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昨日の記事で、人間関係のトラブルの根本解決は、自分を好きになり、自分を敬うしか無いんじゃないかという考えに辿りついた。
そして、自分を好きになり、自分を敬うとはどういうことかをその夜考えてみたのだが…。 究極的には視点の問題ではないのか?と思った。 だって、外から自分を見ないと、自分を好きかどうかなんて、わからないじゃないか。 不可能なんじゃない?とすら感じた。 例えばとても簡単な例で言えば、鏡を見て、思うより、老けていて疲れた自分を見るとガクリとなる。 こんな自分って嫌だなって。 けど、目がキラキラ輝いていた、肌がつやつやだった、とかだと嬉しい。私、満更でもないわって。 けど、その鏡が歪んでいたらどうするんだ。 顔の良し悪しは光の加減でも違って見えたりする。 同様に、私はまず頑張っている自分、努力している自分を好きになるのだろうか?と考えたのだが、 その頑張りがトンチンカンなこともあれば、努力が悲痛な思いに直結することもあるだろう。 それだけでは、自分を好きになれない。 思った通りに行動でき、自制でき、生きられたのなら、私達は自分を好きでいられるだろう。 だが、考えてみれば、私達は生まれた瞬間、思い通りにならないというストレスをうんと味わう。 実は自分を嫌いになるように誰もが仕向けられているのではないのか? 赤ん坊の時に母親が泣き声を汲み取り、世話をちゃんとしてもらった人の方が、 自己肯定感は強いのかもしれない。 けど、放って置かれがちでも、赤ん坊が少しずつ、自力で自分の思い通りに動けるようになって行くことは、ハッピーな日々に違いないだろう。 もう一つの自我が確立された時に、私達は自分を嫌いになる。 つるつるの肌にニキビが出来るようになった。 成績がなかなか上がらない。 太り始めたから、食べるのをやめようと思ってもつい食べてしまう。 ある人はそんな自分をみないように日々誤魔化しながら生きるし、 またある人は真摯に悩みすぎて命を絶つことすらある。 そもそもに私達は自分を好きになんてなれないんじゃないのか? ただ、一つ思い当たる糸口ならある。 出産である。 赤ちゃんは生まれついて、無条件で母親を信じ、必要としている。 それが程なく「お母さん大好き」という気持ちになる。 女が俗に強いのはそれでじゃないのか? 私にとっても、息子の存在はなんの疑いもなく愛することができる存在である。 すると、人は愛されて初めて自分を愛するのかもしれないし、 愛して初めて、自分を愛することができる、ということなのかもしれない。 結局答えはわからない。 自分を嫌いな気持ちから解放されるには、視点、視野の問題であろうと思う。 視点が変われば、自分は思う程悪くは無いんじゃないかと、思い直すきっかけが生まれる。 視野が拡がれば、あんなのは問題じゃないと考えるようにもなる。 もう一つは、笑っている瞬間は、自分を好きとか嫌いとかどうでもいいなって思う。 好きが前提にある気がする。笑っている時は。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.01.17 11:07:52
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