります。農家の女性が農業に専念できるようにするため農繁期には託児所の設置と共同炊事が行われるようになりました。※配給制とは国民が自由に品物を購入することを禁止し、政府が決めた分量だけを購入で きるようにした制度。購入券は部落会・町内会を通して各家庭に配布し、指定された配 給店で割当量を購入しました。左上:西久保での農繁期託児所 昭和13年ごろ『写真集きのうきょう』より 昭和12年から、農家の仕事が忙しいときだけ開設された託児所。3~7歳の 子どもを共同で保育しました。左中:高田本在寺での農繁期託児所 昭和13年ごろ『写真集きのうきょう』より左下:町主催の乳児審査会参加者 昭和12年 『写真集きのうきょう』より右上:萩園での農繁期共同炊事(満福寺) 昭和13年ごろ 野崎富士夫氏所蔵 共同炊事は、農家の女性の炊事の負担を減らし、栄養豊富な食事によって、 健康と労働能力の増進をはかること、栄養に関する知識を得させることが 目的でした。右中:動力脱穀機で作業する農婦 昭和18年 個人所蔵 働き手は出征し、女性と子どもだけの農作業。この家の当主は戦死しました。右下:野良での昼食 (室田) 昭和18年 個人所蔵左:防空用防毒面 戦時中、毒ガスによる空襲を想定し、家庭用に備えた防毒マスクです。「防空用」と ありますが軍用ではなく、主に警防団(今の消防団に相当)や一般市民が着用したもの です。右:感謝状 昭和18年7月8日発行。昭和16年に政府は郵便ポスト、街路灯、火鉢など公共から家 庭のものまで金属類回収令をだし、兵器づくりにあてました。 そのときの供出の感謝状です。陸軍大臣の東条英機の名で発行されています。日の丸を中心に寄せ書き「□□□□君 武運長久」と。下に、「千人針の腹巻」を展示。千人針の腹巻千人針とは、「弾丸除け」としてさらしなどの布に赤糸で千人の女性が一針ずつぬい、出征兵士に贈るお守りです。この腹巻には虎の絵(虎は千里行って千里帰る)が描かれ、死線(4銭)を超え、苦戦(9銭)をくぐって生きながらえる意味を込め5銭や10銭がぬいつけてあります。右上:茅ヶ崎の空襲 昭和19年、サイパン島の陥落以降、B29による本土空襲は本格化します。茅 ヶ崎では、昭和20年2月半ばから相模湾沖まで進攻してきた米軍航空母艦から 発進する艦載機の直接攻撃を受けました。当時、南湖および萩園に砲台があり、 しばしば攻撃目標として爆撃されました。 昭和20年7月16日23時、B29爆撃機による40万本以上の焼夷弾投下によって 平塚の市街地は壊滅的な被害(※)を受けます。この空襲では平塚市街中心地を 攻撃目標としていましたが、周辺地域にもその被害はおよび、茅ヶ崎では柳島 ・中島・今宿・東海岸・円蔵から上赤羽根へかけて焼夷弾攻撃を受けました。 この空襲で、茅ヶ崎では1,000発をこえる焼夷弾が落とされ、被害は罹災者 554世帯、1,285名、住宅焼失182軒、死傷者10名、重傷12名でした。 浜降祭の次の日の夜のことでした。 ※平塚は海軍火薬廠など多くの軍事施設や軍需工場があったことから焼夷弾が 投下され、300人以上が犠牲となりました。この空襲の投弾範囲は大磯町・ 二宮町・小田原市にまでおよびました。右下:昭和20年の浜降祭 昭和13年~昭和20年の浜降祭(※)は郷土出身の出征兵士の無事を祈願し「武運 長久祈願祭」もかねました。戦争末期には神輿の担ぎ手が出征し、担ぎ手がい ないため、村によっては参加を取りやめるところもありましたが、浜降祭は一 度も中止されることなく、昭和20年にも行われました。戦時下のことで、どの ように行われたのかについては、様々にいわれており、「子ども神輿の御渡だ けであった」(『茅ヶ崎市史2資料編(下)』/茅ヶ崎市/昭和53年、「神輿を担 ぐ男手がなく、兵隊さんが担いで浜に行ったのを覚えています」(『市民が探 る平塚空襲 証言編』/平塚市博物館/平成10年))、「出征によって若者が大変 少なかったために、60歳までの人々に担ぎ手になってもらった」(『茅ヶ崎市 史5概説編』/茅ヶ崎市/昭和57年))といった記録が残されています。祭前日 の宵宮は、灯火管制下のため、灯りはみられず、暗がりの中で行われていたそ うです。 浜降祭が行われた昭和20年7月15日の翌日の夜に、空襲があり、茅ヶ崎で大き な被害がもたされました。 ※7月15日(現在では海の日)の早朝、茅ヶ崎の南湖の浜(西浜海岸)にて斎行さ れます。寒川神社をはじめ、寒川・茅ヶ崎の神輿が夜明けに集結し、禊を 行います。昭和53年 県の無形民俗文化財に指定。写真左上:新町婦人の防火訓練 昭和17年『写真集きのうきょう』より 駅大踏切付近での訓練の様子。古むしろは落下焼夷弾の消火用覆いとして使い ました。写真左下:小和田婦人会による防火訓練 昭和19年『写真集きのうきょう』より中央には出征時の幟旗茅ヶ崎の昭和20年(1945)8月15日 ~ 終戦の日とその後のこと ~昭和20年8月15日、昭和天皇による「戦争終結の詔書」がラジオにより全国放送され、ポツダム宣言の受諾と降伏決定が国民に告げられます (玉音放送)。