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カテゴリ:夫の母
岐阜での生活 夫の母の文 「不死鳥はいまもなお より」 夫の勤務先である各務原飛行学校への通勤は大垣まで汽車、大垣から学校まで公用ジープを利用していた。 私達の新居は、有名な 柳ヶ瀬通りからちょっと入り込んだ静かな住宅街にあって、当時二間の一軒屋で家賃は5円10銭だった。 白米が一升1円50銭であり、夫のj給料は航空加俸を含めて150円位だったから、その頃とすれば結構高給取りだったと思う。 しかしその頃、幹部候補生の学生たちが休日には我が家に遊びにきていた。なんの慰安も娯楽もない時代、遠く故郷を離れている人たちにとっては夫は兄のような存在であった。夫の人柄を慕ってきて終日飲んで食べておおいに論じ合ったものである。 その為に、我が家の生活は決して楽ではなく、新婚当初からやりくり算段の毎日であった。私もまるで家族のような気持ちで夫とともに学生たちにサービス精神を発揮したものである。 まだ、どこかに幼さの残る若者たちが、やがて戦争という大義名分の許に、ほとんどが、あたら若い命を皇国のために散らすであろうと思うと、切ない日々でもあった。
立川へ転勤 岐阜生活にようやく馴んできて半年目に昭和16年6月初旬のこと、突然東京立川技術専門学校附きの転勤の命が下った。この勤務はテストパイロット養成指導の大任であった。 この勤務期間は短いとの事だったし、妊娠中だったので、私はこのまま岐阜で夫を待ちたいと願った。しかし、夫は頑として聞かず、家財道具の大半を岐阜駅前の懇意にしてもらった旅館に預かってもらい揃って上京することになった。 住居は仮住まいということで、国立駅に近い、風雅な松林にかこまれた学生相手の下宿やの一室であった。 ここでの生活は誠に風流で、松林で松ぼっくりを拾ってきてはコンロにくべ、ご飯をたいたりした。また毎夜襲ってくる南京虫に辟易した出来事などが懐かしい。 その頃はもう、食糧事情は窮乏を極め白米はなかなか手に入らなくなっていた。 しかし、たまの休日夫は新宿に連れて行ってくれた。 中村屋のカレーライスを食べようと長い行列に長時間並んだものだが、大きなお腹の私を優しく労わってくれた夫の愛情をほのぼのとした気持ちで思い出す。
・・・・・・・・・道子のパソコン水彩画三昧
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最終更新日
2011年08月09日 10時40分52秒
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