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2009年02月01日
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カテゴリ:戦争
葫蘆島への道・2


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アメリカ軍戦車運搬船・LST



満州に住む日本人成人男子はほとんど戦地にひっぱられていった。女と子供と老人だけになった日本人は、帰る港を求めて葫蘆島への遠い苦難の道を歩いたのである。頼るべきを日本人の役人も、守るべき日本軍も事実上おらず・・

途中匪賊に襲われたり病気になったりしてかなりの人が亡くなっていった。
この道程で、日本の親たちはやむなく、わが子を捨てたり「死なせるよりまし」と観念し泣く泣く中国の農民たちに預けた。その数8000人以上といわれる。
それが「中国残留孤児」である。なんとむごいことであろう。

人類歴史上、戦地に子供だけを残してきたのは日本だけではないだろうか。
またその行程で病気になったりして動きがとれず、そのまま現地人の妻になった日本女性もかなりいたらしい。

その引揚げに当たって、日本人の世話をしたのは「日本人会」の人々だった。その代表は「高橋辰之助」という会社社長。
彼らはアメリカ軍や中国共産党と交渉、収容所や病院の手配、孤児の世話、乗船名簿などの作成などをとりしきった。

最近「高橋辰之助氏」が書いた日本政府宛の「密書」が最近発見された。それは引揚者の服の衿に縫いこんで日本に届けられた。それには餓死寸前の満州の日本人の救済願いが切々と書かれている。

しかし日本政府は何もできなかったという。敗戦国であり、中国との国交がなくなっていたから手が打てなかったというが、本当にそうだったのだろうか。国内で手いっぱいで何もしようとしなかったのではないだろうか。


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引揚者の乗船寸前になって、中国共産党は新しい中国建国のために、日本人技術者3000人を残すよう命令があったという。暗に日本国に対する賠償の意味があったらしい。

その時の選ばれた技術者たちの心境は夷かばかりだったことだろう。技術者の名簿をつくるにあったて動揺する日本人たちに向って「高崎辰之助」氏は
「天皇の命と思ってください。私が天皇にに変わって要求させていただく」と説得していったという。

無政府状態の10万の日本人を指揮し、混乱や暴動をおきなかったのはこの「日本人会」の人々の指揮であり、その働きは大きかったとおもう。
みんなの犠牲になり残された看護士、医師、技術者3000人のたちは、戦後の中国建国のために働き、3年後ぐらいには帰国されているが、そのまま中国に残った人もいるらしい。
本当にご苦労様でしたといいたい。


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*写真は葫蘆島市政府製作ビデオより



こうして1946年から5月から1948年8月まで葫蘆島からの博多港への日本人引揚はつづき、その数1051、047人。その数字を刻んだ「日本人引揚げ記念碑」が葫蘆島に建っているそうである。


葫蘆島http://www.geocities.jp/tan_2015/koroto/koro0/koro0.html

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最終更新日  2011年03月29日 16時18分29秒
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