満州事変から約15年間続いた戦争が終わりを迎え、人びとは、しばしあっけにとられてる様子でしたが、日が経つにつれ、やれやれ、戦争は終わった、身内の者や知人がみんな帰って来る、と喜びました。茅ヶ崎では戦争から帰ってきた軍人は1,919名いました。さらに、海外からの引揚者や、京浜方面で罹災した転入者の増加によって茅ヶ崎の人口は昭和20年中に6,000人増加します。こうしたなか、物資不足は食糧だけでなく生活用品のすべてにおよび、深刻な問題でした。戦時中には家庭用品の多くが製造禁止になったうえ、戦災によって焼失したため、あらゆる家庭用品が極度に欠乏しました。当時第一中学校の家庭科教諭だった女性は、戦後の苦しい生活が一段落したのは昭和25年ごろだったとして「それまでは本当に苦しかったです。少しずつ良くなっていったのですが。いつ頃といえばよいのでしょうか」(『茅ヶ崎市史現代4』/茅ヶ崎市/平成15年(2003))と回想しています。写真は、駅北側のヤミ市 昭和20年 ルイス・ハイマン氏所蔵 戦後は食料品をはじめ、生活用品を公定価格以外に売る場所がどの町でも駅周辺 にでき、これをヤミ市と呼びました。 左上:茅ヶ崎の地下壕 (軍用)・演習地マップ中央:相模湾上の連合国軍艦隊 昭和20年8月28日 米国国立公文書館所蔵8月28日、相模湾は連合国軍の艦艇で真っ黒に染まっていた。上左:チガサキ・ビーチでの演習風景 昭和28年11月 米国国立公文書館所蔵 上陸用舟艇から降りる第1騎兵師団の兵士 上中:朝鮮戦争さなかの上陸演習 昭和26年6月 米国国立公文書館所蔵 上陸演習は朝鮮戦争(昭和25年~昭和28年)前後に特に活発になり、日本全国のアメ リカ軍が来茅し演習を行ったのち、朝鮮半島の戦場へと向かいました。上右:M24軽戦車と地元少年 昭和25年ごろ 米国国立公文書館所蔵 連合軍の進駐に当時の茅ヶ崎の人々は震え上がりましたが、幸い、小事はあったもの の大きな事件は起きず、日が経つにつれアメリカ兵の紳士的な姿勢に親しみがわき、 地元との交流が深まりました。下左:演習場チガサキ・ビーチの返還式 昭和34年6月 米国国立公文書館所蔵下中:火炎放射器を手にした兵士 昭和25年6月 米国国立公文書館所蔵下右:クリスマス・ディナー、七面鳥を配る 第78工兵大隊 昭和20年12月 ルイス・ハイマン氏所蔵 アメリカ兵との交流で、チューインガムやキャンディ、チョコレート、洋酒、缶詰な ど、珍しい品々を味わうことができました。コロネット作戦昭和20年(1945)7月、茅ヶ崎では「茅ヶ崎海岸にアメリカ軍が上陸する」という噂がささやかれていました。この噂が、連合国軍のコロネット作戦を指していたことは、戦後、明らかになります。作戦名のコロネットとは馬の蹄(ひづめ)につける馬蹄のことで、関東地方も取り込む東西二つの海岸 ー 九十九里浜と湘南海岸(茅ヶ崎海岸) ー から上陸して、馬蹄のように日本の首都東京を両側面から挟み込み占領する意味があったのではないか、とされています。この作戦は日本へのとどめの攻撃として、昭和21年3月1日を予定しており、兵力100万人以上、戦車、装甲車などの車両10万両、上陸用艦艇約1,600隻の大部隊の動員のほか、毒ガスも準備していました。対して日本側は、行谷・芹沢・遠藤(現藤沢市)などに地下壕を掘って、敵が上陸し北へ進撃するところを後方より撃つ計画でした。海岸では、敵戦車が来たら爆薬を抱えた兵士が戦車の下へ入る玉砕戦術で30分足止めできればよいとされていました。戦後、相模湾に集結した連合国軍艦隊を見た時、人々はあの噂は本当だったと背筋が寒くなる思いだったそうです。アメリカ統合戦争計画委員会のコロネット作戦図 米国国立公文書館所蔵コロネット作戦は昭和21年3月1日を予定しており、兵力100万人以上、戦車、装甲車などの車両10万両、上陸用艦艇約1,600隻の大部隊の動員のほか、毒ガスも準備したと。今更ながらにアメリカ軍の物量には・・・。ララ(LARA)物資ララ物資とはアジア救援公認団体(略称はLARA)が昭和21年から昭和27年まで提供していた、食糧その他の生活必需品などの救援物資です。第二次世界大戦で困窮したアジア、特に日本・朝鮮の人々を救うことを目的に、アメリカに住む日系人の働きかけによって、アメリカの各種宗教団体を中心に結成されました。日本ではGHQの管轄下、日本政府の合意と協力を取りつけて救援活動が実施されました。当時の管轄である厚生省の報告によると、日本に届いたララ物資の総量は16,704トン、金額は今のお金に換算すると8,000億円にものぼります。物資の内訳は食糧、衣料、靴、石けん、薬品のほか、山羊2,036頭、乳牛45頭でした。この物資の20%はアメリカだけでなく、カナダ、ブラジル、アルゼンチンなどに住む日系人が集めたものでした。茅ヶ崎では、保育所などの乳児・幼児対象施設や病院で配られたほか、学校給食(脱脂粉乳)でも配られました。この資料は、松林小学校で教員をされていた寄贈者が保管されていたもので、当時、この缶は校内にたくさん置いてあったそうです。 ー 続く ー